Web版 有鄰

555平成30年3月10日発行

坂を上って – 海辺の創造力

蜂須賀 敬明

横浜と言えば何か。言うまでもなく、坂である。僕の実家は長い坂の中腹にあり、横浜競馬場の跡地である根岸森林公園や、港の見える丘公園、エリスマン邸、外交官の家など横浜を代表する観光地の多くは丘の上に鎮座し、嫌でも坂を歩く羽目になる。

お正月の風物詩である箱根駅伝、横浜市を通過する花の2区は中継地点の鶴見から横浜駅までは平坦な道が続くものの、終盤に現れる権太坂がランナーの体力を奪っていく。横浜市には3つの動物園があるが、野毛山動物園はその名の通り山の上で、よこはま動物園ズーラシアは八王子街道と交差する中原街道の坂を上った先、金沢動物園は横浜市内最高峰の山・大丸山の横に位置している。先の大戦の末期、旧海軍の連合艦隊司令部がわずかな期間だけ日吉に移転してきたのも、高台で通信の感度が良好だったことが理由の1つらしい。横浜の山坂エピソードをピックアップしていけば、それこそ1冊の本が書けそうなくらい、枚挙に暇がない。横浜は坂だらけなのだ。

山の上に家があると、買い物をするにしろ、駅へ向かうにしろ、坂を上り下りする必要がある。とても生活が便利とは言えない。これだけ坂だらけだとさぞうんざりしていると思われるかもしれないが、何を隠そう僕は坂が大好きである。

坂を上る最大の楽しみは、人の営みを感じられるところだ。高い丘を越えた向こうにも街が広がり、僕の知らない人たちが、僕の知らない生活を過ごしている。そういう未知の営みを想像しているうちに、新しい物語がふと自分の中に生まれていることがある。坂を上って景色を眺めるのは、どんな読書より執筆への示唆を与えてくれる。

たまに、どうやったら小説が書けるのか、と質問を受けるが、答えは簡単で坂のある街に住むことである。季節や時間によって姿を変える街の景色を見て思いを馳せるだけで想像力は膨らむし、何より毎日坂を上り下りすればそれなりに体力も付く。小説家に大切なのは類い希な才能でも、豊かな教養でもなく、物語を最後まで書ききる体力であり、これがなければどれだけ文才に恵まれようとも宝の持ち腐れになる。

坂は感性を磨くだけでなく、忠告も与えてくれる。上るは難く、下りは易し、とは故事成語ではなく、僕が坂を自転車なんかで下りる時に常々考えていることだ。苦労して上った坂も、下りる時は一瞬である。どれだけ努力をして地位や名声を得たとしても、落ちぶれるのは一瞬だという考えで、僕の慎重な性格ももしかすると坂によって形成されたのかもしれない。

僕は今、小説を書くことが仕事になっているが、その感性を磨いた1つは坂であり、横浜が坂のない街だったら、別の仕事をしていたかもしれない。それを思えば、急すぎる坂を上る時に文句を言うのも罰当たりというものだ。これからも汗をかきかき、黙々と坂を上るより他になさそうである。

(小説家)

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