上大岡トメ
初めて会う方に、必ず聞かれることがあります。「『上大岡トメ』さんは、本名ですか?」と。お答えします。違います。東京で生まれ、横浜の「上大岡」近くで育ち、就職してからもしばらくそこで暮らしていました。ペンネームは、育った地名です。
といいつつ、かれこれ横浜を離れて20年近く。現在は山口県におりますが、未だに口をついて出るメロディーがあります。それは、「横浜市歌」。母校の校歌よりも、ハッキリ歌えるのです。でもメロディーだけ。なぜかと言うと、私は中学・高校と吹奏楽部でした。だから歌うのではなく常に演奏をしていました。中学の吹奏楽部に入部して、最初に渡された楽譜の1枚が、横浜市歌。演奏機会は、校歌についで多く、そして印象的なメロディーだったので、いまだに覚えています。
横浜市歌は1909年に作られ、歌詞を作ったのがかの森鷗外氏。作曲は南能衛氏です。
歌詞は古い言い回しが多く、当時演奏しつつみんなが歌うのを聴いてて、ところどころ「あれ、どういう意味?」という場所がありました。今回はいい機会と思って、うろおぼえの歌詞を、調べ直してみました。
横浜市歌は、最初は快活なテンポで明るい感じなのですが、途中でテンポダウンし、少々しみじみとした雰囲気になります。そこの歌詞「むかし思へば苫屋の烟ちらりほらりと立てりし處」が、わかりませんでした。
ウィキペディアで調べてみるとその意味は「昔を思えば、この横浜は粗末な家から炊事のけむりがちらほらと立つ寂しいところでした」。
なるほど、昔の横浜港周辺の寂しかったころを思い出しているから、しみじみとした曲調になっているんだ!と納得。この後、曲は再びアップテンポになり、歌詞も栄えている横浜港をたたえ、フィナーレとなります。最後の歌詞に「飾る寶も入り來る港」とありますが、この「寶」も当時は宝物と思っていましたが、そうではなく、「文物=学問・芸術・技芸など、文化の産物」だそうです。へぇー、なるほど。この歌詞だけで横浜港が当時から流行の最先端を行っていたことが容易に想像できます。
横浜市歌は、できてから100年以上たちました。今も市内の学校や市の主催の大会では、演奏されたり歌ったりされています。横浜で学校生活を送った人は、その後横浜を離れても、いまだに歌えるのかな。私みたいに。って、メロディーだけですけど。
(イラストレーター)