Web版 有鄰

542平成28年1月1日発行

土方定一の影――児童生徒作品展のことなど – 2面

酒井忠康

1951年に開館した神奈川県立近代美術館・鎌倉館が、64年間の活動の歴史を閉じることになった。

「鎌倉からはじまった。1951-2016」と題した展覧会展が、3期に分けて開催され、あわせてさまざまなイヴェントが組まれた。その一つに〈学芸員今昔物語〉と称して、先輩学芸員と現役学芸員とが対談するというこころみがあった。わたしも招かれて対談相手の現役学芸員(長門佐季)と話し合うことになった。

ところが対談というより独りよがりの思い出話をダラダラしゃべってしまったのである。あらかじめシナリオのようなものを用意していたら脱線しなかったのだろうが、ぶっつけ本番だったのがいけない。「最初に担当された展覧会は何でしたか?」といわれたとたんに、半世紀前のことが鮮明に思い出されて、自分でもしまつをつけられなくなってしまったのである。

思い出というのは、いつも途中からはじまり、そしてどこにどうつながっていくかという道筋は記憶の濃淡によって決まるようだ。

美術館で仕事をするようになってしばらく経ったある日のことである。

わたしは土方定一館長に同行して、吉田小五郎氏の自宅(世田谷区上野毛)を訪れた。日本におけるキリシタン研究で知られ、また民芸運動にも関係していた人であったが、古美術や石版画のコレクターとしても知る人ぞ知る存在であった。

土方さんがあらかじめ「明治の石版画展」(1966年)を開催したい旨の連絡をしていたのだろうと思うが、吉田さんは机の上に用意してあった作品の束から数点を抜き出して、この明治の風俗画のことを懇切に説明してくれた。土方さんとのあいだにどんな話題があったのかはおぼえていない。けれども展覧会の会期や借用の概略、そして「これからたびたびお邪魔することになりますので、よろしく――」といって担当学芸員となるわたしが紹介された。一刻を過ごして辞したのだが、土方さんの鞄持ちをつとめた最初でもあったので、この日のことを懐かしく思い出したというわけである。

吉田さんは慶應義塾幼稚舎で多くの学童の世話をするかたわら『日本切支丹宗門史』の翻訳や『ザヴィエル』など多くの著作をものし、また『私の小便小僧たち』などの随筆家としても知られていて、じつに温厚で折り目正しい人柄であった。

しばらくして郷里の柏崎(新潟県)に帰られたので短いつきあいではあったが、わたしには忘れられない人となった。

そのころまでの美術館のカタログというと、モノクロ図版1枚刷りで、「明治の石版画展」も「解説」(吉田小五郎)と出品リストだけでの簡単なものであった。会期のはじめにわたしが『神奈川新聞』(1966・4・9)に一文を寄せるということになった。ところが、わたしの原稿は土方さんに三度も書き直しを命じられたもので、つくづく自分の出来のわるさを思いしらされた。

このときの苦い体験が、いまでも新聞に原稿をたのまれるとふと脳裏をよぎったりする。

ふりかえってみると、この「明治の石版画展」は、わたしの幕末・明治美術研究の端緒となったのだから妙なものである。

わたしは「裸の造形教育」という副題の『わらしのたましい』(かまくら春秋社)の著者、小関利雄氏のことを思い浮かべた。

どうしてかというと、「明治の石版画展」の前に「児童生徒作品展」を担当していたことに気づいたからである。たしかめてみると、わたしはこのときの第12回展(1965年)から20回展(1974年)までの担当者であった。毎回、先生たちの文章や生徒の作品図版を入れた薄っぺらな冊子をつくっていたが、すべて小関さんとその仲間(有志)に助けられた仕事であった。

小関さんは鎌倉の居酒屋では知らぬ人のいない存在であった。またわが方の諸先輩も酒豪ぞろいだったこともあって(下戸のわたしも含めて)よく狭い路地裏でカチ合い、いっしょになった。そんなときでも秋田なまりの小関さんの話は、いつも「美術による教育」へとかたむき、ホッホ、と何ともいえない笑みをうかべて日本の現状を憂えることがしばしばであった。

