Web版 有鄰

513平成23年3月10日発行

100周年を迎えた赤レンガ倉庫 – 2面

青木祐介

明治を代表する建築家・妻木頼黄の設計

2011(平成23)年、赤レンガ倉庫は誕生からちょうど100年を迎える。正確にいえば、今から100年前の1911(明治44)年に誕生したのは北側の2号倉庫で、南側の1号倉庫は、少し遅れて2年後の1913(大正2)年に竣工している。

当時の石畳がのこる2号倉庫北側

当時の石畳がのこる2号倉庫北側

2棟の赤レンガ倉庫は、いわゆる第2期築港工事とよばれる横浜港の拡張整備のなかで誕生した。開港当初から大型船が停泊できる施設が求められていた横浜港では、1894(明治27)年に鉄製桟橋(大さん橋国際客船ターミナルの前身)が完成したばかりであったが、日清戦争後の貿易拡大を背景として、早くも1899(明治32)年から、税関前面の海面を埋め立てる新たなふ頭の建設がスタートした。これが現在の赤レンガパーク一帯にあたる新港ふ頭であり、大型船舶が直接接岸できる岸壁をもつ国内初のふ頭であった。

赤レンガ倉庫は、この新港ふ頭の陸上設備のひとつとして建設された。当初は4棟計画されていたが、鉄製桟橋の拡幅工事に予算が割かれたため、最終的に現在の2棟が建設された。完成予想図のなかで、岸壁と直交する方向に建てられている2棟の建物が赤レンガ倉庫である。2棟は向き合うように建てられ、その間には横浜駅(現・桜木町駅)から貨物線の線路が引き込まれた。建物の背面には全面にヴェランダが連なり、鉄道を利用する正面とは表情を大きく変えている。

なお、赤レンガ倉庫は輸入品を預かる保税倉庫であるため、横浜港の主要輸出品であった生糸がこの倉庫に保管されたことはない。また「赤レンガ倉庫は海からの景観を考えて設計された」と言われることもあるが、図からわかるとおり、当時は岸壁沿いに鉄骨造の上屋がずらりと並んでいたのであるから、海上からは赤レンガ倉庫の屋根程度しか見えなかったであろう。

赤レンガ倉庫をはじめとする新港ふ頭の陸上設備は、国の営繕組織である大蔵省の臨時建築部が設計を手がけた。このとき臨時建築部長として組織を率いていたのが、明治を代表する建築家の妻木頼黄(1859~1916)である。アメリカのコーネル大学で建築を学んだ妻木は、東京駅や日本銀行本店の設計で知られる辰野金吾らとともに、明治時代に登場する日本人建築家の最初の世代にあたり、キャリアを通じて官僚建築家としてその腕をふるった。

妻木の代表作のひとつが、1904(明治37)年に竣工した横浜正金銀行本店本館(現・神奈川県立歴史博物館)である。ヨーロッパの建築様式の習熟に努めた明治の建築家たちの到達点を示す完成度の高い建築であるが、技術的にも、赤レンガ倉庫と大きな共通点をもっている。

外から見ただけではわからないが、正金銀行の建物は、赤レンガ倉庫と同じく煉瓦を積んでつくられた組積造である。煉瓦で壁を積み、その外側に外壁面の石材を貼りつけている。ヨーロッパでも石材の豊富なイタリアやフランスでは、格調が高い建物の外装材として用いられるのは圧倒的に石であったから、煉瓦は表に見えないようになっているのである。横須賀製鉄所しかり、富岡製糸場しかり、幕末から明治初期にかけて日本に登場した煉瓦造建築がいずれも工場であったことは、こうした煉瓦の出自をよく物語っている。その点、赤レンガ倉庫の場合、100メートルを超える長大な外壁面で煉瓦を剥き出しにすることは、格式ではなく堅実さが問われる倉庫という機能からすれば、自然な流れであったと言えるだろう。

近郊の煉瓦産業の進展が背景に

日本で煉瓦が用いられるようになった当初、たとえば、先にあげた幕末から明治初期の官営工場では、現地周辺に煉瓦をつくるための窯を設けて、現地生産・現地調達がおこなわれていた。いわゆる一品生産の時代である。やがて各地で民間の煉瓦工場が操業を始めると、煉瓦も広く流通するようになる。横浜では鶴見川流域に幾つもの煉瓦工場があったことが知られている。

