Web版 有鄰

512平成23年1月1日発行

北方謙三と『抱影』 – 人と作品

港町・横浜を舞台に描く純愛小説

北方謙三
北方謙三

やり遂げた男にとっての“滅び”とは何か

舞台は横浜。戦後、著しく発展した街の表と裏を知り尽くした男が主人公。講談社「書き下ろし100冊」の1冊として刊行された。

「500枚前後の小説を書き下ろすにあたり、まとまりのよい現代小説の方がいいと思ったし、歴史小説を手がけていると、時々は現代小説を書きたくなるんです。現代的なリアリティを意識した上で歴史を書くのでないと、どんどん過去に取り込まれる。現代社会をきちんとみていたい思いは、常にあります」

『水滸伝』全19巻の続編、『楊令伝』全15巻のラスト200枚を、昨年7月上旬に脱稿。本作は、続く7月末までのほぼ20日間で書き下ろした。横浜は、1981年刊行の初の著書『弔鐘はるかなり』でも描いた街である。

「船乗りだった父が帰港地である横浜の近くに家を買い、昭和30年代に家族で転居しました。父を迎えに行く横浜は、小学生の僕にとって唯一の都会でした。当時はもっと猥雑で、大岡川にダルマ船が並び、酒場や商店が営まれ、人が住み着いて、生ゴミでも何でも川に流していた。東京五輪前の浄化活動でダルマ船が撤去され、川面すれすれに造られた2階建ての長屋が“ハーモニカハウス”。夜の街が照明で照らされて、10代の僕は酒場に出入りできないまでも、街に対して鮮烈な印象を持ちました」

物語の主人公、硲冬樹は、成功した画家。のたうち回って絵を描くさまは若い頃と変わらないが、酒場を5軒経営し、「先生」と呼ばれるようになっている。本牧小港の酒場のママと愛人関係を結びながら、女医で人妻の響子と、22年間、たまに会って食事をするだけの関係を続けている。

「どれだけ年を重ねても、ただひとつだけ残っているきれいなもの。30年前、19歳の響子に惹かれた22歳のときの感覚、人の純粋さの“核”のようなものを硲は抱いて、絵を描いている。性欲も何もない、異性への恋情。心の底にこびりついた“かたちのないもの”を描こうと、挑み続けている男です」

初め、写実的だった響子の素描はディフォルメされ、硲の絵は抽象画に飛躍した。〈素描のディフォルメは、自分が自分だと、自覚できる状態でやっている。無我夢中になったとしても、跳んではいない。かたちというものが、私を現実に繋ぎ留めているのだ〉。響子の死が近いと知った硲は、響子の願いに応じ、のみを使って、響子の肉体に思いを彫り込んでいく。

「硲と響子だけがわかるものを、響子の躰に描く。響子の死とともに絵も消える。表現の源流とは、刹那的なものじゃないかと思うことがあります。ぱっと光が輝くときがある。それは刹那で、表現物とは、後の残光を人に伝えているだけかもしれない。どれだけやっても表現しきれないから、挑み続けるのだと思います。やり遂げた男にとっての死、“滅び”とは何だろう。なおも現実の時間が流れて死を迎えても、彼にとり、肉体的な死など何の意味もない。歴史小説で、歴史上の人物の意味のある死ばかり描いていると、まったく意味のない死もあるんじゃないかという疑問が湧いてきます」

“これでいい”と思った瞬間に作家は死ぬ

1947年、佐賀県唐津市生まれ。中央大学法学部卒。在学中の1970年、「明るい街へ」が雑誌『新潮』に掲載されてデビュー。1981年『弔鐘はるかなり』で本格的にデビューし、ハードボイルド小説に新境地を開く。1985年『渇きの街』で日本推理作家協会賞。1989年『武王の門』で歴史小説に挑み、1991年『破軍の星』で柴田錬三郎賞。1996年に『三国志』の刊行を開始して以降、中国小説での活躍も目覚しく、2004年『楊家将』で吉川英治文学賞、2006年『水滸伝』全19巻で司馬遼太郎賞。2009年、日本ミステリー文学大賞を受賞。

「結核にかかり、死ぬなら本気でものを書いてやろうという自己表現欲から、小説を書き始めました。『新潮』に掲載された後は、ボツばかり食らっていました。積み上げたら背丈を超えるほどのボツ原稿を書いて、小説に食らいつきました。意味もなくむやみに突っ走る時期がある。書いて活字になる打率が0.03でも、一生懸命書きましたからね。俺の青春もまんざらではなかったと思っています。傑作を書こうと思ったことは一度もなく、無数に書いた中から、もしかすると傑作が生まれてくるかもしれないと考えています。“これでいい”と思ったら終わり。その瞬間に作家は死ぬんです」

(青木千恵)

『抱影』・表紙

抱影
北方謙三/講談社/1,600円+税

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