大森 望
今年の出版界最大の話題作のひとつ、伊藤計劃×円城塔『屍者の帝国』は、2009年に病没した伊藤計劃の遺稿を盟友の円城塔が書き継ぎ、3年がかりで完成させた合作長編。今年1月、『道化師の蝶』で芥川賞を射止めた円城塔が、受賞会見の席上、次回作として『屍者の帝国』を執筆中であることを公表し、その時点から大きな注目を集めていた。それだけに、8月下旬に発売されると、たちまち爆発的な売れ行きを記録。発売1カ月で8万部を刷る、日本SFの単行本としては異例のベストセラーとなっている。
それを機に、早川書房のSF専門誌『SFマガジン』11月号は「日本SFの夏」と題する特集を組み、円城塔のほか、『光圀伝』の冲方丁や、『カラマーゾフの妹』の高野史緒、『BEATLESS』の長谷敏司などのインタビューを掲載した。彼らは、伊藤計劃とともにゼロ(2000)年代の日本SFを盛り立て、「日本SFの夏」を準備した作家たちだ。
簡単に歴史をふりかえっておくと、1960年代に勃興した日本SFは、70年代に入って、400万部のベストセラー『日本沈没』(小松左京)を筆頭に、一大ブームを巻き起こす。しかし、90年代になると人気は低迷、日本SFは冬の時代と呼ばれるどん底を経験する。SFというレッテルが妙に古くさいもの(もしくは特殊なもの)と見なされ、一般読者から敬遠されたのである。その風向きが変わり、復活の兆しが見えてきたのは、今世紀に入ってから。早川書房が創刊した日本SF専門叢書〈ハヤカワSFシリーズJコレクション〉から、次々に話題作が登場。その〈Jコレ〉から2007年に相次いでデビューしたのが円城塔と伊藤計劃だった。
ふたりはともに同じ公募SF新人賞(小松左京賞)の最終候補に残りながら落選。ともにその落選作を早川書房に持ち込んで、刊行に漕ぎ着ける。伊藤計劃『虐殺器官』と、円城塔『Self-Reference ENGINE 』――この2編はデビュー作ながら同年のSFランキング投票で国内SFの1位2位を占め、ともに日本SF大賞候補にも選ばれた。
伊藤計劃『虐殺器官』は、モスレム原理主義の手作り核爆弾によってサラエボが消失し、「テロとの戦い」が新たなステージに入った近未来(おそらく2020年前後)が背景。先進諸国では、市民の監視を徹底することで、自由とひきかえに安全を手に入れたかに見えたが、その一方、発展途上国では内戦と民族紛争が頻発しはじめる。
語り手のぼくことクラヴィス・シェパードは、暗殺を専門とするアメリカ情報軍特殊検索群i分遣隊の大尉。心理操作とハイテク装備によって優秀な殺戮機械となり、紛争地域へと潜入して任務を遂行する。その新たな標的として浮上したのは、各地で起きる不可解な虐殺の背後でつねに見え隠れする謎の米国人、ジョン・ポールだった……。
『虐殺器官』は、9・11以後の現実を正面から描く新しいタイプの本格SFとして脚光を浴びた。そこでは、20世紀的な世界大戦にかわって局地的な内戦がクローズアップされ、民間軍事会社が表舞台に立つ。最新テクノロジーの実験場となる前線では、理想的な兵士を生み出すために人間性も自在に操作される。
ネット上の膨大な資料を駆使して最新のデータを取り込み、ありうべき未来を構築する手法はグーグル時代のSFならではだが、いまの世界にとって重要なトピックを感知する鋭敏なアンテナも伊藤計劃の大きな武器だった。
いま、ここにある問題を未来に投影し、わたしたちにとって切実な問題をSFの枠組みの中で考えるそのスタイルは、ゼロ年代の日本SFに新風を吹き込み、新世紀のSFを時代とシンクロさせた。1980年代にサイバーパンクが(ウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングが)やってのけたのと同じことを――つまり、SFに革命を起こすことを――ゼロ年代の日本で伊藤計劃が(同期デビューの盟友、円城塔とともに)やってのけたのだとも言える。
『虐殺器官』は、『月刊PLAYBOY』が選ぶPLAYBOYミステリー大賞を受賞するなど、ミステリとしても高く評価されたほか、2010年に実施された「ゼロ年代ベストSF」投票では、飛浩隆[とびひろたか]『グラン・ヴァカンス』や冲方丁『マルドゥック・スクランブル』を抑えて、10年間のベスト1に輝いている。
生前最後の長編となった『ハーモニー』(2008年)は、『虐殺器官』の続編(もしくは後日譚)とも言うべき作品。背景は、2018年の世界的大混乱から半世紀余を経て、大きく変貌した未来。国家は衰退し、かわって生府と呼ばれる医療合意共同体が台頭。体内を常時監視する医療システムをインストールすることで病気はほぼ消滅し、理想的な健康社会が実現した。
だれもがすこやかでしあわせな、調和に満ちた世界……。
皮肉なことに、この作品の執筆当時、著者はがんを再発、抗癌剤の投与と平行して苛酷な放射線治療を受けていたが、物語の中心は、この、真綿で首を絞めるような、優しさに息詰まる世界に敢然と叛旗を翻した少女、御冷ミァハ。人間の意識の問題を核に、『虐殺器官』同様、いま現在の世界が抱える問題を鋭くえぐる。
この『ハーモニー』は、日本SF大賞、大学読書人大賞を射止め、さらにはハイカソルから刊行された英訳版が米国のフィリップ・K・ディック記念賞特別賞を受賞する。伊藤計劃は、こうした栄誉を待つことなく、2009年3月20日、34歳の若さで世を去った。デビュー時点から数えると、作家としての活動期間はわずか1年9カ月。しかし、その短い期間に、伊藤計劃は日本SFに決定的な影響を与えた。
宮部みゆき、伊坂幸太郎にも絶賛されたが、円城塔はもとより、飛浩隆、新城カズマ、長谷敏司、東浩紀から、ベテランの神林長平まで、伊藤計劃の仕事から直接間接に衝撃を受け、それに応えるようにして新しい日本SFを書きはじめた作家は少なくない。伊藤計劃に心酔する若い読者の間では、計劃作品に触発された書き下ろし短編を集めた同人誌も複数刊行されている(『伊藤計劃トリビュート』『伊藤計劃計画』)。
その伊藤計劃が死の直前まで取り組んでいた『屍者の帝国』は、疑似霊素をインストールすることで人間の死体を労働力および兵力として活用する技術が一般化した19世紀末が背景。語り手のわたしことジョン・H・ワトソンは、英国首相直属の諜報機関から密命を与えられ、国外に旅立つことになる。
絶筆となったわずか22ページ分のプロローグを核に、円城塔は、有名無名問わず歴史上の人物とフィクションの人物が絢爛豪華に競演する、460ページに及ぶ波瀾万丈の冒険物語を紡ぎ上げた。作品のタイプはまったくちがうものの、世界の秘密を握る存在を主人公が追いかけるというプロット構造は、『虐殺器官』『ハーモニー』と共通。後半に浮上してくるSF的なヴィジョンは、『ハーモニー』の結末を発展させたものだから、まるで3部作完結編のようにも読める。そして最後に、『屍者の帝国』は、「伊藤計劃」という物語にまだピリオドが打たれていないことを宣言する。プロジェクトはつづく。日本SFの新しい夏はまだはじまったばかりだ。