Web版 有鄰

520平成24年5月2日発行

ミヒャエル・モーザーと明治初期の日本写真 – 2面

ペーター・パンツァー

オーストリアでモーザーのネガ原板の存在が判明

成功を急がなくて良かったということがある。オーストリアに保管されている日本の古写真コレクションを私が初めて日本に紹介したのは1974年のことであった(『サンデー毎日』昭和49年1月6日号、27日号)。概略的な紹介文で深く掘り下げたものではなかった。それから少しして、このテーマについて故金井圓氏(東京大学史料編纂所教授)と交わした会話に刺激を受けたことをよく憶えている。その際、金井先生が石井光太郎氏と編集した『神奈川の写真誌・明治前期』(有隣堂発行)を見せてくださった。そこには金井先生の論文「ジョン・レディー・ブラックとミハエル・モーゼル」も収録されていて、先生からモーザーについてさらに調査するよう励まして頂いた。

その勧めに従ってあれこれ調べるようになったが、その後、日本の写真研究はめざましい進展を遂げた。モーザー(1853−1912)が日本滞在期間中に作成したおよそ100枚のガラス板ネガ原板がそのままオーストリアの郷土資料館に残っていることが判明したのである。彼の業績に関しては、間もなく東京大学史料編纂所・日本大学芸術学部写真学科の共同プロジェクトの研究によって、さらに詳しく知ることができるだろう。私がその当時、研究発表をしていたら、誤った情報も幾つか混じってしまっていたかもしれない、と今になって思う。

通商条約締結に随行したブルガーの助手として来日

事の始まりは、修好通商条約締結のために1869(明治2)年秋に来日したオーストリア・ハンガリー帝国東アジア遠征隊だった。船上には、訪問国とその国民を撮影する任務を負った写真家ヴィルヘルム・ブルガーの姿もあった。派遣された二隻のうち、フリードリッヒ大公号が六九年九月五日に長崎に到着し、ドナウ号は9月16日に入港した。その三日後、瀬戸内海経由で横浜へ向かい、10月2日に錨を下ろした。その後、東京でオーストリア・ハンガリー帝国と日本間の条約締結交渉が開始された。迅速かつ円満な条約締結の後、両船は11月中旬に日本を出発、一隻は南米へ、もう一隻は中国経由で故国オーストリアへ帰国することとなった。

しかし、写真家ブルガーとその助手モーザーは日本に残り、その冬を越すことになった。ブルガーが横浜到着後間もなく病に倒れ、床についてしまったからである。こうして、艦隊司令長官の許可の下、助手と共にさらに数か月、日本に留まることになった。

ブルガーがモーザーを助手にしたのは幸運だったと言える。ブルガーはモーザーの故郷で偶然、モーザーと知り合い、両親の許可を得て14歳の彼をウィーンの自分のアトリエに見習いとして雇ったのである。オーストリア出発時にはまだ15歳、日本到着時に16歳となったばかりの若きモーザーの主な仕事は、ガラス板の下準備と重い機材を運ぶことであった。つまりカバン持ちである。その滞在費・諸経費はブルガーが自己負担し、オーストリア政府はモーザーに対しては一銭も払っていない。若きモーザーは間もなく付き人以上の仕事をこなすようになり、いつの間にかブルガーにとってかけがえのない助手となった。

オーストリアの奥深い山村の鉱員を父としたモーザーは、わずか6年しか学校教育を受けなかったにもかかわらず、ウィーンを汽車で出発し、トリエステで乗船したこと等を日記につけていたのだから驚く。このお蔭で、我々は多少なりとも彼の人生の経路を辿ることができる。

日本で役目を終え、モーザーは船員となってオーストリアへ戻る旅費を工面するつもりであったが、この国が気に入り、船酔いがどうにも嫌で、日本に残る決心をしたようでもあった。ブルガーとの雇用関係解消も円満なものであったに違いない。ブルガーとの共同で作成されたネガをそのまま保持していたことが、それを物語っている。

