Web版 有鄰

512平成23年1月1日発行

私の「写字生」体験記 – 1面

木田 元

手書き文字や紙の本への挽歌

どうやら今年あたりが、日本での電子書籍普及の元年ということになりそうだ。そう簡単に紙の本が姿を消してしまうとは思われないが、新刊書の出版様式が変わるだろうから、書店の形態も大きく変化していくにちがいない。そして紙の本から電子書籍へのこの移行は、手書き文字からパソコンへの移行よりももっと速いスピードで進行しそうな気がする。

なにしろ近ごろ、電子書籍のニュースや広告がやたら目につく。好奇心は人並みに強い方なので、いずれ買いこむつもりだが、まだ内外のメーカーが競合していて、どの機種にしたらよいのか決めかねるようだ。もう少し様子を見てからのことにするが、しかし手に入れても、そううまく使いこなせるとは思えない。やはり私たちは最後まで紙の本に心中立てをする世代なのだろう。

それにしても、手書き文字や紙の本には本当にお世話になった。この一文、正月早々縁起でもないが、そうした手書き文字や紙の本への私なりの挽歌のつもりなのだ。

私たちの世代の読書体験史のなかで、いわば技術的に見て画期的だったのはコピー機の出現だった。

思い返してみると、大学の授業で使う洋書のコピーを、比較的気軽に学生に配ることができるようになったのは、1970年ごろからではなかったか。1960年代から使用可能にはなっていたが、しばらくは高価だったり、1年間の利用枚数が制限されていたりして、そう自由には使えなかった。

それまでは、手書きで写すか、人に頼んでタイプライターで打ってもらうか、原紙にタイプで打ったものを謄写版で複写するか、写真に撮って、特殊な紙に焼き付けてもらうかしか方法はなかった。自分で手書きする以外は、どれも相当な費用がかかった。

そのために私たちは学生時代に、今からは信じられないような苦労をさせられた。そのあたりのことを思い出してみたい。

ドイツ語、ギリシア語、ラテン語、フランス語をそれぞれ3か月で習得

満洲育ちの私は、第二次大戦の敗戦とともに、16歳で江田島の海軍兵学校を追い出され、その後5年間さんざん回り道をしたあげく、1950年になってやっと旧制度最後の学年の東北大学に入り、哲学の勉強を始めた。ハイデガーの『存在と時間』を読みたい一心からだった。

だが、旧制高校にいけなかった私は、入学後急遽独学でドイツ語を仕込まねばならなかった。なにしろ旧制高校の卒業生が学生の主体である旧制大学なので、入学早々から「演習」という名の原書講読の時間には、カントの『純粋理性批判』やヘーゲルの『法哲学綱要』を遠慮会釈なしに読み進めている。語学の授業に出て、1年がかりでドイツ語を勉強した上で、なんて言っている暇はないのだ。

ところが、この演習のテキストが問題なのである。戦争中にはじまったことなのだが、戦後のこのころもまだ洋書の輸入は杜絶していた。古本で手に入れることはできるのだが、古書にしてもとても貧乏学生に手の届くような値段ではなかったし、仙台にはそれほど古書店もなかったのだ。

したがって、演習で使うテキスト、たとえば『純粋理性批判』は、先生が図書館から借りてきて、又貸ししてくれるのを使うしかない。そこには大判のベルリン・アカデミー版もあれば小型のレクラム文庫もある。いわゆる亀の甲文字で印刷されたものもローマ字体のものも入り混じっている。図書館には20種類を越える版があるものだった。それを先生がありったけ借り出してきて、出席者にアト・ランダムに手渡してくれるのだ。版によって読みやすさにずいぶん差がある。

だが、どの版であれ、ドイツ語を学び始めたばかりの私などは、原文の単語の下に一々訳語を書き込まなければならない。しかし、図書館の本に書き込みはできないので、次の時間に読む2・3ページ分をノートに書き写して、そこに訳語を書き込み、その上で横に置いた翻訳と首っぴきで読んでいくしかない。

ヘーゲルの『法哲学綱要』の方は、日本で造られた写真版の復刻本があり、研究室でそれを買わされた。薄黒い粗悪な紙に焼き付けられたそのテキストは今も手元に残っているが、1821年のベルリン版の復刻だとわかるだけで、奥付も発行所の記載もない。だがこれも活字は小さく行間がせまいので、結局は同じこと。今なら拡大コピーをすればすむところを、やはりノートに書き写した上で読むしかなかった。

『純粋理性批判』も、2年目には神田の崇文莊で造ったフィロゾーフィッシェ・ビブリオテーク版の粗悪な復刻本を神田の古書店で手に入れたが、実際に読むのはやはり手書きのノートの方だった。

ちなみに、戦争中の昭和18年にハイデガーの『存在と時間』の復刻本も本郷の福本書院から発行されていて、私たちも最初は古書で買ったこの本で読んだのだが、それが今も手元に残っている。

