Web版 有鄰

522平成24年9月6日発行

『横浜外国人墓地に眠る人々』にみる居留地社会の主役たち – 2面

斎藤多喜夫

外国人社会をリードしていた「英国紳士」

幕末に来航したペリー艦隊の水兵が埋葬されたのを端緒として、開港直後、横浜山手に外国人墓地が設けられた。現在、四十数か国、約4,870人が永眠している。

横浜外国人墓地

横浜外国人墓地

このたび『横浜外国人墓地に眠る人々』を有隣堂から上梓した。同様の著作には生出恵哉氏の『横浜山手外人墓地』(暁印書館)や武内博氏の『横浜外人墓地―山手の丘に眠る人々』(山桃舎)があるが、いずれも現在入手できない。「屋上屋を架す」ものだと思われる向きもあるかもしれない。そこで本書の特徴を明らかにするために表を作成した。

項目には「モフェトとソコロフ」のように2人で1つのものもあるので、人数とは一致しない。()内は生出氏と武内氏の著作には存在しない項目の数を示す。本書の特徴が「居留地の貿易と産業を担った人々」と「情報や文化の伝達に寄与した人々」にあることは明らかであろう。

それは偶然ではなく、本書の執筆意図に関わっている。執筆意図については、「はじめに」で次のように記しておいた。

本書は「この墓地から、かつて横浜に存在した外国人社会の物語を読み解こうとする試みである」と。このような意図から、叙述の対象を、時代としては幕末からおよそ1923(大正12)年の関東大震災まで、主題としては横浜の外国人社会にゆかりのある人々に限定して百余名を取り上げた。著名な人であってもこの主題に合わない人は割愛した。

『横浜外国人墓地に眠る人々』で取り上げた人

横浜に存在した外国人社会(1899年の条約改正以前は「居留地社会」と同義)の主役がどのような人々であったかと言えば、これも「はじめに」に記したが、「ビジネスに励み、生活を楽しんだ人たち」であった。ビジネスに励んだのが「居留地の貿易と産業を担った人々」であり、生活に潤いを与えていたのが「情報や文化の伝達に寄与した人々」であった。「居留地社会を支えた人々」も主役に加えることができる。

国籍別に見ると、やはり当時の超大国イギリスが多い。数が多いだけではなく、彼らの生活規範が外国人社会全体をリードしていたように思われる。その規範を一言で言えば「英国紳士」であろう。

では、「英国紳士」とはどのような類型の人なのだろうか。その「理念型」とも言うべき人物に、項目としては取り上げなかったが、キルビーがいる。以下は本書のなかのキルビーに関する記述である。

「1873年5月に来日し、最初はハドソン・マルコム商会に勤務、1884年に独立してキルビー商会を興した。ヴィクトリア・パブリック・スクールの設立に尽力し、外国人商業会議所、クライスト・チャーチ、山手病院、居留地消防隊の委員を務めた。スポーツマンでもあり、横浜クリケット&アスレチック・クラブの会長を務めている。日本アジア協会の創立時からの会員であり、フリーメーソンの重鎮でもあった。」

要約すれば、「英国紳士」とは、しっかりした経済的な基盤をもち、公共事業に尽くし、スポーツマンであり、教養人でもあり、社交性に富んだ人のことである。こうした観点で見ると、じつに多士済々の人物が浮かび上がってくる。すべての要素を兼ね備えた、いわば「ゼネラリスト」には、元イギリス領事館員で弁護士のラウダー、貿易商のキングドンやモリソン、医師のウィーラーらがいる。特定の分野に秀でた「スペシャリスト」もいたが、それについては分野ごとに紹介しよう。

スポーツ、日本研究、音楽、社交団体……に多士済々の人物

スポーツ団体には競馬の日本レース・クラブや陸上競技の横浜クリケット&アスレチック・クラブ、水上スポーツの横浜ヨット・クラブなどがあった。キングドンの持ち馬モクテズマやトーマスのラット、ウィーラーのタイフーン、ラフィン所有のヨット、メアリー号やオーストンのゴールデン・ハインド号は、外国人社会にとって欠かすことのできない脇役であった。

