Web版 有鄰

517平成23年11月10日発行

有路会のこと – 海辺の創造力

加島祥造

私の人生は青年期まで東京、壮年期を横浜、晩年が信州であって、とくに横浜には深い縁を覚える。

1951年、30歳の夏に横浜港から氷川丸に乗って、アメリカに留学した。帰ってからすぐに信州大学に赴任したが、13年して横浜国大に転任。以来、ほぼ30年ほど中区に住んだ。

思い出すことは数多くあるが、ここでは「有路会」のことを話してみたい。これは水墨書画の五人展で、1975年-1984年の10年間、年に1度、有隣堂のギャラリーで開かれた。この会は文人画の本筋である雅趣を保った点で、戦後のわが国ではごく珍しいものなのだ。

戦後、とくにきわだった詩人グループに「荒地」派があるが、その同人の3人がいつしか横浜住いになった。上大岡に北村太郎、洋光台に疋田寛吉、中区に私である。

北村の娘が書を習っていて、その師匠は高木三甫さんといい、平沼に住んでいた。その書の見事さに感嘆した私は、弟子入りした。50からの手習いだ。1年ほどして、私は高木三甫と「荒地」の友人たちで書画会をやってみよう、と思いついた。

「荒地」以来、私のとくに親しくした三好豊一郎はすでに素人ばなれした見事な水墨文人画をつくっていたし(彼は八王子在住)、横浜の疋田は書作と書論で目立つ存在になっている。北村と私は素人だったが、同人はみんなが碁好きであったことから、ひとつ文人画家の理想とする琴棋書画の楽しみに耽ろうではないか、という下心ではじめた。

一流に達した高木三甫の書画作から、私の全く拙劣な書画まで、気取りや見栄や邪気のない作柄のものばかりが、会場の壁にかかった。それでも各人はみな詩作や美意識に並々の高さを持っていたから、会場の空気は自然に本物の文人画会となった。

私はあの敗戦後の文化の荒廃からここまで、わが国の伝統文化は回復してきたのだ、と感じた。この会はその先駆けとなるものだとも思った。

その後の同人たちの活動についても語りたいが、余白がない。私もまた奇妙な縁から、この文人的伝統につながる者となった。

有路展を見にきた人々のひとり、上大岡に住む金子一義氏が、私の画作をおもしろいものと見た。拙劣ながら味があると言う。彼は東京の渋谷に小画廊をもっていて、そこで私の画作展を催してくれた。私には全く意外なことだった――自分の書も墨画も、まるっきり手探りの遊びごとと思っていたからだ。

とにかく、ここでの2回の墨画展がきっかけとなって、次第に他の画廊でも個展をする道がひらけた。以来30年になるがその間に80回の個展をもつ。画中の讃には、自作の詩を入れ、ときには英語の句を書き込む。70の歳から信州の伊那谷に移って20年、いまも続いていて、10月も札幌と苫小牧と小樽で個展があり、この一文は小樽の港をみおろす宿で書いている。

(詩人)

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