Web版 有鄰

545平成28年7月10日発行

あのころの横浜――『横浜1963』をめぐって – 1面

伊東 潤

生まれ育った思い出深い横浜

1960年に横浜市中区で生まれた私は、今でも同じ場所に住んでいる。本音を言ってしまえば、横浜が好きだからというより、流れに身を任せ、そのまま住んでいると言った方が正確だろう。

だが55歳という年齢になり、さすがに昔の横浜が懐かしくなってきた。平成に入ってからの横浜は大きな変貌を遂げ、昔の風景が、どんどんなくなってきたこともある。とくに米軍関連施設は、残っていたとしても住んでいる人はほとんどおらず、今では、どこも寂れた雰囲気を漂わせている。

うちの墓は根岸共同墓地にあるのだが、かつては隣接する米国人住宅に住む子供らが侵入しては墓石を倒したり、供えてある茶碗を割ったりしていた(キリスト教が一神教であることを思い知った)。ところが金網一枚隔てただけの米国人住宅は今、廃墟寸前の様相を呈している。それが日本古来の風景ではないと分かっていても、そうした変貌に、少し寂しさを感じてしまう今日この頃である。

本牧米軍住宅 1972年
本牧米軍住宅 1972年
横浜市史資料室蔵

米国人住宅と言えば、やはりArea―1やArea―2と呼ばれていた本牧周辺の米軍根岸住宅地区が思い出深い。

実は私の本籍は、本牧十二天という、かつての米軍接収地の中にあった。その後、区役所から本籍地を変えるよう促され、現住所に変えたのだが、「横浜市中区本牧十二天73」という本籍地の呼び名の格好よさは、ちょっぴり自慢だった。

アメリカ文化を目の当たりにした少年時代

当時の本牧はアメリカそのものだった。米兵とその家族が、いかにも幸せそうに行き交う町角は、アメリカがそのまま引っ越してきたかのような錯覚を覚えた。小港にあったPX(Post Exchange)は夜遅くまで灯りが消えず、いつまでも賑わっていたように記憶している。今は亡き柳ジョージ氏が『FENCEの向こうのアメリカ』で歌った光景そのままに、まさに本牧は日本にあるアメリカだった。

ただし高度成長期に少年時代を送った私でも、本牧に行くと、日本の貧しさを身にしみて感じることがあった。高いフェンスの向こうには緑溢れる芝生が広がり、白人たちが、いかにも幸せそうに暮らしていた。BBQの煙が漂い、ビールを片手にした上半身裸の男たちが楽しげに談笑しているといった光景は、日曜になれば、そこかしこで見られるものだった。彼らは、われわれよりもはるかに裕福そうに見え、その中でどのような生活が展開されているのかは、『奥さまは魔女』や『アイ・ラブ・ルーシー』といった米国のテレビ番組を見て想像するしかなかった。

それでも日々、豊かになる実感を持てた1970年代は、そんなコンプレックスを忘れさせてくれた。だが、われわれ日本人の少年が現実を知るのは、フェンスの上に厳重に張りめぐらされた鉄条網を見た時である。それは拒絶の象徴であり、「お前らは、ここから先には入ってはいけない」「お前らは戦争に負けたのだ」ということを、見る度に思い出させられた。「ここは日本なのに、なぜ入ってはいけないのか」という疑問を感じたのは、中学生になってからだが、そのまがまがしい鉄条網は、普段はにこやかな米国人の別の一面を見せられた気がした。

それでも何かのイベントがあると、中に入ることができた。Area―Xと呼ばれる根岸住宅地区では、ほんの数年前まで夏の終わりにフレンドシップ・デーがあり、何年か続けて行っていた。生まれたばかりの子供を連れていくと、若い米兵が「抱かせてくれ」と言って私の息子を抱き上げ、「本国に同じくらいの年の子がいるんだ。会いたいな」と言って涙ぐんでいた。

それよりはるかに昔のことだが、Area―1と呼ばれる本牧の接収地の中にアメリカン・フットボールの競技場があり、米軍チームが日本人チームを呼んで、よく試合をやっていた。

当時、中学生だった私は、友人を誘って何度か試合を見に行った。競技場の中は閑散としていたが、そこだけで食べられる巨大なホットドックが150円で売られており、それだけで満腹になったのを覚えている。

70年代のアメリカン・フットボールのブームは、今では考えられないほど凄まじく、「アメリカに行くか、アメリカを呼ぶか」という豪快なキャッチコピーと共に、ジャパン・ボウルなどの大学フットボールのオールスター戦が毎年、日本で開催されていた。

