Web版 有鄰

546平成28年9月10日発行

私と丹沢――自然豊かな丹沢を繋ぐために これまでと、これから – 1面

中村 道也

終戦直後、父が設立した「丹沢ホーム」を受け継いで

丹沢という山を知っていますか。東京や横浜から富士山を見ると、まるで富士山を守るように連なる、番兵のような山なみです。神奈川県のほぼ中央から西は静岡県、山梨県の県境まで広がる神奈川の緑の大地です。

丹沢・三ノ塔から望む富士山
丹沢 三ノ塔から望む富士山

神奈川県の人口は900万人を超えますが、国定公園の丹沢には大型野生獣のクマやシカが棲み、翼を広げたら畳1枚もあるかと思う、絶滅が心配される大型猛禽類のクマタカも生息しています。また、県民の飲み水のほとんどが県内供給です。まさに、丹沢は自然の恵みの宝庫です。私はその山の中で、丹沢を訪れる人達をお世話する「国民宿舎」を経営しています。宿舎の名称は「丹沢ホーム」といいます。設立は昭和22年(1947)、ちょうど私が生まれた年です。

日本は第2次大戦の敗戦直後で、世の中は今日食べるものもない時代でした。当時、東京の渋谷教会の牧師だった父は、戦災孤児や、外地からの引揚者、あるいは戦場から復員し自暴自棄になっている人達を受入れ、この丹沢に住むようになりました(中村芳男著『丹沢・山暮らし』どうぶつ社)。丹沢ホームという名称の由来は、いつでも誰でも訪ねることが出来る、そういう意味で付けられました。どの子も分け隔てなく、という両親の教育方針から、私が物心ついた時は、誰が両親で誰が兄弟か解らないような雑居生活でした。

丹沢ホームがある札掛集落の住民は、林業や炭焼きを仕事とする人達でした。社会から隔絶されたような山奥でした。父は集落の子供達にも学校教育が必要と、行政に直訴し、丹沢分校という小さな学校が出来ました。私が入学した頃は、小学生と中学生を合わせて40人ほどの生徒が居ましたが、正式な先生は一人だったと記憶しています。当時の日本は程度の差こそあれ、国民の多くが貧乏な生活でした。林業や炭焼きなど、経験のない我が家の生活は、苦労の毎日だったと想像します。でも、丹沢の麓には、様々な形で我が家の生活を助けてくれる人達が大勢いました。私も、子供ながら、その方たちの記憶は鮮明に残っています。

衰退しつつある丹沢の自然環境

世の中が少しずつ落ち着いてくると、丹沢を訪れる登山者が増えてきます。役所や大きな会社は、土曜日が半ドンでしたが、当時は、週休2日や有休制度のない時代です。ほとんどの会社は日曜だけのお休みでした。そのため、土曜日の夜は、会社の終了時間に合わせるように、新宿駅は丹沢に向かう人たちで大混雑だったといいます。新宿駅からは、登山口のある大秦野駅(現・秦野駅)や渋沢駅停車の、現在のロマンスカーのような、ノンストップの「丹沢号」が出ていました。それを利用する登山者は、我が家に深夜1時~2時頃に着きます。当時の登山者の「足」の速さは、いまのトレイルランニング並みです。大きなザックを担いで蓑毛から60分で来る人が大勢いました。私は眠い目を擦り、母と一緒にお湯を沸かしながら登山者を待ちました。夜中でも開け放したままの玄関に、「ただいま~!」と威勢よく飛び込んでくる登山者。「おかえりなさい」と迎える母と私。登山者は、ひとしきり母と話すと、お茶を飲み、お風呂へ飛び込み、そして、1週間の仕事の疲れから、布団に潜り込みます。そして、わずかな仮眠の後、「行ってきま~す」と、山頂を目指しました。当時の我が家とお客さんの挨拶は、「ただいま」と「お帰りなさい」、「行ってきます」「行ってらっしゃい」でした。丹沢ホームに来る人は、みんな家族のようでした。

我が家の生活は昭和40年代に入っても相変わらずの貧乏暮らしでしたが、世の中は経済的に少しずつ安定してきます。わずか2~3年前に、「オマエはよくこんな所に住んでいるな~」と言ってた友人が、「オマエはいいところに住んでいるな~」と言うようになりました。高度経済成長の総仕上げともいうべき都市の再開発が、わずか数年の間に、人間の周りから、緑や水という潤いをなくしていきました。