ちょっと親分肌のところは土方さんにも似ていた。多くの教え子(といってもけっこうの年配者となっていた)に慕われていた小関さんであるが、横浜国大の教授を退官して「かぐのみ幼稚園」(逗子)の保父さんになったというので話題になったこともある。園児たちからは「おじいちゃん先生」と呼ばれて親しまれていたが、そもそもは「遊び」をとおして美術に親しむ実践が、小関さんの流儀であった。だから「児童生徒作品展」でもこどもたちの泥んこ遊びの延長でいいのだといっていた。

わたしは幼稚園での現場を実際に見たことがなかったけれども、そうしたようすをかいまみる機会があった。それは「ヘンリー・ムアによるヘンリー・ムア展」(1974年)のときである。開館と同時くらいに小関さんは園児とお母さんたちとを引率して美術館にきたことがあった。鑑賞者の邪魔にならないようにとの配慮から入館者の少ない時間帯にしたのだろうと思う。

しかし、そうはいってもこどもたちに何としてもムアの彫刻に触れさせてあげたい、と考えていた小関さんの気持ちが、自然にこどもたちに通じたようで、監視の人から連絡がきて行ってみると、大きな彫刻《横たわっている人体》の空洞のなかにこどもたちが潜っていたり、そうかと思うと抱きついたりしている光景を目撃した。

この場に彫刻家がいたら歓喜しただろうなと想像した。が、それでも万が一のことがあってはいけないので、わたしは嬉しい見回り役を買って出たのである。

数年後に、小関さんは自分の幼少時についてこまかく書いた原稿に、造形美術教育にたずさわってからの体験談を加えた『わらしのたましい』を出版した。わたしは少々、よけいなお世話をしたのをおぼえているが、小関さんが自分のれっきとした画歴にどうして触れようとしないのかを不思議に思っていた。

何年かして、わたしの友人(小関さんの生徒)が、横浜国大の寮(鎌倉)に火災があって、そこにアトリエのあった小関さんの数百点の作品が焼失したいきさつを語ってくれた。

吉田小五郎氏や小関利雄氏とのかかわりには、まだヨチヨチ歩きの学芸員であったわたしを土方さんが(体裁のいい言い方をすれば)、美術館の仕事を介して厳しくも情愛をもって教育する出会いの場としたのではないかと思う。

いつも恣意的な文章を書いて叱られていたので、土方館長時代には美術館の展覧会カタログには原稿を書かせてもらえなかった。冗談まじりに「サカイは、昨日は雨だった、と書き、判らなくなると、かもしれない、と逃げるからなあ」と土方さんには冷やかされたものである。

しかし「学僕」のように接していたわたしが30歳を間近にしたときに、「休暇をとってヨーロッパへ行ってこい」と、ベルギー政府の招聘状をとり、また金銭的な段取りまでつけてくれたのは土方さんであった。

数カ月の旅であったが、帰国の報告に行った土方さんに、わたしはロンドンやオランダのライデンなどで古書店めぐりに費やした話をした。そのついでにヨークシャでハーバート・リードの未亡人とリードの墓参りをし、その墓標に「ナイト・ポエット・アナーキスト」と刻まれていたことをつたえると、土方さんは「やっとおまえは独り立ちできたな」といわんばかりの表情でニヤッとされた。ご家族と鵠沼海岸のレストランへいっしょに行ってご馳走にあずかった。

ところが、この旅でダブリン滞在をからめて書いた「辺境の近代美術」(『季刊藝術』1974年夏号)の力作(?)は合格点をもらえなかった。いま思えば、それは具体的な事実にもとづく実証の手続きに欠けていたからであろう。

こうしてかえりみると、こつこつと地味な道を生きるところに、もしかしたら美術館の、あるいは美術の森の番人の役割があるのかもしれない。気づくのが遅かったけれどもいまだに土方定一という人の影のなかにいるような気がしている。

酒井忠康  (さかい ただやす)

1941年北海道生まれ。美術評論家。世田谷美術館館長。元神奈川県立近代美術館館長。
著書『鍵のない館長の抽斗』求龍堂 2,800円+税、ほか多数。

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