Web版 有鄰

540平成27年9月10日発行

有鄰らいぶらりい

夏の裁断』 島本理生:著/文藝春秋:刊/1,100円+税

学者だった祖父が亡くなり、大量の蔵書のデータ化を母から頼まれた萱野千紘は、祖父の鎌倉の家で夏を過ごすことになった。小説家の千紘にとり、本を裁断してデータ化する“自炊”と呼ばれる作業は、自分を切り取られるような不穏な行為だった。おそるおそる取り組みながら、ついにトラブルにまで発展したある人間関係について、千紘は思いをめぐらせる。

2年前、知り合いの作家の授賞式で声をかけられ、1ヵ月後にエッセイを依頼されて、千紘は、編集者の柴田と交流を始めた。彼は酔っ払っていて、初対面でいきなり抱きつかれた、波乱含みの出会いだった。柴田のふるまいと距離感のとり方はめちゃくちゃだった。話を聞くのが下手ではないが、話がどのように処理されるか分からない。ありようが軽薄で、大きなトラブルになるまでくり広げられた場当たり的な言動に振り回された千紘は、形のない傷を抱えてしまった。

傷つけられ逃げられて、過去が磨耗していく胸苦しさにさらされた女性の心理と再生を、端正な文章で描いている。人間関係の深層に切り込んだ、普遍的な物語だ。7月に選考が行われた第153回芥川賞で候補作になり、惜しくも受賞を逸したが、著者の進化と実力を示す、優れた中編小説である。

波止場にて』 野中柊:著/新潮社:刊/2,300円+税

波止場にて
『波止場にて』
新潮社:刊

昭和10年(1935)、父に連れられ、横浜の本牧にある洋館を訪ねた慧子は、3ヵ月年下の腹違いの妹、蒼と初めて対面する。山手の代官坂の屋敷に住む慧子は、横浜開港から3代続く生糸商、浅野達治の本妻の娘で、蒼は愛人・鞠の娘だった。異母姉妹の対面は、結核を患い、娘の行く末を案じた本妻のはからいだったが、母の死後、父が相模野から新たに後妻を迎えたため、慧子は鞠母娘が暮らす本牧に足しげく通い、蒼との絆を育んでいく。

慧子と蒼はミッション・スクールに進学するが、日本は戦争に突入していき、校名が和名に変わり、アメリカ人教師たちは本国に帰される。素朴で初々しかった義母の多恵が国防婦人会の思想に影響され、愛人の存在を責めたため、鞠は達治のもとを去る。母方のいとこの広也に恋をした慧子は、広也に蒼を紹介して3人で戦時下の青春を過ごすが、日本の戦況はいちだんと厳しさを増し、広也が出征することになる――。

昭和10年から現在まで、関東大震災後の横浜に生まれて力強く生きた異母姉妹、慧子と蒼を軸に描く。楚々として華奢な慧子と、鳥羽出身の母の気質を受け継ぎ、明朗で大柄な蒼。ダブルヒロインだけでなく、人物一人ひとりの姿が鮮やかに描かれた、読み応えある長編小説だ。

氷川丸ものがたり』 伊藤玄二郎:著/かまくら春秋社:刊/1,400円+税

昭和5年、現在の横浜・みなとみらい21地区にあった造船所で竣工した「氷川丸」は、総トン数1万1621・78t。第二次世界大戦前には「動くホテル」と言われた最新鋭の貨客船だった。

氷川丸の誕生は、日本の海運界興隆の象徴だった。昭和5年、神戸から米シアトルへ、53日間の初航海を行って日米両国の人々を歓喜させて以来、昭和35年の最終航海を終えるまで、氷川丸は数奇な運命をたどった。戦前はチャールズ・チャップリンや秩父宮両殿下ら名士を乗せた豪華貨客船だったが、戦時は徴用されて病院船に、戦後は復員船、引揚船になり、ふたたび外航船へと活用された。戦時中、多くの船が沈没したが、氷川丸は強運にも被害を免れた。現在は横浜・山下公園に係留・保管され、今年85歳になった。

本書は、元毎日新聞記者で、底本の刊行後まもなく亡くなった高橋茂さんの『氷川丸物語』(昭和53年刊)と、郵船OB氷川丸研究会編『氷川丸とその時代』(海文堂出版、平成20年刊)を底本にしている。戦争を知らない若い人たちへ平和の願いを込めて、新たな資料と取材による加筆を行った。一隻の名船を通し、激動の昭和史と、平和であることの幸福を浮き彫りにした、船のノンフィクションである。

モンローが死んだ日』 小池真理子:著/毎日新聞出版:刊/1,800円+税

長野県軽井沢町と佐久市の中間あたり、「花折町」の隣家と隔たれた一軒家に独りで住み、小さな文学館の管理人兼案内人の仕事をする59歳の幸村鏡子は、約10年前に夫に先立たれて以来、心身の不調に悩まされていた。友人の薦めで町内の医院を受診し、精神科の高橋智之医師の診療で快方に向かう。

「鬱ではない」と言われて気分が和らぎ、治療を終了した鏡子に戻ってきたのは、独りの日々だった。あくる年の2月、勤務先の文学館に高橋医師がやって来る。水曜から土曜にかけ、アルバイト医として横浜から花折町に通う高橋は、親しくなった鏡子の家に定期的に来るようになるが、ある日突然、連絡が途絶えてしまう。いきなり捨てられた鏡子はうろたえ、消息をたどり始める。医院を訪ねると、高橋は退職したという。何があったのか?

自分は相手のことをどれだけ知っていたのだろうか。高橋の行方を追う鏡子の行動と心理を見事に描写して、ぐいぐいと読ませる心理サスペンスだ。気持ちが繊細で生き方が不器用で、いつの間にか寄る辺ない状況に置かれてしまった人々の、心の襞と悲しみを浮き彫りにする。老いを目前にして孤独な境遇にありながら、鏡子は生きることをあきらめない。人間の強さにも踏み込んだ傑作だ。

(C・A)

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