Web版 有鄰

519平成24年3月10日発行

僕の湘南 – 海辺の創造力

セイン カミュ

アメリカ国籍を持つ僕が初来日したのは6歳の秋、父と母の3人で神奈川県藤沢市に住むことになった。アメリカ人の母は僕が2歳の頃、航空関係の仕事をしていた今の日本人の父と再婚。その関係で来日するまでの僕はアメリカ、エジプト、レバノン、シンガポールの国々での暮らしを経験した。ただ日本という国にあまり興味がなかったのか、来日した時の記憶とか印象はほとんどなく、どちらかというと、僕はアメリカかシンガポールに住みたかった。

藤沢市の明治小学校に入学して半年くらいが経つと片言の日本語をからかわれながらも遊んでくれる友達もでき、よく行く湘南海岸の潮の匂いと風に踊る波光に煌く江ノ島のコントラストが大好きになっていた。レバノンで住居にミサイルを打ち込まれた経験を持つ僕は、本当の平和がどういうものなのかが、なんとなく身体で感じられるようになっていた。

父は海外勤務で半年に数回しか帰宅せず、僕は母を独占できる生活を楽しんでいた9歳の時、ひとり目の妹が、2年後ふたり目の妹ができた。それがきっかけで月に2、3回の割合で父が帰宅するようになると、よくふたりで藤沢の釣堀にいった。そうするうちに会話が生れ、今までどこか遠慮がちだった自分の気持を打ち明けられるようになり、中、高校は横浜のインターナショナルスクール、大学は演劇を学ぶため、ニューヨークへと行くことができた。

正直な話、妹ができた頃の僕は結構寂しい思いを感じていて、それは母親が育児で大変だったからというのは父親になった今だからこそ理解できる事であり、その頃はスネていたんだと思う。そんな気分の時はひとりで自転車を走らせた。七里ガ浜から鵠沼へと続く海岸線が一番のお気に入りで、日が落ちても帰らない僕を母はよく叱った。だが、今それを思うと、僕にとっては嬉しいことだったのかもしれない。

20歳の時、大学を中退しニューヨークから日本に戻った僕はタレントとして活動することになる。中退の理由はいろいろとあるのだが、一番は日本で言う「習うより慣れろ」という表現が合っていると思う。演劇の勉強よりも早く演劇の仕事がしたくてたまらなかった。でも当時、現実は外国人への仕事なんてそう簡単にはなく、事務所の手伝いやエキストラで過ごす日々が続いた。

ナーバスになった時は自転車で七里ガ浜から鵠沼へ続く海岸を走った。未来への夢をめぐらせたり、アイディアを考えたりと……エネルギーがリチャージできるんだ。そしてそのフィーリングは今も変わっていない。

僕の元気の元は湘南。だからイクメンとして接する子どもたちにも、平和と家族の匂いを感じる場所として、繋いでゆきたいと思っている。

(俳優・タレント)

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