Web版 有鄰

518平成24年5月2日発行

富士山――海外からの視点 絵画からの視点 – 1面

上垣外憲一

西洋人の見た富士山

富士山は、日本を代表する景観として日本人の誰もが認めている。しかし、富士山そのものから、富士山を嘆賞する人々に視点を置き換えると、今日の富士山人気を作り出した人々の中に、意外に外国人が多いことに気づく。

私は国際日本文化研究センター、通称日文研に創立時から10年間勤務した。その日文研には、外国人の見た日本風景、日本人の風俗の画像を集めるプロジェクトがあって、「外像」プロジェクトと通称で呼んでいたが、幕末開国以降、日本を紹介する外国の本の中には、やはり日本を代表する景観として、富士山の画像が多く含まれている。日本を日本人が一番よく知っていると思うのは、必ずしも正しくない。日本人にとっては、あまりにも当たり前になっていることは、実は外国人には珍しく、面白かったりするので、日本人が書き留めもしないことに注目して、細かく記述していてくれたりするのである。浮世絵が、幕末の日本では大して高く評価されておらず、陶磁器の包装紙として随分と流出し、西洋で優れた美術として高く評価されてはじめて、日本国内でも貴重な芸術作品として認識されたのだった。

富士登山 Sir Rutherford Alcock,The Capital of the Tycoon(『大君の都』)1863年から

富士登山
Sir Rutherford Alcock,The Capital of the Tycoon(『大君の都』)1863年から
横浜開港資料館蔵

富士山は中世の宗教登山でも、非常に重要で神聖な山だったので、この図式は必ずしも当てはまらないが、ともあれ、今日の富士山人気にあずかって寄与したのは、幕末、明治時代に日本を訪れた外国人であり、特に当時、最高の経済力、国力を背景に世界中を悠々と旅行して歩いていたイギリス人が多数を占めている。アメリカ人が抜群の経済力を背景に世界を闊歩するようになるのは、第一次大戦後のことであり、富士山を世界に知らしめるのに、最も貢献したのはイギリス人の経済力プラス文化力であったのである。

例えば、幕末のイギリス公使オールコックは、日本を紹介する大著『大君の都』(1863年)の中で、麗しい富士山の姿を文学的な修辞をこらして描き出している。

(富士山は)晴れた夏の夕方には80マイルほど離れている江戸からも見えることがある。そういうときには、雲の上にその頭を高くもちあげており、夕日がその背後に沈むので、その深紅色の大きなかたちが金色のついたての上にすっかり浮き出しになって見える。また早朝には、朝日の光が頂上の雪に反射して、その円錐形が輝いて見える。(山口光朔訳・岩波文庫)

同じくイギリス人で、明治時代の代表的な日本研究者であった、バジル・ホール・チェンバレンは、イギリスの代表的な旅行案内書であったマレーのシリーズの日本編を担当して、富士山についての紹介を行った。当時の多くの日本への旅行者はこのマレーのガイドブックを案内として、日本をめざしたのだから、このマレーの日本ガイドブックは富士山を世界に知らしめるのについて、大きな貢献があったと考えられる。

アルピニズムと富士山

オールコックは外国人の登山が許されない富士山にどうしても登ろうと、何事にも腰の重い幕府の役人と粘り強く交渉して、ついに外国人としてはじめての富士山登頂を成し遂げる。1860年9月のことであり、日本の年号では万延元年であった。幕府使節がアメリカを訪問し、日本人がアメリカを発見しつつあったころ、ヨーロッパ人は富士山を発見しつつあったのである。

時はあたかもヨーロッパのアルピニズムの黎明期であった。ヨーロッパアルプスの山岳景観に魅了されて、その登山に盛んに挑戦したのは、山の少ない平坦な国に住むイギリス人であった。アルピニズムの先駆者として知られるウィンパーがマッターホルン登頂にはじめて挑戦したのは1861年であり、ついに登頂に成功するのは1865年のことである。ほぼオールコックの富士山登頂と時を同じくしている。

もっとも、富士山の登頂の歴史は日本においてはずっと古く、平安時代初期、8世紀からの記録が残されている。鎌倉時代には、盛んに宗教登山が行われ、室町時代に入ると、形は宗教的な登山であるが、大衆登山と言っていいほどの賑わいを見せていたのである。江戸時代には、江戸が百万都市として発展したことにより、富士講という名の、名目は宗教登山、実体は庶民のリクリエーションの性格の色濃い、団体的な大衆登山が盛んに行われたのである。

