Web版 有鄰

542平成28年1月1日発行

横浜とボク – 海辺の創造力

石塚英彦

昭和37年に生まれてから29歳で結婚するまで横浜の空気を吸ってきました。現在53歳、家は東京ですが今でも心が淋しくなるとパワーをもらいに横浜に帰ります。

よく人に「出身は、どちらですか?」と聞かれると「神奈川県」ではなく「横浜です。」と答えます。生まれ変ったらマリンタワーになりたいくらいボクは、横浜が大好きです。

子供の頃、海釣りが趣味だった父は、休みになると1人で海へ行き、母は、家で洋裁の内職、ボクと1つ上の兄は近所の公園で遊んだりしていました。そんな父が年に1度か2度、母とボクたち兄弟を伊勢佐木町へ連れて行ってくれる日がありました。家からバスで30分で行ける場所ですが、石塚家にとっては家族旅行くらいのイベントでした。普段地味な母も少しオシャレしてキレイだった。ボクと兄も、おそろいのシャツと半ズボンで気合いを入れての、お出掛けだ。今でも覚えていますが、伊勢佐木町で国際仮装行列があり、そこで初めてアメリカ人を見た時の驚きといったら半端じゃなかった。母は、少し後ろにさがり、ボクと兄は、まばたき出来なかった。横浜の消防局のブラスバンドの次に、米軍のブラスバンドが登場したのですが、まあ体がでかい!足が長い!タイコの音がデカイ!おそらく浦賀に黒船が来た時、当時の人たちも同じだっただろう。

パレードが終り、見物人たちが伊勢佐木町に、広がって行く。石塚家は、行き先を父に任せていたのでボクらは楽しみに父に続いた。すると父は、ペコちゃん人形の前で立ち止った兄を見て、不二家に入ってくれた。今は、もう無いが当時は、3階が中華だった。一家そろっての外食。みんな笑顔だった。ボクと兄とどっちが父のとなりに座るか迷ったが一早く兄が母のとなりに座った。見た事も食べた事もない料理が次々とテーブルに運ばれ、父もちょっと自慢気に料理の説明をしてくれた。

それからというもの、ボクは何か特別な食事というと伊勢佐木町の不二家に行く。20歳の時、劇団ひまわりに入り、かみさんと知り合い、その初デートも横浜。食事は不二家だった。ボクが「アメリカンハンバーグとライス大盛り。」と注文すると、かみさんが「私も。」と言った。それが結婚の決め手となった。女性でライス大盛りを食べる人なんて初めて見た。とにかく伊勢佐木町には欲しいものが何でもあった。困った時は伊勢佐木町なのである。小学生の時、鉛筆に金色で名前を入れてもらった有隣堂。中学生の時、オシャレなトレーナーを買いに行ったイシカワ。高校生の時、柔道部の部活終りに急いでバスに乗り、最終の回の映画を観たピカデリー。ちなみに、そこで観た「ロッキー」というシルベスター・スタローンのボクシングの映画がキッカケとなり、ボクは、芸能界を目指す事になる。そして入団した劇団で、かみさんと出会う。ある意味、横浜がボクとかみさんの仲人だ。そんな横浜を忘れるわけにはいかない。

戸籍では横浜から離れてしまったが、心は横浜在住だ。小学校の写生大会で描いた氷川丸は黄緑色だった。みんなで上ったマリンタワーは赤と白だった。蒸気機関車D-51を見に行った貨物の引き込み線も、今では、みなとみらいだ。大好きな横浜だから、みんなに知ってもらいたい。だけど、ちょっと心が寒い。そもそも海外から新しいものを取り入れ変化を続ける港町。でも根底にある「横浜の空気」だけは守って欲しい。来月も、帰ります。頑張れ横浜。

(タレント)

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