Web版 有鄰

546平成28年9月10日発行

吉屋信子 実りの時 – 海辺の創造力

川崎賢子

今年2016年は、吉屋信子の生誕120周年にあたる。1896(明治29)年生まれの文学者には、宮沢賢治、村山槐多、牧野信一、尾崎翠など、文学史の流れから突出して異彩を放つ者が多い。生前には故郷に容れられず、あるいは無名のまま夭折した者、筆を折った者もある。

そのなかで吉屋信子は、10代で頭角をあらわし、20歳そこそこで少女小説界を牽引するスター作家となり、1973年、77歳で泉下の客となるまで、うまずたゆまず書きつづけた。『花物語』など初期の少女小説はいまなおあらたな若い読者を獲得している。BLや百合文化などを好むサブカルチャーの読者にとっても、その元祖というべき作家として敬愛されている。読みつがれ、再評価の声も高い作家にふさわしい、網羅的な、本文校訂の行き届いた定本全集があったならさぞや、と、このところの出版事情がうらめしいようでもある。

吉屋信子が鎌倉長谷に居を移したのは1962年、66歳の春であった。数寄屋建築の近代化で一時代を築いた吉田五十八の設計した邸は、吉屋の遺志によって鎌倉市に寄贈され、吉屋信子記念館として保存されている。

鎌倉は、少女小説の舞台に描かれ、1939年には大仏裏に別荘を構え、1944年には疎開しており、吉屋とは縁が深かった。彼女は鎌倉文庫発足にくわわり、女流文学者会の世話役として尽力した。

本格的に鎌倉に移り住むことを決意した理由について、朝日新聞社版の『吉屋信子全集』「年譜」は、1961年の項に「騒音と公害にたえかねたのである」と記している。「騒音」は高度経済成長を突きすすむ首都の物理的な騒音でもあり、政治の軋む音、暴力によって表現の自由が脅かされる胸騒ぎの音でもあったろうか。1960年には安保条約批准に反対するデモ隊の学生、樺美智子が犠牲になり、社会党委員長の浅沼稲次郎が17歳の少年に刺殺された。翌61年2月には、これもまた17歳の少年により、中央公論社社長の嶋中鵬二宅が襲われ、家政婦が命を落とし、嶋中夫人も負傷するというテロ事件が起きた。嶋中邸のある新宿区市谷砂土原町は、吉屋自身が昭和10年代に暮らした地であり、彼女の屋敷は空襲で焼失したものの、次兄の家は砂土原町にあり、母親が息をひきとったのもそこであった。当時、吉屋信子は書き下ろし長篇『香取夫人の生涯』(新潮社、1962年1月)の執筆を進めており、あいつぐテロ事件には神経をとがらせずにはいられなかっただろう。上梓された『香取夫人の生涯』は、冒頭、やがて宮家の妃に迎えられる少女が、大逆事件の死者について想いをめぐらせる場面がある。

じっさい、吉屋信子は鎌倉に腰を据えた晩年、それまで以上に社会的かつ歴史的な視野の広がりをうかがわせる作品をあいついで発表している。『徳川の夫人たち』『女人平家』など、英雄や権力者のまわりにはべるおおぜいの女たちのひとりというのではない、生き生きとなまめかしい身体と感情をそなえた女たちを史料のなかから立ち上がらせている。調べて書くという蓄積から生まれた『私の見た人』『ある女人像―近代女流歌人伝』などの評伝的エッセイには、鋭い批評眼もはたらいている。わたしは読者のひとりとして、吉屋信子に実りの時をあたえた鎌倉の地に感謝しなければならない。

(文芸・演劇評論家)

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