Web版 有鄰

554平成30年1月1日発行

横浜の女性宣教師 – 海辺の創造力

岡部一興

横浜に初めて来日した女性宣教師は、クララ・L・ヘボンである。幕末の物情騒然とした時代にニューヨークを出帆、アフリカを経由、175日かけて1859年10月18日に神奈川に上陸、ローマ字を創作したヘボンと成仏寺に居を定めた。クララは米国に一旦帰国するが、1863年秋にはいち早く英学を教えるヘボン塾を開始、以来沢山の女性宣教師がやってきた。

1883年までに来日したプロテスタント在日宣教師大会の報告では男127人、女186人で、その後も女性宣教師の方が増え、特に米国からの女性が圧倒的に多かった。19世紀末から米国内で再びリバイバルが起こり、それはカリスマ的な指導者の説教や祈祷に触発されて信仰的感情が熱気を帯びることを言い、多くの海外伝道者を生み出すことになった。

来日した男性宣教師は、聖書を翻訳し教会を設立、神学校を創立、日本人牧師の養成に勤しんだ。女性宣教師は牧師への道が閉ざされていたので、教育や福祉事業に従事した。女性宣教師の動機は、キリスト教に救われた体験を教育という仕事を通して、キリストの愛を伝えることだった。

海外伝道をめざす女性たちは、同じ思いを持つ男性と結婚し、夫と共に子どもを育てながら英語を教え現地の女性と繋がった。しかし、宣教師夫人は家庭を担うことから仕事に限界が出てくるので、そこに独身の女性が活躍する場が広がった。女性宣教師は、明治十年代後半の欧化主義盛んな頃、キリスト教が進展する中で官立の高等女学校が各県にない時代にミッション・スクールを創設し充実させ、日本の女子教育をリードしたその功績は高く評価できる。

横浜の女性宣教師たちの働きの一例を見ると、独身宣教師として来日したキダーはヘボン塾を受け継いで、1870年日本最初の女学校フェリス・セミナリーを創立、翌年3人の独身女性プライン、ピアソン、クロスビーが来日し、ミッション・ホーム(横浜共立学園)を創設し混血児教育を開始した。カンヴァースは1890年校長に就任し捜真女学校へと発展させ、ハジスは1902年に来日、横浜英和女学校の基礎を築き、ドレイパーは盲教育に使命を感じて、1889年現在の横浜訓盲院を開設した。カトリックでは、マティルドが1872年5月に来日、孤児や乳幼児を収容、現在の雙葉学園になっている。これらの女性宣教師たちが、生徒にどんなことを教え、いかなる影響を与えたかを考えると興味が湧く。

女性宣教師たちは、学校生活を通して女性の自立を促し、家庭の在り方と教養ある女性が家庭を築くことの大切さを教え、夫婦の愛に基づく近代家族の形成を示した。夫の遺志を継いで来日したトゥルーは、自分の果すべき役割を自覚し、社会に貢献できるような女性にならなければと説いた。前述のキダーは、日本で初めて生徒に自分のキリスト教式の結婚式を見せ夫婦中心の家庭を築くことの喜びを教えたという。

(キリスト教史学会理事)

◆横浜プロテスタント史研究会編『横浜の女性宣教師たち』有隣堂より今春刊行予定

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