Web版 有鄰

513平成23年3月10日発行

杉本章子と『東京影同心』 – 人と作品

江戸町奉行所の“八丁堀”は明治をどのように生きたか

杉本章子氏
杉本章子

「お上」が代わる大変動に対処する庶民

江戸市中の取り締まりを務めていた江戸町奉行所は、明治元年、市政裁判所と名を改め、やがて東京府に移管されて姿を消した。“八丁堀”と呼ばれていた同心や岡っ引きたちは、時代が移り変わる中、どう生きたのだろうか。

「久しぶりに、明治の話を書こうと思いました。それも、元年から4年までの初頭を。私たちにとって昭和の昨日と平成の今日が地続きだったように、明治になった当時も、実際の庶民の生活は“昨日の続き”だったと思います」

南町奉行所の同心の子として生まれた金子弥一郎は、父の死に伴い、19歳で家督を継ぐ。商家から迎えた妻が不意の病でお腹の子と共に死に、翌々年に母が亡くなる。寂寥感から仕事に没頭、慶応3年、25歳で定町回り同心に出世するが、大政奉還により奉行所にも変動が訪れる。家族すべてを失った弥一郎は、仕事を辞し、無為徒食の身になってしまう。

「久留米の有馬藩が絡んだ明治4年のクーデター未遂事件を、物語の中心にしようと考えて書き始めました。ところが、江戸時代のことが絶えずフラッシュバックして、うまく進まない。江戸から明治に移り変わる、“時代”というもうひとりの主人公がいるんだなと気づき、主人公の年齢をぐっと下げて、江戸時代から書き始めると、物語がするすると動きだしました」

死んだ妻の父で、商いに長けた下総屋は、屋号を「富国屋」と改めて洋服の商売を始める。金子家の岡っ引きだった常五郎は、料理茶屋に商売替えをする。世が世なら優秀な同心として鳴らしていたはずの弥一郎は、舶来の赤葡萄酒を飲み、酒浸りになりながら、先行きを模索する。

「現代の私たちはこの時代の先に何があるかを知っていますが、弥一郎には分からないわけですから、当時の庶民に見えるものだけで物語を描かなければならないと、絶えず自分に言い聞かせていました。どの人物も、新しい世の中を渡ろうと必死だったと思います。特に、ひとりで生きる人は、ひりひりとした孤独感を持ちつつ時代の悲哀を感じていたでしょうから、前の時代に何もかもを落としてきてしまった人物を据えたくて、弥一郎を身一つの状態にして新時代に立たせました」

弥一郎の右の手のひらの真ん中には、ほくろがある。めでたい“つかみぼくろ”だと褒めてくれた妻ら全てを、弥一郎は失った。だが、流れる時代の中に新たな出会いがあり、つかむものべきを見いだして、弥一郎は生き直す。

「この時代の日本人は、人と人の繋がりが濃密な分、相手の気持ちを察して必要以上に踏み込まないなど、適切な距離を測って支え合う術を身につけていたと思います。大人社会だったからこそ、庶民たちは平和裡に助け合い、お上が代わる大変動に対処していけたんでしょうね」

江戸を舞台に庶民を描く時代小説作家

1953年福岡県生まれ。ノートルダム清心女子大学卒業、金城学院大学大学院修士課程修了。江戸文学を学ぶ。修士論文の延長で書いた「男の軌跡」で、1980年に歴史文学賞佳作入選。1989年、『東京新大橋雨中図』で直木賞受賞。2002年、『おすず − 信太郎人情始末帖』で中山義秀文学賞。江戸を舞台にした時代小説作家として押しも押されもせぬ存在である。

「その時代の人になりきって書きたいといつも思っていて、自分の身の丈で想像できるから、庶民を書いているのだと思います。読むのも世相の本が多く、普通の人の人生は、英傑に負けないほど凄いと考えています。また、普通の人の言葉も好きで、何か耳にしたら書き留めます。ある職人さんが言った”つかみぼくろ”という言葉が印象に残り、今回、皮肉な形で使ってみました。言葉が持つ凄さと、そこにある物語性をできるだけ感じ取っていきたい」

本作は、2009年の創業100周年を記念して、講談社が2年がかりで実施した「書き下ろし100冊」の1冊として刊行された。

「遅筆なので書き下ろしは無理だろうと思ったら、できてしまいました。連日、孤独に書き続けて、本が店頭に並んだときは信じられない気持ちでした。でも今、読者の方から感想を頂戴して、投げ出さずに書き上げてよかったと思っています。弥一郎と米八がどうなるか、脇役にも愛着がありますし、彼らがその後どう生きていくかを私も知りたい気はしますね。非常にハードな書き下ろし体験をしましたが、また自分のペースに戻り、じっくり、いろいろな作品を書いていきます」。

(青木千恵)

東京影同心

東京影同心
杉本章子/講談社/1,600円+税

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