Web版 有鄰

511平成22年11月10日発行

盛り場イセザキ140年 – 2面

平野正裕

道路整備に寄付した3人が町名の由来

近年、伊勢佐木町では、エクセル伊勢佐木(元松屋横浜支店)でイセザキ木曜寄席やミニコンサートが試みられたり、ガラス張りの「クロスストリート」ができてさまざまな集まりに使われたり、と集客にむすびつける話題が少なくない。

「伊勢佐木町」が町名として横浜に出現したのは、明治7年(1874)5月20日である。町名は道路整備に3千円の寄付をした、伊勢屋中村治兵衛・佐川儀右衛門・佐々木新五郎の3人の名前に由来した。「伊勢佐木町通り」と称される、残りの松ヶ枝町・賑町・長島町は、前年に町名として成立していた。盛り場形成の視点から考えると、吉原遊廓や芝居小屋下田座の移転が契機となるから、その発展はおよそ140年と数えてよいだろう。

何でもそろう横浜庶民が楽しむまち

「雲井町大火」以前の伊勢佐木通り(19世紀末)

「雲井町大火」以前の伊勢佐木通り(19世紀末)
放送大学付属図書館蔵

その後、伊勢佐木通りとその界隈には、芝居・寄席などの興行のほか、射的や玉突きなどのゲーム場、商店などが進出して、横浜唯一の盛り場として発展した。伊勢佐木の実態調査をした最古の報告といえる「横浜の遊楽地」(『横浜商業会議所月報』明治30年1月号)には、「その遊歩人種の外来者少なくして本港民の多きにあり」と、外来客は少なく、横浜庶民が楽しむまちであるとする。そして、「その商店の種々雑多にして足一たび此地に入れば物として得られさるなく事として達せられさるなき」。つまり、何でもそろっているまち、なのであった。当時、舶来品や美術工芸品、高級雑貨・みやげ物などの商店が軒を並べた関内の弁天通りや馬車道が、東京の銀座にたとえられるのなら、伊勢佐木界隈は興行が中核である浅草、といえた。その後、明治32年(1899)8月の「雲井町大火」によって、伊勢佐木界隈はほとんど焼失の憂き目にあう。しかし、その復興はすみやかであった。

伊勢佐木の集客力に関内の名店が移転

明治時代末の伊勢佐木通り 右端が「亀楽せんべい」

明治時代末の伊勢佐木通り 右端が「亀楽せんべい」
横浜開港資料館蔵

明治42年(1909)の開港50周年を記念して、翌43年に成功者の略伝をあつめた『横浜成功名誉鑑』が刊行されたが、伊勢佐木界隈を住所とする者は意外に少ない。横浜の老舗・名店は関内に多く所在していたのである。菓子店ひとつをとってみても、関内には風月堂、港月堂、住田楼、新杵などの名前がある。他方、伊勢佐木界隈では、亀楽せんべい、贅沢せんべいがある。

亀楽せんべいは横浜名菓の代表であった。もとは関内境町で営業していたが、伊勢佐木に支店を置き、のちに支店が本店化した。亀楽せんべいのように、開港50年を迎えるころから、関内や元町から伊勢佐木に店舗を進出させる者がみられる。その代表格は弁天通りの野澤屋呉服店と大和屋シャツ店である。野澤屋呉服店は、生糸商茂木商店の呉服部であるが、ショーウィンドーをもつ2階建て店舗を伊勢佐木町に新設した。その後野澤屋呉服店は弁天通り本店をとじ、伊勢佐木一店展開をする。その発展として、大正10年(1921)に開店したデパート野澤屋呉服店は長らく伊勢佐木の歩みとともにあった。

