Web版 有鄰

520平成24年5月2日発行

本屋さんに行く – 海辺の創造力

伊東 潤

ぼくは本の好きな子供だった。小学校5年の頃、有隣堂伊勢佐木町店で、父に『坊ちゃん』と『路傍の石』の文庫本を買ってもらった。それが初めての文芸本の購入経験だった。

中一の頃に買ってもらった吉川英治の『三国志』だけは、なぜか六興版のソフトカバーだった。今でも全巻、家にある。ほかの吉川作品はすべてクリーム色の背表紙の文庫版で集めた。とにかく面白くて、寝る間も惜しんで読んだ。

中三になると、部活のない休日は一人で伊勢佐木町に出かけ、テアトル横浜という名画座で二本立てを見たり、できたばかりの吉野家で牛丼を食べたりしていた。それでも有隣堂には、必ず顔を出していた。

高一の時、『竜馬がゆく』と出会い、司馬遼太郎の虜になった。それ以来、自らの志を新たにするため、『竜馬がゆく』を十年に一度、読むようにしている。

その頃、初めて彼女ができた。岡田奈々似の美人だった。ところが中学から男子校で、女性とデートなどしたことのないぼくは、どうしていいか分からない。当時はマニュアル本などなく、友人にもそんなことを知る者はいない。

初デートの日、とりあえず映画を観ることにした。テアトル横浜というわけにはいかないので横浜東宝に行った。たまたまやっていたのがジェームス・コバーンの『スカイライダース』という何ともな映画だった。緊張を引きずったまま喫茶店に入ろうということになったが、当時の純喫茶は暗くて不良の集まりのような雰囲気で、いかにも敷居が高い。そこで思い出したのが、有隣堂の地下にあったレストランである。ぼくは、そこで生まれて初めて砂糖とミルクなしのコーヒーを飲んだ。コーヒーは苦かったが、ようやくホームグランドに来たという安心感が広がった。

先日、長男が古語辞典を買うというので有隣堂に行ってみた。辞書類は地下で売っていると聞き、あの時の甘酸っぱい気持ちを思い出しながら、35年ぶりに地下に行ってみた。言うまでもなく当時の残り香はなかったが、この辺りに座って、彼女とコーヒーを飲んだかと思うと、感慨深いものがあった。

彼女が今、どうしているかなど知らないが、幸せな家庭を築いていると信じたい。

人の一生などあっという間だ。時間だけがどんどん流れていく中で、人は人に出会い、本に出会う。何気なく出会った人が生涯の伴侶になったり、何気なく手に取った本が生涯を決したりする。

すでに家庭を持ち、素敵な女性との出会いがなくなった今、ぼくは新たな刺激を求め、本屋さんに行く。

(作家)

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