Web版 有鄰

551平成29年7月10日発行

鎌倉の音 – 海辺の創造力

小野光子

鎌倉の佐助にある銭洗弁天へと続く山間に、作曲家の武満徹が住んでいたことがある。

当時の武満は、知り合った美術家や詩人、音楽家と芸術の分野を超えたグループ「実験工房」を結成し、戦後の新しい芸術運動の先端をゆく存在だった。そんな武満が仲間と離れて鎌倉へ移り住んだのは、作曲家デビューしてから5年を経た1955年の秋。結核の治療に専念するためだった。まだ25歳のことである。

鎌倉で武満は《弦楽のためのレクイエム》を書いた。現在、国内外で演奏回数を重ねているこの名曲は、武満と同じ病で亡くなった早坂文雄の霊に捧げる鎮魂曲であるとともに、自分自身の死を想いながら書いた曲でもあった。それほど武満の結核は深刻だった。

しかし、武満は鎌倉で死ばかりを見つめていたわけではなかった。ゆっくりと流れる療養生活の時間と自然豊かな空間の中で、武満の耳は外界の音に開かれていった。春夏秋冬、日夜にわたり鎌倉には生命の音が溢れていた。蛙の合唱や虫の音、鳴き交わす鳥の声――とくに武満が魅せられたのは鳥の歌声だった。多くの作曲家は、鳴き声を楽譜に当てはめようとするが、武満はそれをテープレコーダーに録音した。そして顕微鏡で拡大するかのようにテープの回転速度を遅くし、観察した。そのとき初めて精緻な鳴き方が明らかになり、人間の耳では感知できない能力を鳥が持ち合わせていることに、武満は驚嘆したのだった。

次第に武満の創造世界で鳥は、生と死の橋渡しを象徴するような存在となり、音楽作品に武満独自の旋律となって度々登場するようになる。

闘病生活を送っていた武満だが、友人たちは武満を慕い、鎌倉を訪ねてきた。作家の坂上弘や山川方夫、詩人の谷川俊太郎、作曲家の林光や映画監督の篠田正浩……。いま思えばその後の日本の文化を担ってゆく錚々たるメンバーが、武満と将来の不安や夢を語り合った。時には寸劇を作ってふざけたり、おもちゃの拳銃で遊んだり、まるで少年のように山や海へ繰り出したという。皆まだ20代の若者だった。

ところで、武満が亡くなってから20年が経った昨年、私は葉山の近代美術館を訪れた。帰りがけ、夕焼けに光る海にゴツゴツした岩が波に打たれているのに気づいた。何度か通ったことのある道で、その岩の存在を初めて知った。それにもかかわらず、見たことがあると思った。そのとき、絵心のある武満が入院時に描いた絵を思い出した。

調べてみると、かつて岩の近くに湘南サナトリウムがあった。病身の武満は、あの海岸で波の音を聞きながら絵を描いたのだ。

人生の辛い時期に、湘南の山と海が武満の身近にあった。武満は自然を肌で感じながら生命の力と神秘を感じたに違いない。のちに武満は「人間は自然の一部」と言い、自然を想起させる音楽を書いた。それは音風景を見るような音楽で、聴く人に内面と向き合う時間をもたらす。武満は本当の意味での癒しを知っていたのだろう。美しい音楽を通して、今もそのことを私たちに知らせてくれている。

(武満徹研究者)

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