Web版 有鄰

541平成27年11月10日発行

三島由紀夫の青春とスポーツ――没後45年に – 1面

山内由紀人

「日本の青春」と表現された昭和の東京五輪

2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催を前に、新国立競技場建設計画の白紙撤回、五輪エンブレムの使用中止など残念な話題が続いている。この平和とスポーツの祭典が、期待を裏切らないことを祈るのは私ばかりではないだろう。

記憶している人も多いかもしれないが、東京オリンピックは51年前の、昭和39(1964)年10月にも開催されている。当時、小学6年生だった私も、国をあげての熱狂と興奮はよく覚えている。敗戦から19年。東京オリンピックは、日本の戦後の復興を象徴する平和の祭典として、世界の注目を集めた。アジア初の開催でもあり、聖火は初めて東洋に渡ったのである。国民の夢はふくらみ、誰しもが成功を祈った。史上最多の94ヶ国、約7500人の選手と役員が参加した、まさに歴史的な祭典だった。

そんな気運の盛り上がりを、「日本の青春」という言葉で象徴したのは、39歳だった三島由紀夫である。三島はこのオリンピックで、「報知新聞」「毎日新聞」「朝日新聞」の三紙の特派記者を務めた。開会式の取材では、聖火の最終ランナーが聖火台に点火する瞬間に感動して、こう書いている。「ここには、日本の青春の簡素なさわやかさが結晶し、(中略)みずみずしい若さによる日本支配の威が見られた。この数分間だけでも、全日本は青春によって代表されたのだった」。開会前には、「全財産をはたいてもいいから聖火の最終走者になりたい」、とも語っていた。この言葉にはスポーツの栄光に浴することのなかった、三島の青春に対するつよい思いがある。

取材中の三島由紀夫
取材中の三島由紀夫
藤田三男編集事務所提供

当時はボクシングや剣道などでスポーツ通として知られ、行動する作家のイメージが定着していた三島だが、実は31歳になるまでスポーツとは無縁の生活だった。幼少期より病弱だったため、運動はほとんどできず、それがつよいコンプレックスになっていた。成人してからもその体質は変わらず、人気作家になってからはますます健康を害した。慢性的な運動不足が原因であると考えた三島は、30歳になって大きな決断をする。昭和30年の夏頃から全国で流行しはじめたボディビルに注目し、入門したのである。9月には自宅にコーチを招き、週に3回、1回30分ほどのトレーニングを始めた。その決意たるや相当なもので、3ヶ月後には入門前との上半身の比較写真を、メディアに公開したほどである。やがて場所を自宅からボディビル・ジムに移し、1年足らずでスポーツのできる肉体的自信を得た。ようやく三島にも青春が訪れたのである。だから特派記者としてオリンピックに参加できたことは、三島には何よりも嬉しく光栄な出来事だったのである。

ナショナリズムと平和についての思想的な転機

三島は開会式と閉会式、ボクシング、重量挙げ、水泳、陸上、体操、バレーボールなどの競技を取材して、観戦記を書いた。単に選手の活躍や試合結果を伝えるだけではなく、スポーツと人間の肉体の美しさを詩的な言葉で表現した。そして閉会式。そのドラマチックなフィナーレを、「すばらしい人間的祭典」であったと評価し、こう結んだ。「忘れがたくパセティックで、スポーツの光栄のはかなさ、青春の光栄のはかなさまで、感じさせる瞬間であった」。金メダル16個、銀メダル5個、銅メダル8個を獲得した、日本選手団を労う三島の文章もしゃれている。「世界中の人間がこうして手をつなぎ、輪踊りを踊っている感動。冗談いっぱいの、若者ばかりの国際連合――。これをいかにもホストらしく、最後から整然と行進してくる日本選手団が静かにながめているのもよかった。お客たちに思うぞんぶんたのしんでもらったパーティの、そのホストの満足は8万の観客1人1人に伝わったのである」。

しかし三島にとってオリンピックは、決して青春とスポーツの祭典だけではなかった。そのことはオリンピック終了直後の座談会における、こんな発言にみることができる。「ぼくはオリンピックでいちばん感じたのは、ナショナリズムと平和の問題でね。(中略)つまりナショナリズムと平和がうまく合ったのは、これがはじめてじゃないかな」。東京オリンピックは、三島のその後の人生を考えると、一つの思想的なターニング・ポイントであったかもしれない。

オリンピックから2年後の昭和41年12月、三島は雑誌のグラビア特集で、観客のいない冬の早朝の国立競技場を走るランナーになった。意外にも、コメントは国立競技場に対する批判だった。「国立競技場は、国民全部の体位の向上と、体育のよろこびのためにあるものだ。(中略)ここをゴルフの練習のために常時提供して『純粋に走り跳ぶ人間』たちを追い出すとは『国立』の二字が泣こう」。おそらく三島の胸には、オリンピックの感動が強く根づいていたのである。

