Web版 有鄰

521平成24年7月9日発行

たまプラーザとキツネ火 – 2面

小倉美惠子

土橋を舞台にした記録映画『オオカミの護符』を書籍化

2011年12月に上梓した『オオカミの護符』(新潮社)は、田園都市線沿線の川崎市宮前区土橋を舞台に展開する。これは、その4年前に公開した映画『オオカミの護符―里びとと山びとのあわいに』(監督 由井英、文化庁映画賞文化記録映画優秀賞受賞)が、地元に住む書評家・東えりかさんの目に留まったことから書籍化が実現した。

その第一歩は、家庭用のビデオカメラを片手に、たった1人で自分が生まれ育った土橋に残る伝統行事や祭祀、お年寄りの話をとにかく記録して歩いたことから始まった。
「土橋」は、この40年あまりの間に、たった50戸の農村から、およそ7,000戸もの住宅が立ち並ぶ近代的な住宅街に変貌を遂げた。

記録を思い立ったのは「消えゆくものへの哀惜」ではない。むしろ、明治維新以降ひたすら歩んできた近代化の行き詰まりがはっきり見えてきた今、足元に置き去りにしてきたものの中に「次なる道」を探る大切な手がかりがあると考えたからだ。

休日を利用し、わずかな貯金を元手に記録を続ける中で、やがて、思いを同じくする映画監督の由井英が加わり、更には「ささらプロダクション」という映画製作会社を設立し、本格的な映画を作ることになった。

ある日、我が家に残された古い土蔵の扉に貼られた1枚の護府に目が引き寄せられた。「黒い獣」が描かれたその護符は、祖父が毎年その無骨な手で貼り替え、祖母が手を合わせてきた。やがてこの護符が村を挙げて青梅の御岳山に詣でる「御嶽講」で貰うものとわかり、この行事を追って作品を作ることに決めた。「御嶽講」を通じ、丹念に古老に話を聞くうちに、私たちは関東平野を取り囲む「お山」の世界へと導き出されていった。そして「護符」に誘われ、関東一円のお百姓を訪ねる旅は、百姓として生きた祖父母と暮らした幼い日々がいかに私の心を支えてくれていたかを知る旅でもあった。

毎晩、眠りにつく前に「そら」で物語を語ってくれた祖母の実家は、「たまプラーザ駅」ほど近くにある。

現在の「たまプラ」は、圧倒的に女性の人気が高いおしゃれな街に生まれ変わった。

田園都市線沿線は、保育園の待機児童が極めて多く、全国でも子育て世代が多い地域である。この柔らかで伸びやかな「たまプラ」という街を見ていると、「女性」の目線が随所に生かされていると感じる。

駅前から少し歩くと、周辺は美しが丘や元石川、新石川という閑静な高級住宅街が広がる。端正に区画された街には、ところどころに緑豊かな公園が設けられ、常に子どもたちの遊び回る声が聞こえている。今や田園都市線沿線が「住みたい町」の上位にランキングされる理由が実感できる場所でもある。

さらに足を延ばすと、畑がちらほら目に入り、次第に「緑」の面構えが変わってくるのがわかる。人間が区画し管理する「緑」とは違い、明らかに野生の威厳が備わった小高い稜線が現れる。はたしてそこには神社が祀られ、「古くからこの土地を見つめ続けてきたぞ」というずっしりとした手ごたえが、私の奥深くに眠る記憶と「この土地」への思いを呼び醒ます。

かつては都筑郡石川村だった「たまプラーザ」

武蔵國都筑郡石川村。

たまプラーザからあざみ野にかけての一帯は、かつてこう呼ばれ、古くからここに暮らすお百姓は、今なお「石川」と呼び習わしている。今も残る「元石川」「新石川」の地名は、「石川の記憶が後世に残るように」と、この地に着いて暮らしてきた人々の切実な願いがこめられている。

私の祖母はこの石川村に生まれ、隣村の橘樹郡土橋村に嫁いできた。祖母が夜毎に語ってくれた物語を通して、幼い私の心の中に「石川村」がとても大切な場所として根を下ろしていった。

