Web版 有鄰

543平成28年3月10日発行

相模湾、海の中の八景 – 2面

藤岡換太郎

相模湾の潜航と研究

私が初めて海洋の調査を始めたのは、東京大学大学院博士課程の学生であった1974年5月のことでした。調査海域は相模湾でした。それまで私は岩石学を専攻し、陸上の三波川変成帯を研究していました。修士課程を終えて岩石学から海洋地質学へと転向しました。海洋を何も知らない私達のために訓練を兼ねた航海があった時でした。船は東京大学大気海洋研究所(東大海洋研)の淡青丸(256トン)でした。その時は相模湾は天候もよく、多くの仕事ができました。

その後、東大海洋研の職員になり相模湾で仕事をする機会が何度かありました。手石海丘の噴火直後、初島の周辺で海底の大きな変動を見つけました。相模湾は大島や伊豆半島、房総半島で囲まれているとはいえ、荒天時には波も荒く、避難しなければならないこともありました。思い出深い出来事は、荒天時の夕食に私の大好物のうな丼が出た時のことでした。私は船酔いとは全く縁がなく、どんな荒天でも何ともないのです。この時は誰もうな丼を食べられなくて、私が皆の分を全部平らげて、「いやあ海はいいなあ」と思った次第でした。

私が潜水調査船で初めて深海に潜ったのもやはり相模湾でした。東大海洋研時代に「しんかい2000」による第167潜航で、三浦海底谷から三浦海丘へ潜りました。パイロットは井田正比古さん、コパイロットは田代省三さんでした。1985年5月23日でした。この時は再び同じ海域で一緒に航海できるとは夢にも思わなかったのですが、二十数年後にその機会は訪れました。

海洋科学技術センター(現海洋研究開発機構=JAMSTEC)が1989年「しんかい6500」(以下6K)を建造し1990年から運航を開始しましたが、これを使って仕事をするかなめになる研究者を求めていました。そのような矢先に私が招かれて東大海洋研から海洋科学技術センターへ移りました。1991年8月のことでした。私はこの直前までKT91-6という航海で相模湾の調査研究を続けていました。JAMSTECでは日本周辺の海溝から始めて、大西洋や東太平洋そしてインド洋など世界の様々な海域に出かけて潜航しました。その間の17年間は相模湾へは一度も行かなかったのです。最後の潜航は6Kの第969潜航で場所はパラオ海溝でした。もうこれで潜航することはあるまいと思い、海の研究ともおさらばで、もはや引退かと考えていた時に思いもよらない話が舞い込んできたのです。

再び相模湾へ ― KO-OHO-O航海 ―

私が再び相模湾へ戻ってきたのは2008年のことでした。その時、私はJAMSTECの広報活動に科学的な面からアドバイスをする立場にありました。それまでは地質学にばかり気を取られていたのですが広報という観点から相模湾を見直して見ると、単独の学問だけではあまりにも狭く、かえって何もわからないということがわかりました。そのために生物学、化学、物理学、地学など自然科学のあらゆる分野を融合したようなチームを作って、いわば博物学的に相模湾をとらえることが重要であると考えるに至ったのです。そして研究者と博物館や水族館の人たち、さらにJAMSTECの広報課員、潜水船のパイロット、作家なども含めた広範な人たちで相模湾の中を覗いてそれを広報するような会を作ったのです。作家の藤崎慎吾さんとパイロットの田代省三さんと私の3人は2003年に『深海のパイロット』(光文社新書)という本を書いていますが、図らずも2008年の航海では一緒に乗船しました。