そうした長い日本の富士山登山の終わりの方になってはじめて外国人の登山と登山の記録が現れてくる。日本アルピニズムの父と言われるウェストンも2回富士山に登り、その記録を彼の著書の中に記している。

登らないまでも、富士山の雄大な景観を楽しむことが、外国人の日本旅行の中では、必須の項目の1つとされるようになる。富士山の眺望を楽しむ最高の地点の一つが箱根の外輪山であり、西洋人でもお金と時間に余裕のあるものは、東京を訪問すれば、日光に行き、また箱根の温泉に宿をとって、そこから富士山を眺めに芦ノ湖まで脚を伸ばすのだった。箱根宿泊が富士山と深く結ばれていたのは、箱根を代表するホテルの名前が富士屋(創業明治11年、1878年)であることからも知られる。

絵画と富士山

富士山は平安時代から絵画に描かれたが、それは「聖徳太子絵伝」など宗教画の一部としてであって、富士山を主題として、富士山が「風景」として描かれるようになるのは、室町時代後半の雪舟の「富士三保清見寺図」(現在残っているものは模写とされる)などを早い時期の代表例としてよい。雪舟は、江戸時代の狩野派においては、画聖として崇拝されたから、この「富士三保清見寺図」が、富士山の絵画の模範として尊崇され、多くの追随作を生んでいったのである。

江戸時代には朝鮮通信使が江戸を訪問し、その途上にある富士山を日本の絶景として漢詩に詠んだことから、日本での富士山人気に、外国人も賛嘆する富士山という新たな視点を生んだ。

雪舟は、禅僧であり、長く中国を旅し、その画風は中国の山水画を継承したものであるから、中国風の画法をもって、日本の風景を描くということになる。雪舟の富士山の図は、極論すれば、外国人の目で日本の風景を眺めたもの、と言っても良いのである。では日本画風の描法で、あるいは雪舟よりも柔らかい描法、表現を持つ南画の技法で書いたらどうなるか、という試みが江戸時代の画家達によってなされるようになる。蕪村の俳画の富士、池大雅の南画による富士、などがその代表である。

こうした東洋、日本の画による富士の模索の末に、江戸時代中期、18世紀後期の司馬江漢による一連の西洋画の技法を用いた富士山の絵が出現するのである。司馬江漢は、アカデミー、正統派の狩野派に対して強い対抗意識を持ち、山水画として描かれた富士山とは全く違う色彩、表現法、あるいは遠近法のような新しい技法を以て、次々と富士山の絵を生み出していった。

神奈川沖浪裏(葛飾北斎「富嶽三十六景」) 文政6年(1823)頃

神奈川沖浪裏(葛飾北斎「富嶽三十六景」)
文政6年(1823)頃
神奈川県立歴史博物館蔵

江戸時代の終わり頃の葛飾北斎になると、西洋画風の遠近法や陰影法はすでに消化された技法であって、山水画、大和絵、西洋画、あらゆる技法を取り入れて、なお自身の独創を加えて、「富嶽三十六景」という傑作を生み出すことになるのである。北斎、広重などの浮世絵が西洋の革新的な画家達に大きな衝撃を与えて、後期印象派などの発展に大きな刺激となったことはよく知られているが、富嶽三十六景の中の「神奈川沖浪裏」の富士山を飲み込みそうなほどに巨大な逆巻く波のような斬新な構図は、西洋絵画の正統派、アカデミズムの基盤を打ち砕くほど衝撃的なものであったのだ。

富士山は孤立峰で独立独歩、他の何ものとも似ていない、という点では、芸術の独創性と相通ずるものがあると言える。孤高の芸術家であった北斎にとって、最も親近感を持てる存在であった富士山は、その彼自身の性格、独立独歩、傲岸不遜の象徴でもあったのであろう。

正月の夢といえば、富士山、こどもが歌に歌う富士山は、庶民に親しまれる大衆登山の山、というイメージである。今日、夏の登山の時期には、押すな押すなの交通整理が必要なほどの、人気の山、混雑の山、まさしく庶民の山である。

しかし、冬、シーンと静まりかえるような静寂の中に雪に覆われて白く輝き、蒼い空に向かってそびえる富士山は、むしろ一人一人の人間の絶対的な孤立性を表しているかのようである。新年、そう思いつつ北斎の「神奈川沖浪裏」を見直そう。

上垣外憲一氏
上垣外 憲一 (かみがいと けんいち)

1948年長野県生れ。大手前大学教授。比較文化・比較文学専攻。著書『富士山』中公新書 820円+税、『古代日本 謎の四世紀』学生社 2,400円+税、ほか多数。

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