その後、松屋、越前屋(壽百貨店)、寿町から移転した相模屋などのデパートの開店が相次ぎ、名店・名物も進出して、伊勢佐木に銀座的要素が加味されてゆくのである。

芝居・寄席へ松竹、吉本興業が進出

明治期の庶民娯楽の王様は芝居だった。歌舞伎だけでなく、明治になって登場した新派も伊勢佐木では人気を集めた。芝居は身近におこったニュースをすみやかに舞台にうつして庶民に提供する活気があった。伊勢佐木界隈の劇場は、新たな試みを受けいれる感受性を有し、それはとりもなおさず、横浜の観客がもつ先取の気風に由来した。

闊歩する女性たち(昭和10年代)

闊歩する女性たち(昭和10年代)
横浜開港資料館蔵

歌舞伎しかなかった時代に壮士芝居、オッペケペー節をもって新演劇ののろしをあげた川上音二郎が関東に乗り込む足がかりとしたのは、伊勢佐木町入口の蔦座だった。また、海外公演から帰った川上一座は、賑町の喜楽座で翻訳劇「正劇」ののぼりをあげた。賑町・賑座の芝居は、一名「ハンケチ芝居」と呼ばれ、ハンカチーフの縁かがりに従事する女性労働者が人気をにない、地元スターも生み出した。

大正期になると、娯楽資本の松竹合名社が横浜座を入手し、傘下にあった歌舞伎座の俳優ほか、曽我廼家喜劇などの一流の俳優を送り込んだ。松竹の経営者大谷竹次郎は、後年横浜での興行は、東京で当たった芝居ばかりならべて無駄がなかった、と回顧している。

また、東京では同じ舞台を踏むことができなかった、歌舞伎座と帝国劇場の役者が一座できるのが横浜興行のメリットであった。大正5年(1916)に、十五世市村羽左衛門・六世尾上梅幸が久しぶりに顔合わせした「十六夜清心」は大正期の歌舞伎史と松竹資本の成長を画するエポックとなった。

役者と劇場との関係を、芸人と寄席とに置き換えれば、大正12年(1923)に吉本興業が、東京より早く横浜に進出し、寄席の新富亭を横浜花月と改めて興行を始めた理由がわかる。東京の芸人は横浜には1時間たらずで汽車で来ることが出来る。東京の席亭と芸人とは密接なつながりがあり、そのような関係から、相対的に自由な地をもって、関東進出の足がかりとしたのであろう。

賑わいを呼び込んだ森永のチェーン店展開

関東大震災から3か月、大正13年(1924)1月に、伊勢佐木町入口に、森永キャンデーストアが開店した。森永の直営店としては4番目であった。さらに森永は昭和3年(1928)にチェーン店「ベルトライン」を組織し、横浜の菓子店・パン屋などが加盟していった。

一般的洋菓子が和菓子屋の店頭におかれることはそれ以前にもあり、明治後期の亀楽せんべいも、東京品川・東洋製菓のビスケットやドロップスを置いていた。しかし、森永のチェーン店展開は違っていた。接客法やディスプレイの指導を徹底して企業イメージの統一をはかるばかりでなく、「森永スヰートガール」「森永キャラメル大将」などの宣伝販売員の派遣、各種キャンペーンの仕掛けをして、イセザキに賑わいを呼び込んだ。外部資本が活躍する時代が幕開けしたのであった。

かつての“にぎわい”や“ときめき”を

今日のイセザキは、かつて老舗のあった場所に建てられた貸店舗に、巨大チェーン店が進出して、旧いイセザキの顔が見つけにくくなっている。その傾向が現代資本主義経済の原理にもとづくものならば、避けられないであろう。

イセザキに、記憶にある“にぎわい”や“ときめき”を取り戻すには、いよいよそのまちに住まう者たちによる工夫が問われる時代になったと私は思うのである。

横浜開港資料館では10月27日から来年1月30日まで開催の企画展示「ときめきのイセザキ140年」で、横浜庶民の「ときめき」を一身にあつめた伊勢佐木界隈の歴史を諸相を紹介しています。

平野正裕 (ひらの まさひろ)

1960年静岡県生まれ。
横浜開港資料館主任調査研究員。著書「茂木惣兵衛」『横浜商人とその時代』所収、有隣堂(品切)ほか。

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