祖母は7人の子を授かり、お盆やお彼岸になると乳飲み児を抱え、幼な子の手を引き、里帰りしたという。わが家から祖母の実家までは、寂しい山道を幾つも越えなければならなかった。とりわけ「胸つき坂」と呼ばれる難所は、陽が落ちると暗闇に包まれ、「キツネ火」に化かされることがあったという。「遠くの方に明かりが見えて、里が近いと思って必死で歩くと道に迷ってしまう」のだそうだ。

幾筋もの湧水があり、豊かな水が支えていた谷戸の暮らし

石川村も土橋村も多摩丘陵のなだらかな起伏の中で、何世代にもわたる人の営みが育んできた村だった。小高い山と山の谷間を「谷戸」と呼び、そこには10~20戸ほどの集落があった。つまり、谷を出ると次の谷まで人家はない。

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宮前区土橋の谷戸の風景(昭和38年)
内野隆氏提供

山には薪炭にするクヌギやナラが植えられ、屋根を葺くための茅場が広がっていた。

その山に降った雨水は、濾過されて谷戸に幾筋もの湧水を生み、暮らしを支え、谷戸田を潤した。「水源」は、遥か遠くの奥山に発するのみならず、ここ多摩丘陵からも、いくつもの分水嶺から多摩川や鶴見川といった河川に清流を注ぎこんでいた。

祖母は「谷戸ごとに水の味は違う」と言い、この土地の水に誇りを持っていた。

盆・彼岸、正月など、親類縁者を家に迎えるときは、祖母と母、私も加わって山から搾り出された井戸水を何度も汲み出し、大量のイモや野菜を洗い、煮炊きをしてきた。

祖母も母も「平場には嫁に出すもんじゃない」と言った。「谷戸」に暮らすお百姓は、同じ橘樹郡や都筑郡であっても、山がなく平坦な土地に娘を嫁がせるのを嫌った。水や薪がないと、毎日苦労するのは女衆だからだ。

多摩丘陵の開発が進み、この土地の造成が始まった頃、「山には水の道があって、一度切れたら水が涸れちまう」と、祖母が心配そうに話していた姿が忘れられない。

次第にこの土地にも上下水道が行き渡り、晩年、私がペットボトルの水を買って飲むのを見ては悲しい顔をした。

私は大学生になっても祖母と同じ部屋に寝起きしていた。それは幼い日に寝物語を聞かせてくれた、あの茅葺屋根の家ではなくなっていた。家の周りは造成され、マンションや家々が立ち並ぶようになり、都市に憧れる私は祖母の話に耳を貸さなくなっていた。

夜更けてなお明るい街は、祖母が持つ豊穣な世界を封じてしまった(これについては『オオカミの護符』に詳しく著したので、お読みいただければ幸いである)。 

今、改めて祖母が大事にしてきた「谷戸」の世界が、自分の揺るがぬ土台になっていることを自覚している。祖母が語ってくれた物語には人間だけでなく動物や、目には見えない不思議で得体の知れない存在も現れた。そして穏やかな谷戸の暮らしのぬくもりとともに、圧倒的な「闇」の前に畏れおののく人の姿があった。

その収まりのつかない茫漠たる世界観こそが「谷戸の世界」を大事に思う私の心を育んでくれたのだと思う。

近代化は、世界中に似た都市を作り出し、常に流動している。そこが何世代にもわたって住み続けたい街となるためには、何が必要なのか。土地に根ざして暮らし続けてきたお百姓の暮らしには、そのヒントが宿っている。

祖母は、平成17年に100歳で亡くなった。祖母にとって「石川村」は、決して他所には替えられない唯一の風土だった。

まさか石川村がこれほどまでに大きな街に変貌するとは考えもしなかったに違いない。「胸つき坂」も、今や立派に舗装され、キツネ火などかき消されてしまうほどに明るくなっている。

石川村を愛した祖母は、たまプラーザを気に入ってくれるだろうか。

そして、たまプラーザの明るいコンコースを母に連れられて歩き、公園で遊ぶ子供たちは、いつか泣きたいほどにかけがえのないものとして、この町を思ってくれるだろうか…。

小倉美惠子 (おぐら みえこ)

1963年川崎市宮前区生まれ。
ささらプロダクション代表。映画プロデューサー。著書『オオカミの護符』新潮社 1,500円+税。

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