スポーツに求めた肉体と精神の調和

三島はボディビルを生涯つづけながら、さまざまなスポーツにも挑戦した。最初の挑戦はボクシングだった。30歳を過ぎた作家が始めるようなスポーツではなかったが、当時の文壇では誰もやっていないということもあって、それが逆に三島のチャレンジ精神を刺激した。もともとボクシングが好きだったこともある。三島に「拳闘見物」(昭和24年)というエッセイがあり、そこで敗戦直後に友人と観たプロボクシングの試合でファンになったこと、それからは気分転換に一人でよく観戦に行ったことを回想している。また余り知られていない作品に、「ボクシング」(昭和29年)というラジオ・ドラマの台本もある。三島がボクシングを好きになったのは、おそらくそれが青春の特権的なスポーツであったからだ。三島は、「ボクシングはもっともよく出来た闘争のフィクションである」と定義し、「血の優雅(エレガンス)」であるとも語った。

ボディビルに励む 昭和42年9月
ボディビルに励む 昭和42年9月
藤田三男編集事務所提供

昭和31年9月、三島は日大拳闘部監督の小島智雄の門下生となって、学生たちと一緒に汗を流した。同門には、のちに全日本バンダム級王者となり、5回の防衛に成功した石橋広次がいた。石橋は頭脳的な技巧派ボクサーとして人気があり、三島とも親交を深めた。長編小説『鏡子の家』(昭和34年)に登場するプロボクサーの深井峻吉は、石橋がモデルと言われている。ボクシングで流す汗は新鮮で、生活にも充足感を与え、三島の創作への情熱を駆り立てた。この頃の三島は小説とスポーツの関係をよく論じていて、こんなことを書いている。「私がスポーツに求めているのは、さまざまな精神の鮮明な形象であるらしい」。

三島が小島監督を相手に、待望のスパーリングでリングに立ったのは、31年の暮のことである。ヘッドギアをかぶり、グローブをはめて、喜び勇んで飛び出したものの、三島はたった1ラウンドの3分間しかもたなかった。5ヶ月後の2度目のスパーリングでは、やっと2ラウンドまで。この時の様子を、石原慎太郎が八ミリカメラで撮影した。それを観た三島は、自分の「哀れな姿」に驚いた。そして己の肉体の限界を知ることとなり、ボクシングを断念する決心をした。

以後、三島はリングの外から一人のファンとして、社会時評的なエッセイの中で、ボクシングについて書き始める。たとえば東洋フェザー級王者の金子繁治と、全日本同級王者の中西清明の12回戦。壮絶な打ち合いの末に、金子が6回TKO勝ちした。何度ダウンしても立ち上る中西の不屈の闘志に、三島は感動し敗者を称えた。その文章は、「美しきもの」と題されている。そして翌年6月。中西は東洋王座を賭けて、再び金子に挑戦した。またもや6度のダウンを喫し、4回TKOで敗れた。三島は今度は「悲劇」と題し、「朝日新聞」のコラムに書いた。中西の美しく悲劇的な敗北は、三島にとっては青春の挫折の象徴だったかもしれない。

三島がスポーツ新聞に本格的な観戦記を書くのは、34年1月からである。23歳の東洋フライ級王者矢尾板貞雄が、不敗の世界同級王者アルゼンチンのパスカル・ペレスを判定で破った試合で、三島は矢尾板の快挙に喝采を贈った。その観戦記は、「スポーツニッポン」に「見事な若武者」の見出しで掲載された。青春期にあったといっていい日本ボクシングは、国民の圧倒的人気を得て、テレビの視聴率は驚異的な数字を残した。

そして60年代へ――。三島は「報知新聞」に、世界戦の観戦記を10本書いた。海老原博幸、ファイティング原田、西城正三らの名勝負の観戦記は、黄金期にあった戦後ボクシング史の貴重な証言でもある。三島は時にユーモラスに、時に官能的なレトリックで、リング上の物語を伝えた。

ボクシングを辞めたあと、三島は剣道、居合、空手といったスポーツに親しんだ。しかし日本の伝統的な武道精神は、三島の思想的美意識と深く共鳴し、作家としての生き方を大きく変えていく。三島は剣道との出会いを「運命」と語り、こう書いている。「ここに私の故郷があり、肉体と精神の調和の理想があり、スポーツに対する私のながい郷愁が癒やされた思いがしている」。

2度目の東京オリンピックが開催される2020年は、奇しくも三島の没後50年にあたる。この祭典が、青春と肉体の美しいドラマの舞台になることを、天上の三島もきっと願っているだろう。

山内由紀人さん
山内由紀人 (やまうち ゆきひと)

1952年東京生まれ。文芸評論家。著書『神と出会う-高橋たか子論』書肆山田 2,800円+税、『三島由紀夫の肉体』河出書房新社 2,800円+税、ほか多数。

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