Web版 有鄰

516平成23年9月10日発行

鎮魂の物語の成立――今もとめられる、聞き書きの旅 – 2面

赤坂憲雄

行けども行けども広がっていた瓦礫の海

津波で消えた集落には、庚申塚とお祭りに使う獅子頭だけが残されていた。宮城県石巻市大川地区

津波で消えた集落には、庚申塚とお祭りに使う獅子頭だけが残されていた。
宮城県石巻市大川地区
2011年4月30日

4月のなかば、宮古から山田、大槌、釜石、大船渡、陸前高田と辿ったときには、行けども行けども瓦礫の海が広がっていた。道はいたるところ寸断されて、行き交う緊急車両に遠慮しながら、車は手探りに進んだ。地図は役に立たず、土地勘も頼りにはならない。車のディーラーゆえに、近辺の道を知り尽くしている遠野の友人が運転手でなければ、そこかしこで立ち往生したにちがいない。

それから3か月足らずが過ぎた。瓦礫の撤去は進んでいるが、復興の槌音といったものからは、なおはるかに遠い。

大槌町の仮役場がある城山から、町を眺望する。津波に洗い流され、火災が舐めた町には、わずかに鉄筋コンクリートの建物が残骸をさらしている。海がすぐそこに見える。残らず本が流された図書館の裏手に、石碑が残っていた。昭和8年の三陸大津波から、ちょうど1年後に建てられた「大海嘯救命碑」である。碑文には、「地震があったら津浪の用心せよ」「津浪が来たら高い所へ逃げよ」「危険地帯には住居をするな」と見える。戒めはいたずらに繰り返される。高台への移転というテーマが見え隠れしている。

津波の傷痕も生々しい宮城県気仙沼市階上地区

津波の傷痕も生々しい宮城県気仙沼市階上地区
2011年3月28日
荒蝦夷提供

その翌日、山田町を訪ねた。小さな半島の付け根にあたる船越は、2つの湾から押し寄せた津波が合わさって、大きな被害を受けた。鯨と海の科学館は海に近く、10メートルを越える津波にやられたが、丸い建物であったからか、何とか生き残った。マッコウクジラの骨格標本は天井から吊り下げられていたので、無傷だった。ほかの展示品のほとんどは潮に浸かった。館の外には、瓦礫の山がうず高く集められていた。

大津波に流された妻の幽霊と田ノ浜で遭遇する『遠野物語』

それから、田ノ浜へと向かった。船越に隣接する地区だ。ここもまた、甚大な被害を受けた。じつは、この田ノ浜は『遠野物語』の第99話に、とても印象深いかたちで登場してくる。主人公は福二という、『遠野物語』ではだれもがそうであるように、実在の人物である。この人は遠野から、縁あって田ノ浜へと婿に行った。そして、先年、つまり明治29年に大津波に遭って、妻と子とを失い、生き残った2人の子どもとともに、元の屋敷地に小屋を掛けて暮らしていたらしい。1年ばかりが過ぎた頃に、福二はこんな不思議な体験をしたのである。

ここからは、『遠野物語』を引きながら、わたしの呟きを添えてゆく。

夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり。思はず其跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。

『遠野物語』に登場する河童渕

『遠野物語』に登場する河童渕
(撮影/小野みのる)
荒蝦夷提供
岩手県遠野市は明治の三陸大津波でも今回の震災でも沿岸の救援拠点となった。

幽霊との遭遇譚である。舞台は、夏のはじめの月夜、まちがいなく旧暦のお盆の時期であった。死者たちが還ってくる季節だ。満月か、それに近い月が、波が寄せては返す渚を照らしている。この渚は民俗学的には、海のかなたより寄り物が漂着する、この世/あの世が重なり合う境界領域であった。まさしく、海に流された妻との再会の舞台としては、これ以外にはありえない場所だった。船越村とのあいだには小さな崎があり、そこには洞がある。こうした海辺の洞穴にはしばしば、地蔵が祀られて、サイの河原などが見いだされる。ここで、ついに福二は妻の名を呼ぶのである。妻は振り返って、にこと笑った。しかし、妻のかたわらにはだれか、男がいる。

男はと見れば此も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互に深く心を通はせたりと聞きし男なり。今は此人と夫婦になりてありと云ふに、子供は可愛くは無いのかと云へば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。

まことに残酷な展開だ。男と女の2人連れが近づいてくる。女が妻であることには、すぐに気づいた。名を呼ぶと、妻は振り返った。同時に、連れの男も振り返ったにちがいない。よく見知った同じ里の男だ。津波で死んだ。福二が婿入りする前に、妻はその男と深く心を通わせあっていた、と聞いていた。噂か、いや、里のだれもが知る事実だったにちがいない。福二はずっと、子どもが何人も生まれた後になっても、そのことを気にしていた。妻の心はずっと、あの男の元にあるのかもしれぬ、と疑っていたのである。だから、妻は答える、いまはこの人と夫婦になっている、と。思わず、未練の言葉が口をつく。子どもはかわいくはないのか。禁句だった。そんな文句にすがったら、男には惨めな敗北しか残らない。妻を泣かしたところで、心を引き戻すことはできない。

死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明けまで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。其後久しく煩ひたりと云へり。

死者と物言うとは思われず、しかし、ふと死者なりしと心付くと、もはや追いすがることはできない。福二は夜が明けるまで、道中に立ち尽くし、堂々巡りに考えあぐねる。その後、久しく病気になった、という。作家の三浦しをんさんが、遠野で対談したとき、この第99話には小説のすべてがありますね、と話していたことを思いだす。

たくさんの福二と妻の物語を記録に留める新たな聞き書きを

この田ノ浜はこのたび、明治29年と昭和8年に続く大津波によって、またしても深刻な被害をこうむった。被災の状況が高台/低地のあいだで、くっきり分かれている。低地は土台しか残っていない。火災が起こったらしい。高台の一部も延焼でやられている。背後に広がる杉林のなかにも、点々と焼け焦げた跡が残り、さぞや怖ろしい一夜であったことだろう、と思う。ここでも、少し高台にある神社が生き残っていた。八幡様が祀られていた。拝殿のわきからは、木の間越しに海が見えた。あの静かな海が盛り上がって、どす黒い壁となって押し寄せてくる姿を思い描くことは、とうていできない。

たくさんの福二と妻の物語がそこかしこにある。それらを聞き書きし、記録に留めねばならない。生き延びた者たちだけが物語りをすることができる。死者たちのゆくえに眼を凝らし、消息に耳を傾けながら。鎮魂のために。寄り添い続けるためにこそ、そんな聞き書きの旅がもとめられている。

赤坂憲雄 (あかさか のりお)

1953年東京生まれ。
学習院大学教授・福島県立博物館長。著書『「東北」再生』(共著)イースト・プレス 1,000円+税、『遠野/物語考 増補版』荒蝦夷 1,700円+税、ほか多数。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.