赤レンガ倉庫の建設工事では、2号倉庫だけで300万本以上の煉瓦が使用されており、煉瓦積みの工程に、1908(明治41)年8月末から1910(明治43)年2月末にかけての1年半が費やされている。これだけの煉瓦は当時どこから供給されたのであろうか。

工事を担当した大蔵省臨時建築部の記録には、横浜支部への煉瓦の納品者として、神奈川県橘樹郡御幸村(現・川崎市幸区)の増山周三郎と、東京市本所区(現・東京都墨田区)の千葉吉太郎の2人の名前があがっている。前者の増山周三郎は、多摩川沿いにあった御幸煉瓦製造所の二代目経営者であり、その前身は1888(明治21)年創業の横浜煉化製造会社である。御幸煉瓦製造所で製造された煉瓦は、放射状や分銅印の特徴ある刻印をもち、横浜でも多くの建物に使われていたことが、近年の調査で明らかになっている。

これらが赤レンガ倉庫の煉瓦と同一かどうか断定はできないが、明治時代の横浜に煉瓦造建築が普及していく背景に、妻木頼黄のような建築家の存在とあわせて、こうした近郊の煉瓦産業の進展があったことは間違いない。

煉瓦造建築の宿命を乗り越えて

赤レンガ倉庫の設計に際して、同じく妻木頼黄が手がけた横浜正金銀行との共通点がもうひとつある。それは耐震性の考慮である。

伝統的な木造建築と違って、煉瓦や石を積んで壁をつくっていく組積造が、地震国日本で構造的に不利であることは当時の建築家たちも理解していた。妻木はそのための対応策として、煉瓦壁のなかに鉄材を埋め込む「碇聯鉄構法」と呼ばれる耐震技術を積極的に導入していた。水平方向と垂直方向にそれぞれ鉄材を埋め込み、鉄の骨組みをつくるという点で、鉄筋コンクリート構造の原形といえる技術である。横浜正金銀行も赤レンガ倉庫も、この鉄材による耐震補強を導入していたことで、1923(大正12)年の関東大震災を生きのびたと言えるだろう。もっとも赤レンガ倉庫も完全に被害を免れたわけでなく、一号倉庫は部分的に倒壊したために、現在では半分の長さになってしまっているのであるが。

新港ふ頭完成予想図

新港ふ頭完成予想図
Outlines of the Improvement Works Yokohama and Kobe Custom Houses, 1910
横浜開港資料館所蔵

しかし、震災を生きのびたことは、のちの赤レンガ倉庫再生にいたる第一歩であった。関東大震災による被害が大きかったことから、以後煉瓦造建築は、東京・横浜にかぎらず日本全国から姿を消していく。その後、耐震性と耐火性を備えた鉄筋コンクリート建築が急速に普及することで、日本の都市景観は大きく変わっていった。

戦後、横浜港のなかで当初の機能を失い、解体もささやかれるなか、横浜駅周辺と関内地区とを結ぶエリア(現在のみなとみらい21地区)の再開発事業のなかで、赤レンガ倉庫は再生をとげた。貨物線の線路やプラットホーム跡、税関事務所の基礎遺構など、かつての新港ふ頭の名残りが各所にみられる赤レンガパークのなかで、赤レンガ倉庫は間違いなくシンボリックな存在である。

建物の巨大さは、倉庫という港の機能を視覚的にあらわすと同時に、フレキシブルな活用が可能な大空間を提供する。またかつてのふ頭という立地は、人びとが集い賑わう水辺の空間を演出する。倉庫という空間、水辺という場所、この2つの要素に加えて、煉瓦という現在の街からは消えてしまった存在が、私たちに失われた時代へのノスタルジーを呼び起こし、赤レンガ倉庫のかけがえのない魅力となっている。

明治という限られた時代のなかで輝いた煉瓦の記憶は、現在のまちづくりのなかで生き続けている。

青木祐介  (あおき ゆうすけ)

1972年大阪府生まれ。
横浜都市発展記念館主任調査研究員。

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