Web版 有鄰

507平成22年3月10日発行

横浜の地形図に教わった「世界観」 – 1面

今尾恵介

2万5千分の1地形図の精緻な美しさ

私が地形図に初めて出合ったのは、実に38年も昔の昭和47年(1972)の4月か5月、横浜市立万騎が原中学校1年9組の教室である。社会科の地理分野では、必ず「地形図の読み方」を習うことになっているのだが、先生は実物の2万5千分の1地形図「横浜西部」を見せてくれた。その精緻な美しさに私はたちまちにして引き込まれてしまったのである。細道の通学路も忠実に描かれているし、集落の様子、学校の校舎の配置、25メートルのプールまで正確に長辺1ミリで表現されていて、圧倒された。

2万5千分の1地形図を40センチ離れて見るというのは、実は1万メートル上空を行く飛行機の窓から地上を眺めるのと同じことである(1万メートル=10キロを2万5千分の1にすると40センチになります!)。飛行機の窓からの眺めはワイドでありながら相当細かいものまで見える。なかなか絶妙な縮尺なのである。

「縮尺の数字を言われても実感が湧かない」という人が多いのだが、慣れてしまえば簡単だ。私はモノサシがなくても地図上の距離がすぐわかる。あくまでも縮尺が明記された地図だけの話であるが、私の場合、左手の人差し指と中指を広げた時、つまりVサインをすると指先の距離がちょうど10センチになることを利用する。たとえば縮尺が10万分の1であれば、V字の先端は図上の10キロを示すし、2万5千分の2なら、2.5キロ、学校の地図帳で「関東地方」が120万分の1なら120キロだし、地球儀で3000万分の1なら3000キロである。実に簡単でしょう。計算すれば当たり前の話だが、誰でも簡単に応用できるので試していただきたい。人によってサイズは異なるから、ちょうど10センチの部分を探す必要はあるが。

パソコンや携帯電話での地図サービスの普及で「地図はタダ」という認識が広がり、昨今は紙の地図が売れなくて業界は困っている。確かにネット上の地図はどこでもスクロールして、しかも大きな縮尺に拡大して見られて便利だ。コンビニやマンションの名前から交差点名、果ては動物園のオリの中の動物の名さえも書かれているご時世なのだが、それでも私は地形図が好きだ。

地形図にはコンビニや交差点名、バス停などは示されていない。2万5千分の1なら小学校の名前すら載っていないのだが、その代わりネットの地図や市街地図、道路地図に載っていないものがある。それは土地利用に関する情報である。田んぼか畑か、湿地か空き地か市街地か、農村集落か。山なら広葉樹林か針葉樹林、竹林かといった情報が満載なのだ。そしてもう1つは等高線などによって地形が詳細に描かれていること。これで土地の起伏と植生・土地利用がわかり、慣れてくると風景が思い浮かべられるようになる。

中学1年の私は、その授業のおそらく数日後にさっそく「横浜西部」と「川崎」の2枚を、横浜駅西口の有隣堂で買った。友達の家への道、何度も乗って車窓風景を覚えている相鉄線、横須賀の祖父母の家などを見つけ、無意識的に地形図の表現と実際の風景の対応関係を把握していたのだと思う。地図というのは「記号化」であるから、現実と記号の対応関係を知れば、未知の世界へもさまざまに応用が効き、そこから先が面白くなってくる。

二俣川周辺の32年間に起こった変化

ひと通り神奈川県や東京都内の2万5千分の1を集めた後、私は未知の世界に向けてコレクションを拡大していった。まだ行ったこともない北海道の根釧原野の、それも人家がなるべく少ない図を買ったり、沖縄が返還されて5万分の1が一斉に発売された時などは、まっ先に那覇や石垣島などの図を買って、ヤシの木の記号やサンゴ礁の描写に、まだ見ぬ南の島を夢想したものだ。高山帯も好きで、高校生の頃は新田次郎さんの小説を、舞台になった剱岳や八ヶ岳などの地形図を買ってわくわくしながら読んだ。

下の図は、私が幼稚園から大学1年生まで過ごした横浜市旭区(最初は保土ヶ谷区)の二俣川から希望ヶ丘にかけての区域であるが、上が昭和41年(1966)改測、下が平成10年(残念ながらこれでも最新版)。この32年に起こった変化は実に大きい。上のは小学校に入学した年で、相鉄線も2両か3両編成だったが、それなりの沿線人口しかなかったのが一見してわかる。

2万5千分の1 「横浜西部」(×0.68)

上下ともに2万5千分の1「横浜西部」(×0.68)