この会の名前は広報活動にちなんで「―KO-OHO-O航海―(コオホオ)」としました。それは英語の文字を組み合わせてKey Observation and Outreaching of the Hidden Ocean and Organisms としたのです。―KO-OHO-O航海―航海は2008年、2010年、2012年そして2014年と都合4回持たれて、成果を上げることができました。この会では無人探査機の「ハイパードルフィン」を使いました。岩石はマニピュレータで、生物はスラープガンという電気掃除機のようなもので吸い込んで採集しました。堆積物はMBARIコアラーを用いました。この航海での成果はJAMSTECの一般公開での展示やサイエンスカフェ、さらに小話などと称したお話会や学会での発表や論文などです。博物館や水族館でも持ち回り的に展示や講演会などをも行ってきました。

工夫を凝らした広報活動

広報課での仕事をしていた時に相模湾の映画を作る話が出ました。相模湾の初島にはJAMSTECの資料館があります。そして島の、全校で11名(2008年当時)の初島小・中学校とは親しくしており、出前授業などをやっていました。資料館のリニューアルの折にこの学校で授業をし、島の人たちには相模湾の講演をしました。これに貢献したのがJAMSTECの萱場うい子さんでした。彼女が生物関係の展示や小中学生への授業をし、映画の時も生物の話をしました。現地で撮影があって、資料館ではシロウリガイなど生物の説明を萱場さんが行い、真鶴半島や「葉山しおさい博物館」では私が相模湾の不思議などの話をしました。

相模湾の航海で入手したものを活用して、どのように一般の人に相模湾の科学的なおもしろさを伝えるかということについて、JAMSTECの本部や横浜研究所(地球情報館)の一般公開で行ってみました。無人探査機「かいこう」の整備場の床に相模湾の大きな海底地形図を貼って、相模湾の地形の説明を行いました。ブースでは生物や岩石、堆積物などの実物の展示とパネルを使った解説を行いました。またサイエンスカフェと称して30分くらいの話を博物館や水族館の人たちにしてもらいました。翌年にはほかの部署でもサイエンスカフェが流行り出したので今度は短い話、小話をやるようにしました。

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相模湾の深海四季屏風

いろいろ試行錯誤をしているうちに思い当たったのが「相模湾八景」です。これは、最初はパネルなどで展示していましたが、最後は屏風にまでなりました。金沢八景は神奈川県では有名ですが、さすがに海の中まで八景にしようという人はいなかったのです。

小話やサイエンスカフェ、講演、学会発表など断片的に行っていてもどうしても全体がわからないし知るための時間が少ないので、何かこれらをまとめたものがあればということで、これは本にした方がいいと思い至りました。

まだまだ分からない相模湾

相模湾は深いところでは水深2000メートルにもなります。ここへはおいそれと素潜りで行くわけにはいきません。そういった場所へはグラスボートで海を覗き込む観光船があります。沖縄では「もぐりん」という半水没型の観光船で、水深2~3メートルのところを見て回れる船がありました。これには30名ほどの人が乗れて海の中を垣間見ることができます。現在では水深500メートル~1000メートル程度であれば20~30名の人が乗れる潜水船を作ることも可能です。こういう船ができれば深海の生態系や岩石や堆積物を眺めることができます。そのような船が実際にできるかわかりませんが、その船に代わって深海を垣間見ようというのが「相模湾八景」なのです。

様々な意味で、相模湾は私の海洋研究へのマイルストーンだったのです。つまり、海洋地質学者である私が生まれ育ったのは相模湾であったと言えます。明治以来、相模湾はいろいろな研究者によって研究されてきましたが、何もかも分かったかというと、実は何もわかっていなかったのです。相模湾の研究が始まってから現在までに一体どのようなことが研究され、どのようなことがわかってきたのかが書かれているのがこれから出版予定の『相模湾(仮)』です。多くのことがわかってはきたのですが、まだまだ分からないことも山ほどあります。それが相模湾なのです。ぜひ一読されて相模湾を味わってみてください。

藤岡換太郎  (ふじおか かんたろう)

1946年京都市生まれ。神奈川大学非常勤講師。元海洋研究開発機構特任上席研究員。理学博士。
著書『川はどうしてできるのか』講談社ブルーバックス 860円+税ほか。

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