当初の暮らしはなかなか大変だったようだ。半年程、横浜在住の外国人が経営する飲み屋で給仕として働いていたからである。あるフランス人と共同で始めた写真館も間もなく台風の被害で潰れてしまった。それでも幸運な縁が待っていたのである。

この幸運な縁とは、横浜に定住し、1870(明治3)年5月に新聞『ファー・イースト』を創刊したジョン・レディー・ブラックとの出会いだった。ブラックはモーザーを自宅に住まわせ、地方回りをするカメラマンとして雇った。彼の新聞にはブラック自身が撮影した写真、あるいはモーザーかブルガー撮影の写真が紙面の大半をかざった。モーザー自身が両親宛の手紙のなかで、「写真家として良い職が見つかった」と書き送っている。そして、移住許可書を送ってほしいと両親に丁重な手紙をしたためている。英語にも日本語にも不自由しなくなり、故郷で生計を立てる見込みはないので、東アジアに留まりたい、将来はアメリカへ行くかもしれない、とも書いている。「父上殿、そのためにはお国からの移住許可書が必要なのです。」

ウィーン万博派遣団の一員として3年ぶりに帰国

しかし1872(明治5)年の夏、またもや運命がモーザーの人生を決定づけた。日本政府が、73年に開催予定のウィーン万国博覧会への参加を決定したからである。佐野常民公使を引率者として、役人・専門職人等がウィーンへと送られた。日本の万博委員会がモーザーの存在を知ったのは、『ファー・イースト』の仕事を通じてであったに違いない。その一員に加えられたモーザーは、梱包前の出展品を山下門の薩摩屋敷(現、千代田区内幸町)で撮影している。日本政府が要人に贈った写真集のうち、当時のウィーン万博会長所有の一冊はウィーンで保管されており、展示品の写真が65枚収められている。

3年ぶりに帰国したモーザーは、ブルガーのもとで見習いをしていた二人の兄弟と再会、故郷の山奥に両親を訪ねた。1874(明治7)年の日記には、1月6日に、佐野公使が招集して会議が開かれたと記されている。旧年中の仕事に対し感謝の言葉があったが、万博が終了し、今後は仕事の量も減るので、全員の手当てが半額となる旨も伝えられた。

だが、モーザーにとって最大の驚きは、佐野が彼に向かって「大変良くやってくれたので、また日本へ戻ってもよい」と言ったことである。ただ、その前に「この地で写真の勉強をするように」とのことだった。彼はその命に従い、1月21日から2か月間、技術を習得するため、日本政府の費用でヴェニスに暮らしたのである。

佐野はモーザーの業績に大層満足であったと思われる。4月5日、日本へ帰国する万博委員会メンバーのために公使主催の送別会が行われた。場所はホテル・インペリアル。シャンペンがふるまわれ、皆が佐野と乾杯をした。モーザーは自分から佐野のその輪に加わろうとはしなかったのだが、佐野本人から声をかけられた。こうしてモーザーと佐野は天皇の健康を祝して乾杯した。日本帰国後の74年5月末、佐野公使の計らいで天皇、皇后との謁見にあずかったことは、モーザーにとって特別な思い出となった。

今やモーザーの生活基盤はしっかりと日本に根づいていた。1876(明治9)年には再び万博委員会の一員として、フィラデルフィアへと赴いた。77年、オーストリアへ一旦戻るが、彼の心は米国に定住するか、再び日本へ戻るか、二つの可能性の間で揺れていた。しかし、最終的には第三の道、祖国に留まることを選ぶことになる。

彼はオーストリアにアトリエを開き、やがては随一の写真家として広くもてはやされることになる。彼が撮った写真の台紙裏面には、いずれもアトリエの名前の上に鳥居と富士と太陽がデザインされた標章が見られる。

モーザーと日本との縁はその後も続いていた。1878(明治11)年のパリ万博に日本側随員として参加した記録が残っているからである。

(原文はドイツ語。翻訳は、みどりパンツァーさん)

Peter Pantzer (ペーター・パンツァー)

1942年ザルツブルグ生まれ。ボン大学名誉教授。ボン独日協会名誉会長。著書『日本オーストリア関係史』創造社 2,500円+税、ほか。

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