日本アジア協会は専門性の高い日本研究団体であり、御雇外国人が研究の中心だったが、横浜の貿易商も会員として運営を支えた。貿易商でありながら蝶類研究で業績を残したスペシャリストにプライアーがいる。女性宣教師中心に始まった横浜リーディング・サークルは、多くの居留民が参加する横浜文芸音楽協会に発展し、モリソン夫妻やアメリカ人茶貿易商プール夫妻らが活躍した。

音楽も盛んだった。横浜児童トニック・ソルファ合唱団を組織したパットン夫人はプロの音楽家だったが、横浜アマチュア管弦楽団を指揮したカイルはセミプロ、横浜フィルハーモニック協会を指揮したグリフィンはアマチュアだった。

医師のウィーラー(左)と日本産サラブレッド、タイフーン号(『ファー・イースト』1872年7月1日号より)

医師のウィーラー(左)と日本産サラブレッド、タイフーン号
(『ファー・イースト』1872年7月1日号より)
横浜開港資料館所蔵

社交団体には、横浜ユナイテッド・クラブとフリーメーソンがあった。前者の会長は外国人社会の名士の指定席だった。前者が会員でなくても利用できる「開かれた」団体だったのに対して、後者はいわば「閉ざされた」団体であった。結社の目的は相互扶助と慈善だが、入会資格に制限があり、奇妙な儀式や教義のようなものをもち、非公開を原則とする点で、「選ばれた者」の団体という性格をもっていた。

フリーメーソンの熱心な会員には大貿易商よりも中小の自営業者やジャーナリスト、医師などの専門家が多く、そうした人々が世界大の人脈に連なるうえで、重要な役割をもっていたように思われる。横浜居留地最初の支部である横浜ロッジの設立者にはジャーナリストのブラック、熱心な会員にアメリカ人医師エルドリッジやオランダ人製氷業者ストルネブリンクがいる。

グリフィンは横浜フィルハーモニック協会のほか、横浜合唱協会や横浜チェス・クラブなど、常に3つか4つのクラブの会長を務めるかたわら、フリーメーソンの複数のロッジの役員を務めていた。カイルも本業の外国人商業会議所の書記のかたわら、音楽団体などの役員を務め、しかも横浜のほとんどすべてのロッジの役員を兼ねていた。いったいいつ寝ていたのだろう。カイルは過労のせいか、不幸にもピストル自殺をしてしまったのだが。

女性中心のスポーツ団体にはレディズ・ローン・テニス&クロッケー・クラブ、教養団体に国際婦人図書室、慈善団体に横浜婦人慈善協会などがあり、ウィーラー、ラウダー、トーマス、エルドリッジなど、外国人社会の名士の夫人が会長を務めていた。

「過去の思い出」として残された横浜外国人墓地

横浜2世のO・M・プール氏(先述のプール夫妻の次男)が『古き横浜の壊滅』(金井円訳、有隣新書)で愛惜の念を込めて描いているように、「なつかしい親密に結ばれていた居留地社会」は、関東大震災によって「地球上の四方八方へと散ってしまった」。「過去の思い出」として残されたのは外国人墓地だけになってしまった。

プール氏が描いた「破滅以前の横浜」は、異質な価値観や生活様式を持つ人々が共存し、民族と文化の多様性を許容する、日本の歴史においては稀有な国際都市であった。本書は、寡黙に林立する墓標の1つ1つから、その記憶を蘇らせようとする試みである。

斎藤多喜夫 (さいとう たきお)

1947年横浜生まれ。横浜開港資料館・横浜都市発展記念館元調査研究員。
著書『幕末明治横浜写真館物語』吉川弘文館 1,700円+税、『図説横浜外国人居留地』有隣堂 3,200円+税、他。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.