とにかく針葉樹林、広葉樹林の山林が多い。グレーの網掛けになった集落は「樹木に囲まれた居住地」という記号で、ここの場合は古くからの農村集落に該当し、網のない画一的な黒い四角形が並んでいる区画は新興住宅地、具体的に言えば希望ヶ丘や万騎が原に相当する。両者の中間にある74メートルの標高点が見える小高い畑の丘には2年後に「さちが丘分校」(現さちが丘小学校)ができる。私も、3年生からそこに通った。図を斜めに貫く新幹線も当時は1時間に「ひかり」一往復、「こだま」一往復という牧歌的な時代で、子どもたちはその通過に、「超特急!」と歓喜の声を上げていた。パンタグラフが多くて通過音は今より騒々しかったが、世の中の「希望の総量」も今より多かったように思う。

新幹線の線路の南側は当時の子どもたちにとっては「禁断の地」だった。森の中に通っている帷子川水系と境川水系の分水界は保土ヶ谷区(現旭区)と戸塚区の境界で、これは後で知ったことだが、武蔵と相模の国境でもあった。そちらに火薬庫がある話は当時も聞いていたが、森の中に四角く掘り下げられた中に点在する、一見して家ではない謎の建物が何なのかわからず、不気味さに後ずさりすることもあった。

小学生の時にこのエリアに対して感じていた「自分の住んでいる領域の外側には、どこまで広がっているかわからない不気味な森があって、その向こうは謎」という地理感覚は、2万5千分の1の獲得により、「森の向こうにも人里がある」という認識に変わったが、大袈裟なことを言えば、広大なフロンティアが存在した「大航海時代」から、グーグルで何もかも見えてしまう現代への認識の変化にも匹敵する、かなり劇的な世界観の転換だったかもしれない。誰もが多少の差はあれ経験しているはずだ。

高校生の頃に「いずみ野線」が開通した。当時は友達に付き合って「文芸同好会」に所属していたが、そこに緑園都市、弥生台、いずみ野といった、「今出来の、歴史的地名に基づかない駅名」が命名されたことを批判する文章を書いた。そのあたりの感覚は、50歳の今になっても変わっていない(あまり進歩していないのだ)。

2万5千分の1地形図「横須賀」も好きな図である。祖父母の家は田浦大作町の山の中腹の、自動車では行けないところにあり、裏の畑まで上れば長浦湾を俯瞰することができた。その立体感は幼児の頃から好きで、この地形図を見るとそれが甦ってくる。

横須賀はいわゆる「リアス式海岸」で天然の要塞を成し、かつ首都の湾口を睨むという絶好の位置は、首都を守る海軍としては絶対に確保すべきエリアで、当然のようにそこに鎮守府が置かれた。しかしリアス式海岸は平地が乏しく、万単位の従業員を擁した海軍工廠とその下請けの労働者・家族を住まわせるには土地が不足し、谷が満杯になれば山へ上っていくしか住居を確保する手段がなかったのである。

図には入り組んだ尾根の間のそれぞれの小さな谷が家で埋め尽くされており、等高線と密集市街地の斜線、それにトンネルを穿つ2本の鉄道と国道16号、港の倉庫群と自衛隊、米軍施設と、全体にいろいろなものがひしめいている。時代と地形が見事に反映された地理的景観なのだが、今も好きな地形図のひとつだ。

地形図は、ある時代の土地のポートレート

地形図というのは、ある時代における土地のポートレートである。だから、何年かおきに地形図を買ってきて変化をたどる行為は、同じ場所に三脚を立ててシャッターを押す定点観測だ。これはなかなか面白くて、大人になって少し財布が自由になると、古書店へ行って戦前の地形図を漁るのが趣味になった。明治から大正、昭和の戦前を眺め、それを見ながら現在の風景に接すると、地形や植生、土地利用で構築される世界に、さらに別の時間軸の奥行きが加わって映像が立体的になる。味をしめるとやめられない趣味である。

「最近、暗がりが少なくなった」と象徴的にも現実的にも指摘される。森が消え、また薄くなり、こっちの世界とあっちの世界が素通しで見えてしまう昨今の横浜を見るとき、森の向こうを想像する少年時代を過ごせた私は、なかなか幸運だったと思う。

今尾恵介氏
今尾恵介 (いまお けいすけ)

1959年横浜生まれ。 財日本地図センター客員研究員。
監修『日本鉄道旅行地図帳』全12号・別巻 新潮社 各648円+税、著書『日本地図のたのしみ』角川学芸出版 1,600円+税、ほか。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.