その奥付を見ると、売価は10円96銭。「週刊朝日」編の『値段史年表』に照らすと、この昭和18年ごろ蕎麦の盛りが16銭、ビールがジョッキ1杯83銭、新聞の購読料が1か月1円30銭だったから、べらぼうな値段と言うべきだろう。

話はそれたが、ドイツ語はうまく仕込んだ。そして、写本もドイツ語のうちはまだよかった。2年になってギリシア語を仕込んでからは、その写本がくわわった。

私は受験英語と大学入学後のドイツ語独学で語学独習法を身につけたらしく、その後も毎年心理状態が不安定になる春先の3か月間を語学習得に当てることにしていた。

毎日8時間くらいかけ、3か月間1日も休まずに、まず最近5日間分の単語を復習し、名詞や動詞の変化を暗唱して口で言えるようにする。英国の教科書を使っていたので、ギリシア文を英文に訳したり、英文をギリシア文に訳したりする練習問題も丹念にやる。どれも藁半紙に鉛筆で書きながら手で覚えるのだ。

毎日やっていると、半ばサド=マゾヒスティックな気分になってくるが、たった3か月だ、やってやれないことはない。もっとも、テレビもなければ、貧乏で酒など呑めない時代だったから、できたことなのかもしれない。

こうして、2年目にギリシア語、3年目にラテン語、大学院1年目にフランス語をものにした。どれも夏前に、たいてい80課に編成されている文法の教科書を1日1課ずつやる。秋からは「古代中世哲学史演習」といった授業に出て、単位をもらい、それをきっかけになにか1冊本を読む。それで仕上がりだ。

岩波ギリシア・ラテン原典叢書 カエサル『ガッリア戦記』

岩波ギリシア・ラテン原典叢書
カエサル『ガッリア戦記』

鷹揚なもので、このころの国立大学には「9月開講」という悠長な授業があり、この演習もそれだったので好都合だし、ほとんど先生と1対1なので、怠けられない。

ギリシア語をやった最初の年のこの演習のテキストは、プラトンの『ソクラテスの弁明』だった。当時「岩波ギリシア・ラテン原典叢書」という、解説・原文・註解、それに語彙という簡単な辞書まで付けて、上質な紙に印刷した、実に瀟洒で親切なシリーズが出ていた。ギリシア語とラテン語それぞれ五冊出されており、『弁明』も入っていたので、それを使った。

といっても、初めて眼にするギリシア文字、これこそ手書きで写さなければ身につくものではない。結局これも全篇手書きで写したし、翌年のテキスト、アリストテレスの『生成消滅論』などは、むろん全集版から手写するしかなかった。

3年目のラテン語のときは、やはり秋から始まった「ラテン語上級」という授業に出たが、テキストは同じ「原典叢書」のなかのカエサルの『ガッリア戦記』だった。このテキストは今も手元に残っているが、やはり手書きで写した痕跡がある。

語学習得に不可欠な手段だった写本作業

洋書の輸入が再開されたのは、私が学部の3年生になった年、1952年の夏ごろからではなかったか。仙台の丸善で最初に買った新刊の洋書は、ハイデガーの戦後最初の論文集『森の道[ホルツウェーゲ]』だった。

ハイデガー『森の道』 書き込みは筆者

ハイデガー『森の道』
書き込みは筆者

この年の初めに、ハイデガーの弟子でアメリカに亡命中のカール・レーヴィットから送ってもらったとおっしゃりながら、三宅剛一先生がうれしそうに見せてくださり、羨ましくて仕方のなかった本だったので、それを自分のものにでき、天にも昇る心地だった。夢中になって読んだことを覚えている。

それはともかく、こうしてみると、必ずしも洋書が輸入されなかったからとばかりも言えないが、やはりそれが主たる動機で、戦中から戦後にかけての10年近く、20世紀のただなかだというのに、私たちはまるで中世の修道院の写字生のような写本作業をしていたことになる。考えようによっては、望んでも得られない貴重な体験をしたことにもなりそうだ。

今なら適当な大きさに拡大コピーをしておいて、そこに書き込めばすむ話である。コピー機の出現によってどれほど読書が楽になったかは言葉に尽くせないくらいだが、やはりあの時点でのあの手写の作業は、私にとって語学習得の不可欠な手段だった。

電子書籍の時代にでもなればむろんのこと、今でさえもう覚えている人のほとんどいない遠い昔の出来事だが、そんな時代もあったということを、どこかに少しだけ書き残しておきたかったのである。

木田 元氏
木田 元 (きだ げん)

1928年生まれ。山形県出身。哲学者。著書『ハイデガーの思想』岩波新書 800円+税、『闇屋になりそこねた哲学者』ちくま文庫 720円+税、ほか多数。

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