Web版 有鄰

544平成28年5月10日発行

二階堂のホタル – 海辺の創造力

小川 糸

大人になったら住む場所を好きに選べるのに、そして物書きの私はより自由にどこでも仕事ができるはずなのに、18歳で上京して以来、ずっと東京に住んでいる。だから、自宅のリフォームをするので家をあけなければならなくなった時、それならいっそ、大好きな鎌倉に住んでみようと思ったのだ。

鎌倉の地名には風情が残る。小町、浄明寺、御成、西御門、佐助、材木座。パッと思いつくだけでも、それぞれに歴史を感じる。その中で、私が住んだのは二階堂という地区だった。鎌倉は海の町という印象が強いが、私が選んだのは、緑の生い茂る山の方である。

鎌倉で仮住まいをはじめて最初の日。段葛に面した蕎麦屋で夫と「引っ越し蕎麦」を食べてから、仕事のため東京に戻る夫と別れ、私はひとり二階堂の家に戻った。その時の道の暗さが忘れられない。東京だったらあり得ない暗さで、まるで深夜のように、町が静まり返っているのだ。人通りもほとんどなく、夜の8時を少し過ぎたくらいで、すでに町全体がしっかりと眠る準備をはじめている。

鎌倉で何より新鮮だったのは、この、昼と夜のメリハリだった。朝は太陽と共に起きだして元気よく活動し、夜になったら夜そのものの闇や静寂を楽しむ。昼には昼、夜には夜の顔があり、夜を無理やり昼の明るさで照らそうとしない。都会での暮らしで忘れかけていた、人間本来の感覚を思い出すようだった。

鎌倉に住んでいたのは数ヶ月ほどだが、鎌倉の空気を自分の体に取り入れられた経験は、とても大きい。そして、この時の日々を元に書き上げたのが、『ツバキ文具店』である。

主人公の雨宮鳩子は、鎌倉で文具店を営むかたわら、頼まれると代書仕事を請け負っている。依頼者が自分ではうまく書けない手紙を、その人になりきって代書するのだ。時には、借金の申し出を断る手紙や、絶縁状を書いたりする。その度に悪戦苦闘する鳩子を、鎌倉の人々や食べ物が、温かく見守る。中でも、お隣に住むバーバラ婦人の存在は、とても大きい。この本は、ご近所さんとの友情を育む物語であるとも言える。

鎌倉で仮住まいをはじめて、数日後。夜、薄暗い夜道を家に向かって歩いていると、橋の上に数人の人だかりができていた。橋といっても、二階堂川にかかる小さな橋だ。その上に、人々が集って川面を見つめている。

何だろうと思って近づくと、ホタルがいるとのこと。私も橋の上から川を見下ろした。すると、小さな光がスーッと流れ星のように横切るのがわかった。その瞬間、橋の上に集った人たちが、笑顔になる。鎌倉での仮住まいを思い出す時、真っ先に脳裏に浮かぶ場面だ。縁あって同じ場所に住むご近所さん達が、かすかなホタルの光を見て共に感動する。

私のもっとも好きな鎌倉のこの思い出は、物語の最後の最後に登場した。鎌倉には、ほがらかで健やかな、明るい気が流れている。今も、鎌倉が大好きだ。またいつか、住んでみようと思っている。

(作家)

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