Web版 有鄰

539平成27年7月10日発行

ボーレンと船員 – 2面

志澤政勝

ボーレンは戦前の船員に欠かせない港の商売

この秋に『横浜港ものがたり 文学にみる港の姿』を有隣堂から刊行することになった。

横浜港の活動と発展を支え、あるいはその結果として生まれたもの、あるいは、横浜港から消えてしまったものや事柄を、文学を手掛かりに再現する試みである。

タイトルにあるボーレンは死語になった海事用語の一つである。戦前の船員に欠かせない港の商売だった。ここでは、本で触れなかったボーレンの生態を紹介する。

昭和戦前まで、横浜や東京、大阪、神戸、門司、長崎、函館などの主要港には船員下宿があった。横浜では花咲町、野毛町辺りに散らばっていた。港に船員のための下宿屋があっても当然と思うであろう。だが、ただ船員が寝泊まりするのではない。失業船員が、次に乗船する船が決まるまで待機しているのである。つまり、求職中の船員が下宿しているのである。船員だけでなく、これから船員になろうとする者もここを利用した。下宿屋が乗船する船を世話してくれたのである。

勤め先を捜してくれるのは下宿屋の主人である。船員の言葉でいえば、ボーレンのオヤジである。ボーレンは、下宿、寄宿舎を意味するボーディング・ハウス(boarding house)が訛ったもの。海事用語では船宿、船員下宿という。実態に即していえば、船員専門の有料の口入れ屋、周旋業、職業紹介業である。乗船が決まるまで船員を待機させるための宿泊施設を持っていることが多かった。このため船員下宿、海員寄宿所の看板を出したのである。

当時の船員は高等海員と普通海員に分かれていた。高等海員は船長や運転士(航海士) 、機関長、機関士で、官立の商船学校を卒業した人、または逓信省の海技免状を持っている海員。普通海員は海技免状を持たない水夫(甲板部員) 、火夫(機関部員) などである。普通海員にはだれでもすぐになれた。

ボーレンが扱うのは主に普通海員志望者と普通海員である。『海に生くる人々』で知られる作家葉山嘉樹は、花咲町のボーレン、林田の世話で見習乗船の後、石炭運搬船の水夫になった。葉山はまっとうなボーレンに巡り合った。しかし、こうしたボーレンばかりではなかった。

船員志望の青年が世話になり借金が膨らむ

ボーレンの上得意は、地方からの船員志望の青年だった。ボーレンは地方新聞に盛んに海員募集の広告を出して、船に乗ればすぐにたくさんの給料がもらえるが如き文面を並べた。手紙で照会するか、直接尋ねると、「海員志望者案内」などを与えて、わずかな手数料で乗船手続きができると説明する。「案内」では、大汽船に乗船して、2か月の見習いの後船員になり、品行善良勤勉ならば高等海員養成所に入れてもらえて、海技免状を取得すればゆくゆくは船長、機関長にも昇進できる、としている。掲載した写真は、高島町にあったボーレンの海員志望者向けのガイドブック。東洋第一の貿易港の横浜港には毎日多数の大汽船が入港するので、1週間くらいで船員として乗船できると宣伝している。

「海員志望者案内」帝国海員乗船周旋所 横浜みなと博物館蔵
「海員志望者案内」帝国海員乗船周旋所
横浜みなと博物館蔵

1908(明治41)年6月の東京朝日新聞はボーレン広告詐欺のタイトルで、東京・南茅場町の小森商会と横浜・花咲町の海国舎が結託して、誇大広告の海員募集で地方の青年を欺いていると、内幕を載せている。小森商会に乗船申し込みすると、通常の2倍の手数料3円、さらに実費10円の被服、靴等に17円徴収し、海国舎に引き渡す。同舎は乗船希望者を花咲町の安下宿に送り込み、乗船するまで待機させる。最初の1か月の食料費として16円巻き上げる。当時の水夫、火夫の月給は6円から17円位だったので、ほぼ1~2か月分の給料に相当する。たとえ宿泊5日目に乗船できても残額は返さない。だが、乗船できればいい方で、いつまでたっても乗船手続きできない者もいた。下宿代と小遣銭がかかるばかりで、無一文になって騙されたことに気づくのである。

