Web版 有鄰

548平成29年1月1日発行

相模国大山とはどのような山か – 2面

川島敏郎

2016年4月25日、文化庁から奇しくも2つの「大山」が日本遺産(Japan Heritage)に認定された。一方はわが神奈川県の大山で「江戸庶民の信仰と行楽の地~巨大な木太刀を担いで『大山詣り』~」が、もう一方は鳥取県の大山で「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市」が栄冠を獲得した。長い間、この両者はお互いにライバル視しながら切磋琢磨してきたが、同時に公的に存在理由が認められたことは喜ばしい限りである。前年には、わが大山は自然景観の観点からミシュラン・グリーンガイド・ジャポンの星1つと星2つの評価を得ていることから、ここに名実ともに日本の名山としての資質が備わったことになる。しかし、手放しで喜んでもいられない。私に言わせると、知られていそうで、実はあまり知られていないのが大山の現状ではないだろうか。

語られなかった大山の全史

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『山海見立相撲 相模大山』(初代広重)
「神奈川県郷土資料アーカイブ」から

残念ながら、原始・古代から近・現代までを通観した大山の歴史書は存在しない。その最大の理由は、安政元年(1854)の全山を覆い尽くすほどの大火や関東大地震(1923年)での山津波で、大山寺や大山阿夫利神社の貴重な史料が失われたことにあると言えよう。しかし、それに手を拱いて立ち止まるわけにはいかない。このような例は奈良や京都の大社寺(東大寺・興福寺・比叡山など)にも共通していることで、その周辺や外部の関係史料を駆使し、これらを丁寧に分析・解釈し、論を構築していくしかない。そうすることによって、今まで不透明であった鎌倉時代や江戸後末期の大山の実態が、神奈川県立金沢文庫所蔵史料や大山御師文書、大山旅案内書・旅日記、さらには伊勢原市内の地方文書などから次第に見えるようになってきた。

大山寺の再興者・願行坊憲静の業績

源頼朝・実朝の篤い保護を受けた大山寺であったが、鎌倉後期には荒廃の一途を辿っていた。文永頃(1264~75年)、東寺五重塔大勧進職として鎌倉に下向した憲静は異国(蒙古)降伏の秘法を修する目的で大山に登り、大山寺再興の証しとして鉄鋳不動明王座像を鋳造した。座像は2体鋳造され、1体は覚園寺現蔵(憲静所縁の大楽寺旧蔵、「試みの不動」といい県重文)で、もう1体は大山寺にある(国重文) 。また、金沢文庫所蔵史料によると14世紀初頭には『大山寺縁起』1巻が存在していたことが明白であることから、これについても憲静の作成の可能性は極めて大である。さらに憲静は弘安9年(1286)に大山寺の落慶供養として、武蔵国金沢称名寺初代長老審海、下野国(栃木県)薬師寺長老性海・同良賢、鶴岡八幡宮楽所楽人中原光氏らと協働して、舞楽曼荼羅供会を盛大に挙行していることが同史料に記されている。これら一連の活動事業から、憲静による大山寺の中興が蒙古襲来に対する国威発揚を目的として行われ、当該時代において東国仏教界が密接な交流網で繋がれていたことも窺い知ることができる。

膨大な大山のご利益譚

『大山不動霊験記』より大山の図

『大山不動霊験記』より大山の図
「神奈川県郷土資料アーカイブ」から

大山のご利益を集大成したものとして、心蔵著『大山不動霊験記』全15巻がある。この大著は寛政4年(1792) 2月に老舗書物問屋の出雲寺和泉・西村源六から出版され、現在では茅ヶ崎の廻船問屋であった藤間家や神奈川県立図書館など4か所にしか残存していない稀覯本である。全15巻は131話からなり、第1巻を除く14巻に125話の大山の霊験譚が凝縮されている。心蔵は実在の人物で、厚木・相模原・伊勢原でその存在を確認することができる史料が発見されている。大山寺の学僧・御師を始めとして、大山周辺の僧侶や庶民が心蔵に多くの情報を提供していることから、人望の厚い人物であったことが窺われる。出版の目的は「家門繁栄・息災延命・寿福延長・現当二世諸願成就」や「海上安全」・「先祖菩提」のためであった。出版に際して、賛同者に300疋(約12~15万円)の出資を募ったところ、34名が名乗り出て、発行部数は46部に達した。それ以降は追加募集の形を取った。しかし、この版木は先述の大山での安政の大火で失われた。

