Web版 有鄰

519平成24年3月10日発行

横浜の戦国武士――織田信長に使いした間宮綱信 – 2面

下山治久

横浜市氷取沢の領主

今度、私は『横浜の戦国武士たち』を有隣新書で出させていただくことになった。戦国時代に横浜市域で活躍した後北条氏に仕えた武士たちの主だった軌跡を紹介するもので、ここではその一人である磯子区氷取沢に本拠を構えた間宮綱信について紹介してみよう。

間宮氏略系図

間宮氏略系図

間宮氏は港南区笹下の笹下城に居城し、玉縄北条氏の家老職を務めた間宮康俊が有名であるが、綱信はその弟である。康俊の四男になる元重の子孫の横浜の間宮家は、幕末に樺太の間宮海峡を発見した間宮林蔵の出た家としても知られている。

間宮氏は伊豆国の出身で、間宮信盛が北条早雲に仕え神奈川の権現山城の戦いで上杉勢を相手に活躍し、その孫が康俊・綱信等の四兄弟になる。

間宮綱信は東京都八王子市の滝山城に居城した北条氏照に仕えて側近衆となる。主に古河公方と北条氏の間の使者を務め、外交交渉の巧みな人物であった。その綱信が小田原の北条氏直に命じられて、天正8年(1580)3月に近江国(滋賀県)安土城の織田信長のもとに北条・織田軍事同盟の交渉使節として派遣されたのである。信長との同盟は初めてのことであった。

安土城に向かった北条の使者は、正使が北条氏政の重臣である笠原康明で、横浜市泉区和泉町や緑区北八朔町・西八朔町の領主である。副使を間宮綱信が務めた。

北条・織田軍事同盟の発端は、北条氏に敵対する甲斐国(山梨県)の武田勝頼の攻略を果さんとした北条氏政の作戦計画であった。前年の天正7年9月には氏政の命により氏照が鷹を贈るなどして下打合せを開始しており、翌8年3月の使節派遣となったと考えられる。

京都見物をした間宮綱信

『信長公記』では、天正8年3月初旬に小田原城を出発した笠原康明・間宮綱信は、途中で、同盟交渉の仲介を果たした岡崎城(愛知県)の徳川家康に挨拶すると、3月9日に京都に入り、信長の宿老である滝川一益の出迎えを受けて宿舎の本能寺に案内された。翌10日に信長に面会し、使節が持参した白鳥(酒器)・のしあわび1箱・鮑三百・煎なまこ1箱・江川酒と3種2荷(肴)、氏直からの太刀、氏政からの鷹30羽を信長に贈呈した。武田氏攻略を切望する信長との軍事同盟は順調にすすみ、信長の娘を北条氏直の正室に迎えることで交渉は成立し、使節は大任を果たすことができた。この後、間宮信綱は滝川一益の案内で京都市街を見物し、多くの知識を得ることができた。

3月13日には信長から両使節に金銀100枚が贈られ、21日には氏政への答礼として虎皮20枚、縮羅300端、猩々皮十五、氏直へは段子2箱が贈呈された。さすがに天下人の信長である。金銀100枚という大金を使節に惜しげもなく与え、東南アジアからの渡来品である虎皮を20枚も与えられ、両使節もその気前のよさにはおどろいたことであろう。

3月下旬には帰国の途についた間宮綱信らの使節は、途中、岡崎城の徳川家康に交渉成立の報告をすませると、4月初旬には小田原城に無事に帰着した。この徳川家康の仲介と面会が綱信の将来に大きく作用することになった。取次役を務めた滝川一益には4月6日に笠原康明が礼状を出し、京都での過分な扱いに対して、「我身一代の名誉」とのべて感謝の意を顕している。

帰国後の北条・織田同盟

その後の北条・織田軍事同盟はどのような結果になったのであろう。信長は約束通りに2年後の天正10年3月に武田勝頼を攻め滅ぼしたが、それに同調した北条氏は直接、甲斐への侵攻のためと称しながら、もともと北条領であったが武田方に占領されていた駿河国東部方面に侵攻していった。信長の武田攻めを利用して駿河奪回を計ったのである。実際、北条氏政の娘の桂林院殿が武田勝頼の妻であったから北条氏としても武田氏を直接攻めることに遠慮があったのは確かであろう。しかし、このことが信長の怒りを買ったのである。北条氏直を不忠者とみなし、その後、信長にいくら挨拶に出向いても素気なく扱われ、鷹を進上しても気に入らないと使者を追い返される有様であった。

