Web版 有鄰

514平成23年5月10日発行

五十嵐 貴久と『誰でもよかった』 – 人と作品

秋葉原の通り魔事件をモチーフにした小説

五十嵐貴久氏
五十嵐貴久

孤独な犯人が自暴自棄に陥った設定

2008年6月に発生、白昼の繁華街で17人が殺傷された秋葉原通り魔事件。一審の判決が今年3月24日にあり、被告に死刑が言い渡された。〈男にとって、殺す相手は誰でもよかった〉との一節があるこの小説は、秋葉原の事件に想を得た作品だ。

「最初にニュースで事件を知ったとき、“小さな戦争だ”と思いました。びっくりして、背景などを調べていたところに講談社から依頼があり、事件をモチーフに小説を書くことにしました。連載開始前、たまたま渋谷にいたときに、危険なことが何も起こらない前提でみんなが歩いている様子が急に不思議に思えました。それで、舞台は渋谷にしようと。事件をなぞるような作品にしたくなかったから、まず舞台を変えました」

冒頭から事件が起きる、スピーディーな展開である。渋谷のスクランブル交差点に軽トラックが突っ込み、車内から躍り出た男が、ダガーナイフを振りかざして通行人に襲いかかる。秋葉原の事件の犯人は、凶行を起こして間もなく逮捕されたが、この小説の犯人は逃走し、センター街の中の喫茶店に立てこもる。小説の犯人は、高橋浩二、29歳。高卒後に勤めた会社をリストラされて職を転々。社交的な性格でなく、バイト先では「オタ橋」と陰口をたたかれて、浮いていた。

「今は誰もが雇用の問題を抱えて、正社員であってもリストラされるかもしれない状況。大勢が未来設計をできずに不安の中にあり、何か強い要因があれば、暴発してもおかしくない。秋葉原の事件が起きたとき、他人事じゃないという意見が語られたと思います。小説では犯人像をデフォルメし、どうしようもないほど孤独な犯人が、自暴自棄に陥った設定にしました」

喫茶店に籠城した高橋に対し、人質解放を求めて、警視庁の渡瀬博之警部補らが交渉にあたる。渡瀬は、誘拐や人質立てこもり事件を扱う「特殊捜査班(SIT)」に属する、交渉のプロだ。

「『交渉人』のシリーズを書いてきましたが、今回はよりリアルに、交渉の現場を書こうと考えました。決してあってはならないことが起きた現場では、常に想定外のことが起き、訓練通りに進まないのが現実。何より時間がないと思うんですよね。犯人を説得する言葉を慎重に選んでいる猶予はなく、何度も同じことを言わないといけなくなったり、一度言った言葉は取り消せない。現場を書くと決めていたので、この小説には登場人物についてのサブストーリーが全くありません。場面や視点を切り替えて小説を動かす手法を使わず、冒頭からずっと現場だけ。書き手にとり、とてもハードな作品でした。事件に付随して起きるネットの動きを書くときは、ネットの空間に場面を動かすことができて、ほっとひと息ついていましたね」

犯人の高橋は、ネットの大型掲示板に14文字の犯行予告を書き込んだが、それに対する書き込みは誰からもなかった。〈無視されている。いや、誰も男の存在に気づいてさえもいない〉。小説は、刻々と変わる「現場」の背景にある、男の孤独感や、社会状況を浮き彫りにする。

多様なエンターテインメント小説を発表

1961年東京都生まれ。成蹊大学文学部卒業後、出版社勤務。2002年に『リカ』で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞しデビュー。警察サスペンス、青春小説、時代小説など多様なエンターテインメント小説を発表。主著に、『交渉人』『安政五年の大脱走』『パパとムスメの7日間』『2005年のロケットボーイズ』などがある。

「生来、アカデミックなことに興味を覚えず、エンターテインメントに徹しています。36歳のときの異動で規則正しい生活になり、帰宅後、原稿を書き始めたのが小説家になるきっかけでした」

『交渉人』シリーズをはじめ、作品が映像化されることが多い作家である。

「自分の作品がどんな映像になるのか。それを観るのが楽しみで、映像化に関して僕が注文をつけることはありません。僕自身が、映画の世界からの影響を強く受けていまして、今回のように映画に触発された部分がない作品は珍しい。現実の方が重かったからでしょうね。今、現実では大地震が起きて、特に被災地の方は大変な状況です。この小説は重い題材を扱っていますが、僕が書くものは基本的に明るいタッチのものですから、僕の小説を読んで、少しでも笑ってもらえたら、小説家としての役割を果たせたのかな、と思います」

(青木千恵)

『誰でもよかった』・表紙

誰でもよかった
五十嵐貴久/講談社/1,700円+税

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