都市に限らず、全国の至るところで観光開発が進み、自然環境が失われていきましたが、東京や横浜から50キロ圏内に位置しながらも、多くの野生動物が棲み続ける丹沢は、守らなければいけない、現代の奇跡のように感じます。しかし、その丹沢も、近年になって、豊かさを失いつつあります。地球規模の気候変動もありますが、自然環境の荒廃は、そのほとんどが人の関わりから生まれています。複合的な大気汚染によるブナの立ち枯れ。土壌の流出や植生の後退。野生動物だけ見ても、生息環境は劣悪といえます。神奈川県では1993年と2003年に、丹沢の総合調査を、市民参加で実施しました。その調査報告から見えたのは、予想以上の自然環境の衰退と、その速度でした。ブナの立ち枯れは、人が作り出したオゾンが影響しています。下草植生の後退は、シカなど草食動物の採食圧の影響ですが、それは、野生動物が本来の生息地を追われた結果です。様々な生き物の生息環境の悪化は、経済利益を優先した森林管理、防災のみを考えた河川改修工事などからも窺う事が出来ます。「人」が「人」の利益だけを考えた自然の改変は、生態系を攪乱し、多様性の喪失に繋がることを知りました。悪化した丹沢の自然環境。いつの日か、豊かな自然を取り戻すことが出来るのでしょうか。

様々な生き物が生息する森を守るために

丹沢に生息するクマ
丹沢に生息するクマ

もともと臆病なクマは人間を避けて生活をしています。しかし、杉や檜の人工林の増加と、自然林の荒廃でクマの餌環境は悪化し、餌を探すうちに「人」と遭遇することがあります。一時期、我が家の養魚場にも、毎夜、クマが出没した事がありました。県の役人から、「獲るのは簡単ですが、どうしますか?」と聞かれました。私が養魚場を始めてから20年。クマの先祖は、私よりずっと昔から丹沢に住んでいます。私は、クマが養魚場からいなくなるまで我慢する事にしました。まさに、クマと私の根競べでした。そうは言っても、麓に住む人達や登山者に、同じ考えを強いる事は出来ません。それでも、たまたま運悪く「人」と出会ったクマが、理由もなく、殺されるのは哀れです。クマが不幸な一生を終えないためにも、クマが安心して生活できる自然の森が必要です(自著『わが家の野生動物記』大日本図書)。

現在、私が代表を務める自然保護団体は、1960年に父が組織し設立しました。その後、「子供達が成長する過程で、身近な自然環境は不可欠」と、考える父の意思から、1972年に子供達を対象に自然環境を学ぶ「森の学校」を併設しました。

私は23年前、当時、丹沢で調査研究をしていた東京農工大学の古林先生の指導で、全国に先駆け、遺伝子を基本にした森づくりを始めました。植裁する苗は丹沢で採取し育てた苗を使います。

クマは森をつくる動物と言われますが、なぜ、そう言われるのか、いま、森の学校の生徒達に、森づくりの初歩を実践させます。丹沢の森で拾ったクマやテンなどの糞を水で漉し、残ったものを植木鉢に移します。わずか3~4ヶ月後、春になると植木鉢から様々な樹種の芽が出てきます。そこから、クマやテンが何を食べているのか、何が好物なのかが解ります。自然の中では、クマが餌を食べ排泄すると、そこから芽が出ます。クマの行動範囲はとても広いです。簡単に言えば、排泄の結果が「クマが森をつくる」と、言われる理由です。糞から育てた苗は大事に育てた後、子供達と山に植樹します。丹沢に棲むクマが、お腹いっぱいに餌を食べることが出来れば、恐い人間の近くで餌を探す必要がなくなります。

「森の学校」夏の教室の様子
「森の学校」夏の教室の様子

森の学校は、単に学習知識を習得するだけでなく、一つの生命が多様な生命に育まれることのやさしさや強さを知ることにあります。

体長10センチメートルほどの野鳥が一年間で捕食する昆虫の数は、約13万羽と言われます。そして、渓流で泳ぐヤマメやイワナが捕食する昆虫の70パーセント以上が陸生昆虫です。秋から冬にかけて、森の中や、渓流の水の中に堆積した落ち葉から、初夏、無数の昆虫が羽化します。豊かな土、綺麗な水は、自然の森があって維持されます。そこで、はじめて野鳥や魚が生息できるのです。

みどりの森から発信されるものは命の連鎖であり、それに対する尊厳です。丹沢では残されたわずかな自然の森で、様々な生き物が、一生懸命生きています。夜のブナ林の枝越しに、大都会の夜景を見ながら眠りにつくクマを想像しながら。丹沢の大空から喧噪な湘南海岸を眺めながら。悠然と舞うクマタカの親子を想像しながら。生命の営みを訪ねに、丹沢にいらっしゃいませんか。

中村道也さん
中村道也 (なかむら みちなり)

1947年丹沢生まれ。丹沢自然保護協会理事長。著書『わが家の野生動物記』大日本図書 1,200円+税(品切)ほか。

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