ご利益を被った地域の人々は関東甲信越・東北・東海地方に散在しており、大山の信仰圏と合致し、時代的には宝暦・明和・安永期、つまり18世紀後期の話が多数をしめる。肝心のご利益の内容であるが、病気平癒(疫病・眼病・腫物・中風など)・災難除け(火難・水難・虫害など)・その他(大漁・嗣子誕生・知恵獲得など)諸々である。ここで注目したいことは、落語・古川柳・滑稽本などでよく話題になる大山の借金逃れの例は皆無であるということである。おそらく、大山詣りの時期が借金徴収期に合致して集金の取り立てを断念せざるを得ないことが、取り分け強調されたためと考えられる。『大山不動霊験記』では、大山不動のご利益は本人の積極的な宗教的行為が伴って確たるものになることを各所で強調している。その行為とは、常日頃からの大山への崇拝(「勇猛の信」)・水垢離・断食・護摩や加持祈祷・密呪(「慈苦の呪」)・正直・納め太刀・牛王宝印・手長神楽奉納などである。具体的な内容を知りたい方は、県立図書館の「神奈川県郷土資料アーカイブ」の心蔵著『大山不動霊験記』を検索して活用していただきたい。

大山の旅案内書・旅日記

大山に関係した旅日記・旅案内書が存在することも、従来あまり知られていなかった。いろいろと調べていくうちに、これらの書物の大半は寛政年間(1789~1801)にほぼ集中していることがわかってきた。大山の旅案内書・旅日記の先駆けは寛政元年(1789)に玉餘道人が著した『相州大山順路之記』で、その表紙には「大山参詣必携乃珎書也」という書き込みが見られる。その凡例にも大山の事蹟については頼れる書物はなく、『大山寺縁起』に基づき、境内絵図や最近古老から入手した参詣の覚書を参考にして記録し、後補する旨を記している。そのため、タイトルは『大山順路之記』とはなっているが、大山関係の記事は全体の五分の一程度でポイントよく押さえているものの、あとは江ノ島・鎌倉・金沢八景の案内記である。次に登場するのは、寛政3年(1791)に温泉旅作家の坂本栄昌が著した『雨降山乃記』という旅日記である。旅慣れている割には道を間違えたり、大山で遭難しそうになったりして、どことなく心もとない内容である。それに続くものは、名所図会シリーズで一躍著名になった読本作者秋里籬島の『東海道名所圖會』で、寛政九年(1797)に刊行されている。次第に内容が絞られてきてまとまりが出てきている。さらに詳しい興味深い内容の旅案内書は、華坊兵蔵が寛政~文化期(18~19世紀交)に著した『相州大山参詣獨案内道の記』で、大山の男坂に祀られた神仏を事細かに描出するとともに、講を組まなくても、一人でも大山詣りに行けることを強調した折本形式の大山案内書が登場するようになったことである。こうした諸本が出版される中で、先述の心蔵著『大山不動霊験記』が出版されていることに留意する必要がある。

この他にも、大山を研究するための材料は俳諧・古川柳・絵画資料・古典芸能・大山道など多岐にわたっており、これらを総合的に研究・集大成することによって大山の存在価値は一段と深まってくるであろう。

川島敏郎  (かわしま としろう)

1947年静岡県生まれ。伊勢原市文化財保護審議委員会委員。
著書『相州大山信仰の底流』山川出版社 6,500円+税、ほか。

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