しかし、後楽園球場や国立競技場で行われるそうしたイベントには、いっこうにアメリカを感じさせるものはなく、やはりアメリカは、本牧のあの競技場にしかなかった。

空から見た横浜駅周辺 1965年頃
空から見た横浜駅周辺 1965年頃
横浜市史資料室蔵

子供の頃からそうした外国文化を目の当たりにしていた私は、いつか当時の横浜を舞台にした小説を書いてみたいと思っていた。1960年代前半の雑然とした横浜の空気を再現したかったのだ。それだけ、当時の横浜は不思議な魅力に満ちていた。

その機会がようやく訪れ、このたび『横浜1963』を上梓できた。

これまで歴史小説しか書いてこなかった私としては新たな挑戦になったが、書き始めてみるとスムースに筆が走った。やはり、よくも悪くも横浜への思いがたまっていたのだろう。

とくに今回は、視覚、聴覚、嗅覚、感覚に関する表現を駆使して、1963年の横浜を再現することに力を入れた。「文字の力はバーチャル・リアリティに勝る」ということを唱えてきた私としては、読者に鯨取りの船に乗っていただき、長篠の戦場で戦っていただき、利休の茶室で茶を喫していただいたように、1963年の横浜に行ってもらうことを心掛けた。それゆえ行間には、当時の雰囲気が息づいているはずだ。過去の横浜を知っている読者も、知らない読者も、それぞれの横浜を脳内に再現できると思う。

新作『横浜1963』に込めた思い

さて内容についてだが、この物語は日米2人の男が、連続殺人事件を通して“友情らしきもの”を培っていくという話である。一種のバディ(相棒)物だが、それが日米両国の寓意になっているのは言うまでもない。しかも「白人にしか見えないハーフの日本人」と「日本人の血しか流れていない米国人」という裏返しのような2人が、一つの目的に向かって力を合わせていくという展開だ。

横浜1963・文藝春秋刊
『横浜1963』
文藝春秋:刊

物語の冒頭は長崎県の佐世保から始まる。そこで1人の女性が殺され、海に捨てられるというプロローグを経て、横浜港からも女性の死体が上がるシーンへと移っていく。女性2人の腹はネイビーナイフで切り裂かれていた。しかも付近の埠頭には、見慣れない外車が止められていたという目撃情報もあった。

神奈川県警は捜査に乗り出すが、米兵による犯罪の可能性が漂ってきたとたん、及び腰になる。だが、何もしないわけにはいかない。県警としては外事課のソニーに通り一遍の捜査をさせ、それで幕引きにしようと考えていた。

そうした空気を感じ取ったソニーも、初めは捜査に乗り気ではなかった。しかし被害者の過去を知るにつれて共感を抱き、次第に捜査にのめり込んでいく。そして米軍の協力を仰ぐため米軍横須賀基地に出向き、ショーンという日系人SP(Shore Patrol)と出会い力を合わせて犯人を追い詰めていくことになる。

私は、この作品の中に多くのメッセージを込めた。現在、世界は中国やロシアといった覇権主義国家の台頭によって混迷を深め、これまで以上に日本は、同じ民主主義を国是とする米国と密接な関係を保っていかねばならない時代になった。

だが戦後、日米はどのような関係にあったのか、詳しく知る人がどれだけいるだろう。とくに駐留軍と共存してきた日本の庶民が、彼らに対して、どのような感情を抱いていたかについて書かれたものは極めて少ない。

そうした感情部分を盛り込めるのは、小説ならではの利点でもある。主人公のソニーが過去を回想するシーンでは、傷痍軍人が出てくるのだが、私が子供の頃は、多くの傷痍軍人が身近にいた。彼らは空き地や公園で、われわれ子供を集めては様々な話を聞かせ、また思いのたけを吐露してくれた。

そうした巷間に生きた人々の息遣いを聞き、そこから、これからの日米関係はどうあるべきかを、読者個々に考えてもらいたいのだ。

『横浜1963』が、そのきっかけになってくれれば、作者にとってこの上ない喜びである。

伊東さん
伊東 潤 (いとう じゅん)

1960年神奈川県横浜生まれ。作家。著書『巨鯨の海』光文社文庫 700円+税、『天下人の茶』文藝春秋 1,500円+税、ほか多数。

写真・松山勇樹撮影

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