Web版 有鄰

549平成29年3月10日発行

湘南と山川方夫さん – 海辺の創造力

坂上 弘

慶應義塾大学2年生になって、私は、三田文学編集部というところからの紫色のゴム印のわきに、流麗な山川方夫とペン字の署名のあるハガキを受けとった。その蒼いインクの字体は、やや含羞もあり、大きく相手を包みこむ、惹きつけて止まないものだった。これが私の人生を決める出来事になった。この三田文学編集長で文学部の大学院生だった山川さんは、五反田に大きな屋敷がありながら、二宮にも住んでいた。二重生活をしなければならないのはなぜか、間もなくわかった。五反田の家は、父の日本画家山川秀峰が昭和3年に建てた画室であり山川さんもここで育つ。二宮の家は、戦争がはげしくなって疎開するためにつくった家で、秀峰がこの家で急逝する。その後に山川さんは祖父と姉妹たちとで住んでいた。

二宮の家は、吉田五十八氏の設計になるもので、赤松にかこまれた海へ向う土地に建てられていた。2階建ての素朴な佇いは、まるで能舞台が海に向いているような感じだった。戦時下、山川さんはこの海辺の住居で祖父、父、姉妹と暮し、敗色濃い日常生活でいくつもの死を経験する。父の突然の死。山川さんが、家長になったのは14歳だった。艦載機の来襲と銃撃を受けた体験。これが、いわば自己の死を所有しなければならない戦時下の日々であった。山川さんの文学は、この湘南と海を触媒にしたものといってよい。「日々の死」「遠い青空」「夏の葬列」、そして「海岸公園」などがうまれる。山川さんの手法になる海との対峙は、誠実だ。あまり注目されない「仮装」という短篇があるが、これは二宮に住み山川さんを内面から育ててくれた梅田晴夫一家の抱擁力を描いている。

山川さんは、友人たちとよくこの二宮の海岸で泳いだ。波の荒々しさ、急深の海岸の不気味さ、泳ぐと死を予感し、海は、山川さんにとり言語のように深いものだったのだろう。また山川さんは、この二宮の家の、父の亡くなったあとの2階、屋根裏よりややひろい、がらんとしたところに机をおき、原稿を書く場所にしていた。それは、海の重い深いとどろきとまっすぐ向き合い、海と語り合っているような書斎だった。

山川さんが湘南を舞台にした「展望台のある島」「最初の秋」で書いたように、この二宮の家で、みどり夫人と新婚生活をはじめ、深いところから目ざめるように、仕合せを書く文学があることを肯定して、人生を歩みはじめたその矢先、二宮の国道で輪禍に遭って亡くなる。高度成長を背に走っていた軽トラックにはねられたのである。2月20日。35歳になる誕生日の5日前のことだ。山川さんは、その前の年には、「お守り」がライフ誌の日本特集に載って、世界中から祝福されつつ新婚生活をはじめて1年に満たなかった。

山川さんの悲劇を私はいまだに言葉にできない。それは一艘の舟が突然消え、跡を絶ったような出来事だった。50年前のこの死を、私は、稀有で誠実無比な作家の遺したすべてと認識する。山川さんの去った日の朝、漁師町二宮の畑や海へ通じる早春の小道に黄水仙が咲き匂っていたのを、つい昨日のように覚えている。

(作家)

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