あるいは、一日でも早く乗せれば一日の利得があるので、水夫希望者を火夫で船に乗せることもあった。

船員を所管する逓信省管船局は、しばしばボーレンの詐欺行為に注意を喚起した。

「海員ノ媒介ニ藉リ不正ノ手段ヲ以テ海事ニ志ス青年輩ヲ欺瞞誘惑シ不当ノ料金ヲ貪リ或ハ所持ノ金銭ヲ騙取スル者有之其奸策ニ罹リ遂ニ非常ノ窮境ニ陥リ為ニ其身ヲ誤ル者少ナカラザル」(『海員出身便覧』伊古田宗蔵著牧書房1908年)
それゆえに、1908(明治41) 年、取締りとともに公益団体の日本海員掖済会による乗船仲介の周知を各府県知事、北海道庁長官、警視総監に依頼している。

船員の雇用状況は今と随分異なっていた。普通海員の雇用期間は1年か一航海がふつうだった。雇用契約が切れれば下船する。下船すれば失業で、次の船を探さなければなかった。この時頼ったのがボーレンだった。

もちろん無料で乗船斡旋する日本海員掖済会の出張所が各港にあった。また、掖済会は乗船が決まるまで滞在する娯楽設備付の海員ホーム(有料宿泊所) も持っていた。しかし、規律が厳しく、役所的な運営を嫌う船員はボーレンを利用した。

ボーレンのオヤジは人情味があって、親切だった。一文なしで転がり込んでも泊めてくれて、小遣いも貸してくれた。居心地がよかった。そのため、下船のたびに世話になる者も多かった。だが、ボーレンが船員を厚遇し、親切なのにはわけがあった。それは船員が金蔓だからである。高い乗船手数料と宿泊料を前金で徴収し、足らなければ借金になった。乗船するまでに船員の借金は膨らんだ。

乗船後はボーレンにかわり船内強制高利貸付制度が

乗船は、形式的には船会社の人事係を経たものだが、実際は船の水夫長、火夫長と連絡を取って売り込むのである。乗船が決まると船員の借金は、その船の水火夫長に引き継がれた。水夫ならば水夫長、火夫ならば火夫長である。彼らはガジと呼ばれた。ガジが現場に出ることはめったになかった。いつもソロバンをはじいていたのである。

乗船に必要な作業服や手袋などを買う金がなければガジが貸してくれた。同時に給料の委任状と印鑑を取り上げられた。借金の利子は2割に及んだ。ガジは小遣銭がない船員に貸すだけではない、強制的に貸し付けた。借りさせられるのである。そして船内賭博である。借りっぷりの悪い奴には、昇給の遅延、強制下船、危険な作業が待っていた。ガジは一航海で部下の給料の半分を懐に入れたといわれる。一方で、ガジは会社ごとに団体を作り団結し、金を借りない者、貸金を踏み倒した脱船者、転船者の貸金継続等のブラックリストを作っていた。

この船内強制高利貸制度が存続するのは、ガジが船員の人事権と給料を握っていたからである。船員を雇用(雇入、雇止) する権限は船長にあったが、普通船員については、水夫長、火夫長に任せていた。給料も本来、船長から支給するものだが、船長は職長であるガジに一括して渡していた。彼らは貸金や昇給などを勝手に調整して水夫、火夫に手渡した。

ガジの権力が弱体化するのは、大正末期からの船員による借り倒し戦術に始まる闘争を経て、1937(昭和12)年の船員法改正による賃金の直渡しの実現以降である。

船員を食い物にするボーレンのオヤジは、ガジ上がりだった。ボーレンはガジの有力な資金源の1つだった。

高利貸しと賭博で無一文で船から放り出された船員は、また親切なボーレンを頼って転がり込み、再び借金の連鎖に嵌っていく。ボーレン、船会社の船員係、ガジがグルになって船員を搾取していたのである。船員にとっては負の不合理の構造に取り込まれたということである。何とも不条理な仕組みであった。

ガジは強欲な高利貸し、船員にとって海のシャイロックであった。とすれば、ボーレンは港のシャイロックというところか。

志澤政勝  (しざわ まさかつ)

1952年小田原市生まれ。横浜みなと博物館館長。
共著『横浜大桟橋物語』JTBパブリッシング 1,800円+税、『横浜開化錦絵を読む』東京堂出版(品切)ほか。

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