Web版 有鄰

551平成29年7月10日発行

球技の始まり
――クリケットもサッカーも横浜から – 2面

斎藤多喜夫

クリケットの始まり

球技には無数の種類があるが、大雑把に言えば、ボールを手で扱うものと足で扱うものに分かれる。イギリスで最も人気が高いスポーツは、前者はクリケット、後者はサッカー、そのどちらもイギリス人によって横浜の外国人居留地にもたらされた。クリケットは野球に似たスポーツで、日本では野球が盛んになったのでなじみがないが、広辞苑を引くと「11人ずつ2組のチームが攻守に分れ、ボールをバットで打ち、2ヵ所にあるウィッケット(木製の小さな三柱門)の間を走って得点を争う」スポーツだそうだ。

幕末開港後、横浜で最初に行われた球技はクリケットだった。1863年(文久3年)春、イギリスは生麦事件の犯人の処罰と賠償金の支払いを求めて日本側に最後通告を発し、横浜に軍艦を集結した。八月には鹿児島に向けて出航し、薩英戦争が起こる。その直前の6月か7月頃、束の間の時間を利用して、軍艦の乗組員と居留民がクリケットの試合を楽しんだ。場所はまだ空き地だった旧埋立居留地(現在の中華街周辺)、緊迫した情勢下だったので、水兵がグラウンドを取り囲み、選手も拳銃を携えてプレイしたという。

その後もイギリス駐屯軍や寄港軍艦の乗組員たちはクリケットをしていたらしい。やがて居留民によるクラブができる。それにはイギリス人貿易商モリソン(James Pender Mollison)の果たした役割が大きかった。1867年(慶応3年)1月、横浜にやってきたモリソンは、同好の人々を集めて横浜クリケット・クラブ(YCC)を結成し、後に新埋立居留地と呼ばれることになる造成地の一画、265番地(現在横浜中央病院の辺り)にグラウンドを設けた。1868年(明治元年)中のことである。もとは沼地だったのでスワンプ(沼地)・グラウンドと呼ばれた。条件は悪かったが、それでも1869年から1871年にかけて、このグラウンドでYCCとイギリス駐屯軍第十連隊の将校チームとの好ゲームが行われたという。

1866年(慶応2年)末の大火後、焼失した遊郭の跡地に公園(現在の横浜公園)を造成することになった。YCCはこれを絶好の機会と捉え、そこに新しいグラウンドを設ける計画を立てた。明治3年(1870)中には日本側の了解を取り付け、それを受けて土木技師ブラントン(Richard Henry Brunton)がグラウンドを含む設計図を作った。

サッカーの始まり

フットボールもイギリス軍将兵によってもたらされた。1863年の6月か7月頃、軍艦の乗組員と居留民がクリケットを楽しんだことはすでに述べたが、その頃フットボールも行われたらしい。下関戦争が終わってイギリス軍の山手駐屯が本格的に始まり、1864年(元治元年)の終わり頃に練兵場が整備されると、将兵はそこでさまざまなスポーツを行った。モリソンは、そこで陸上競技やクリケットとともにフットボールが行われていたのを目撃している。

1866年1月26日、イギリス陸軍第二十連隊のブラウント大尉らの軍人と居留民が、横浜フットボール・クラブ(YFC)を設立するための会合を開いた。しかし、このクラブはどうも影が薄くて、記録が乏しい。ようやく1872年(明治5年)になって、東京のチームからYFCに試合の申し入れがあり、12月7日に横浜で対戦することになった、という記録が現れる。しかし、この「フットボール」がラグビーなのかサッカーなのかはっきりしない。

明治6年、フットボール・シーズンの第3試合がイングランド対スコットランド・アイルランド連合軍の間で行われた、というと大がかりな国際試合のようだが、そうではなくて、プレイヤーを出身地別に2つのチームに分けて行ったのである。つまり、プレイヤーは全員イギリス人だった。結果は引き分け。この試合の模様はイギリスの新聞『グラフィック』に掲載され、プレイヤーの1人、アベル(H.F.Abell)の描いた絵が添えられている。その絵によって、この試合はラグビーだったことがわかる。また、絵には横浜フットボール・クラブを示す「YFC」の旗が描かれている。影は薄いもののクラブは存在し、ラグビーが行われていたことがわかる。

明治7年11月19日、横浜フット・ボール・アソシエーション(YFBA)が設立された。設立メンバーは前年のフットボールで活躍した人々とだいたい重なっている。つまり、YFCと別にYFBAが設立されたのではなく、再組織されたのであった。YFBAが取り組んだことの1つはサッカーの導入だった。クラブ結成直後の明治8年正月14日に行われた長老組(横浜在住3年以上)と若手組の試合は、11人制であることと、ゴール・キーパーの記載があることから、サッカー・ルールで行われたことがわかる。結果は1対ゼロで長老組の勝利だった。これは横浜でサッカーが行われたことを示す最初の記録であり、メンバー表と試合の経過と得点が記された日本最初のサッカーの試合の記録である。ではYFBAはサッカー専門のクラブだったのかというと、そうでもなかった。明治13年12月4日に行われた試合は、「タッチダウン」という表現からみて、明らかにラグビーであった。

横浜公園でのサッカーの試合

横浜公園でのサッカーの試合 有隣堂所蔵

明治17年、YFBAはYCCにスポーツ団体の合同を提案した。これを機に横浜ベース・ボール・クラブや陸上競技団体の横浜アマチュア・アスレチック・アソシエーションも合流し、あらたに横浜クリケット&アスレチック・クラブ(YC&AC)が結成された。これ以降は、クリケットもラグビーもサッカーもYC&ACのもとで行われることになる。YC&ACは大正元年(1912)、根岸の高台(現在中区矢口台)に移転し、横浜カントリー&アスレチック・クラブと改称して現在に至っている。YCCの創立から数えると150年に及ぶ。アジア最古、世界でも10位以内に入る老舗のクラブだと言う。150周年に当たる昨年の4月には記念のラグビー大会が開かれた。

斎藤多喜夫  (さいとう たきお)

1947年神奈川県生まれ。横浜開港資料館・横浜都市発展記念館元調査研究員。
著書『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂) 2,800円+税、『幕末・明治の横浜西洋文化事始め』(明石書店)2,800円+税ほか。

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