そのうえ、北条氏の領国である上野国の国主として滝川一益を送り込んで、織田政権の関東統治の責任者としたのである。しかも、一益は信長の命で関東管領職に任じられていた。この職は北条氏も自認していたため、ここに北条氏は織田政権の一員から完全に排除されたのである。

そこに起こったのが同年6月2日の京都本能寺の変である。信長が明智光秀に討たれ織田政権が瓦解した大事件である。関東の滝川一益の立場も危険となり、北条氏の上野奪回作戦が開始される。神流川の合戦で一益を撃破すると北条氏直は旧武田領の甲斐・信濃に侵攻し、同じく侵攻してきた徳川家康と対峙する結果となった。

信長との同盟交渉に活躍した間宮綱信も、この歴史的大転回には心底、びっくりしたことと思われる。しかも、甲斐攻めの主力が綱信の主君の北条氏照であったから、自身も出陣するという皮肉な結果を生んだのである。

北条氏の甲斐攻めは、結果としては徳川勢に敗退し、天正10年10月末に家康と和睦して撤退した。その時の和睦条件には駿河・甲斐・信濃三か国は徳川領とする、上野は北条領と決まり、北条氏直の妻に家康の娘の督姫を迎えることとなった。信長の娘を氏直の妻に迎える約束は完全にご破算となったのである。家康との同盟は最後まで固持されたことは綱信にとっては何よりの救いであったろう。

その後の間宮綱信

甲斐から帰国した間宮綱信は、北条氏照の重臣として活躍を続け、10通ほどの古文書に登場している。これらの史料をもとに、その後の綱信の足跡を追ってみよう。主な役目は、古河公方足利氏への後見役を務めた北条氏照の代理として、古河城(茨城県古河市)にあって公方家の奉行衆との折衝役を務めていた。また、古河城の守備として定番役の長でもあり、特に公方の足利義氏の死去後は古河城支配の責任者としての重責を担うことになった。

さらに、北条氏照の持城の下野国小山城(栃木県小山市)の豊前氏盛とともに同城の定番頭を務めた。天正11年4月のことである。氏盛は古河公方の重臣で、その妻は間宮綱信の妹であった。

天正年間の後期に入ると北条氏直は下野国の佐竹義重と抗争することとなり、綱信は、これも北条氏照の持城であった下総国栗橋城(茨城県五霞町)に籠って佐竹勢と戦っている。

宝勝寺

宝勝寺
横浜市磯子区氷取沢

天正18年7月5日に豊臣秀吉の大軍に攻められて降伏した北条氏直は、紀伊国高野山(和歌山県高野町)に追放となり、家臣団は解体された。

間宮綱信がその時、どこにいたのかは不明であるが、浪人して相模国にいたらしい。『新編武蔵風土記稿』久良岐郡氷取沢村(横浜市磯子区)の条には、旧家者の間宮信清の家には綱信宛の古文書3通が伝わり、この氷取沢の間宮家が綱信の直系の子孫になる可能性が高い。

というのは、小田原開城で浪人した間宮綱信は徳川家康の命令によって西尾吉次に召抱えられて徳川家に仕えることとなり、旗本に登用された。氷取沢の間宮家文書の1通に家康の文書があり、詳しくは西尾吉次から書状させると見えているので、それと知れる。

間宮綱信は高齢であったため家康から隠居領として氷取沢で500石を与えられ、村内に陣屋を構え、慶長14年(1609)10月に死去した。法名は休庵。74歳であった。墓所は氷取沢の宝勝寺にある。

康俊の孫の直元も家康に仕え、但馬国の代官と横浜市中区の本牧領の代官を務めた。綱信の子孫には江戸後期に『新編武蔵風土記稿』『新編相模国風土記稿』を編纂した間宮士信がいる。康俊の子の元重も旗本になり、その子孫が間宮林蔵になる。

下山治久  (しもやま はるひさ)

1942年東京生まれ。津久井町史中世部会委員。
著書『戦国時代年表 後北条氏編』東京堂出版 15,000円+税、『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版 15,000円+税、『北条早雲と家臣団』有隣堂(品切)ほか。

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