Web版 有鄰

506平成22年1月1日発行

我が青春の文学放浪 – 1面

北方謙三

きょうは、私の青春文学放浪の話をしようと思っています。文学放浪というのは、その人間がどうやって生きてきたかということです。

小説で一番リアリティーがあるのは「願望」です。だから、こういう男になりたい、という姿を書く。ところが、読者の方はなぜか、作者はこういう男だろう、と思ってしまう。私が主人公みたいな人間だったら50回ぐらい死んでいます(笑)。願望は幼いころから全然変わらないというところもありますし、年を経て変わってきたというところもあります。

外国航路の船乗りだった父を迎えに唐津から横浜へ

北方謙三氏

北方謙三
撮影/石塚定人
有隣堂創業100周年記念文化講演会にて
2009年11月7日 はまぎんホールヴィアマーレ

私は九州の唐津で生まれ、10歳まで育ちました。親父は外国航路の船乗りでした。船が横浜のセンターピア(新港埠頭)に入ってくることがあり、夏休みなどは、おふくろと妹と一緒に出迎えにきました。親父はその頃は船長で、制服の袖口に4本金筋が入っていて、偉そうな顔をして何か言っていました。

横浜に泊った時には、伊勢佐木町で買物や食事をしました。私の最初の本屋さんの思い出は、伊勢佐木町の有隣堂です。親父は自分の本を買うためにどこかに行き、戻ってくるまでに本を選んでおくように、と言われて、児童書売場に残されました。幼い頃は絵本で、ちょっとすると少し字の多い本を買ってもらう。幼いころから、難しい本に手を伸ばすという環境や心理状態がありましたが、それは児童書売場から出発しているのではと思います。

10歳の時、川崎に引っ越しました。中学・高校時代は、先生や親の言うこともよく聞き、柔道部では先輩は絶対でした。健全に過ごし、勉強もしました。高校時代、作文は3行書いたら時間が終わりでしたが、授業中に恋愛小説を書いて、前の席の人に読ませて遊んでいました。感想がないと首を絞めちゃう(笑)。

大学受験のためにレントゲンを撮ったら肺結核でした。診断書に「就学不可」と書かれ、世の中終わりという感じでした。落ちたのならあきらめがつくが、挑戦を禁じられ大きな挫折です。次の年は何とか受験でき、中央大学法学部に入学しました。大学紛争が日米安保条約反対運動と結びつき、激しい運動になっていた時代です。

純文学からエンターテインメント小説の作家に

そんな青春時代に文章を書き始めた。「自分とは何か」ということを知りたかったんでしょうね。同人誌に、最初から最後まで殴り合いの小説を書き、「恥ずかしい小説」と言われました。その頃は自分の実存を問う、サルトルやカミュのような小説を書かないとだめでした。

ところが、『新潮』の編集者が訪ねてきて「これを『新潮』に載せたい」と言われたんです。載ってしまったのが間違いの始まりでした。

新潮社では「大江健三郎以来の学生作家だ。天才だ」、と言われ、ルオーの絵が飾ってある応接室でお茶を飲んでいたりすると、「俺は天才なんだ」と思う(笑)。次の作品を書いてまた活字になり、「天才は天才らしく生きよう」と思った(笑)。僕は肺結核をやったので、就職に支障があると考えて、作家になろうと思いました。「第三の新人」が隆盛で、吉行淳之介、遠藤周作たちが結核でした。その後、結核は治り、エリートになる道からこぼれ落ちたという感じです(笑)。しかし、作品は2本掲載されたきりでした。5年ぐらいたつと、天才じゃないかもしれないと思うようになりました。

その頃、同世代の中上健次が『岬』で芥川賞を受賞しました。中上は血や家族の問題を抱えていて、それをぶつけるようにして書くので、リアリティーと迫力がある作品になる。『岬』はすごいことが書いてあるが、なぜ、僕の作品は載らないんだ、と思いました。自分が何を書いていいのかわからなかったんです。

中上とは素質が違うと考えていたら、「小説」が見えてきたんです。『眠狂四郎』やエンターテインメント小説も読んでいたからです。ただ、純文学を志して10年近くがたっていたので、小説もやめるべきかなとも思いました。

親父は小説家に偏見を持っていて「貧乏、病気、時々自殺する」などと言う(笑)。しかし、その時は「男は10年同じ場所にじっとしていられるかどうかによって、本物かどうかが決まる」と言った。

そんな時、ある編集者に言われて、エンターテインメント小説を書いて本になりました。「文学」ではなく「小説」という山に登る、という発想になったら、道が見えてきたんです。そんなことで、一応作家にはなりました。

作家になり、注文を全部引き受けるので忙しくなりました。「お願いします」と言われる快感。ボツを食らい続けていたので「いやです」など口が裂けても言えない。「月刊北方」と、月に1冊出すような状態になった。ここでくたばってたまるか。つぶせるものならつぶしてみろ、という感じで書いていました。

世の中にも多少認められたという時に、親父は突然亡くなりました。僕は線香を絶やさないように立てながら、翌日が締切の原稿を書いていました。その時に「男は10年」と言ったことがよみがえりました。いいことを言った、と思った時にはもういない。親とはそういうものです。有隣堂の書店員さんが親父を知っていた。最初の本が出た時に「これは2冊しかないのか。何十冊でもいいから仕入れてほしい。全部買う」、と言ったそうです。死んだ後にわかったんです。

物語の中には人を動かす心の命がある

作家になって、どこにでも旅行ができるようになりました。西アフリカのブルキナ、ファソのワガドゥグー空港でイミグレーションカードの職業欄に書いた「ノベリスト」とは何か、ときかれました。「本を書いている」、と書くまねをしたら、「絵か。それはアーチストだ。ノベリストという職業は、この国にはない」と教えられました。

ワガドゥグーから車で奥地に行くと、飢えた人たちがたくさんいて、大きなおなかをした子どもが「ムッシュ」と手を出す。おじいさんが裸で横たわり、日干しになって死んでいた。この国に「ノベリスト」という職業はないという意味が、初めてわかりました。サルトルはノーベル文学賞を辞退するコメントで、飢えた子どもの前で文学は無力である、と言いましたが、本当にそう思った。小説を書いていていいのか。麦を作り、届けるということができないのか、と問いかけられているようでした。

次に行ったトーゴでも、小説家をやっていていいのかを考えていました。人間の本来的な仕事とはこういうものではない、という疑問にさいなまれていました。

ある日、ホテル前のベンチに座っていると、フロントの女性が隣のベンチに座り、そこに友人が来ました。2人でおしゃべりをしているようでしたが、気がつくと友人が泣いていた。字が読めない友人に本を読んで聞かせていたんです。その物語に心を動かされて泣いたんです。その少女の涙を見た瞬間に、人間には肉体の命もあるが心の命もある。物語の中には心の命があるから、それを書くことはとても人間的なことなんだ、と思いました。これは僕にとってはすごく大きな体験になっています。読者の方が「水滸伝のあの場面が」、と言った瞬間に涙をこぼす。僕はそういうために物語をつづっていると思うぐらいです。

死んでも心の中で生きている死

パリ・北京ラリーが企画され、岩山や砂漠の中に競技区間ルートを作るため、ラリーの運営のプロが試走をすることになり、試走隊に参加しました。

タクラマカン砂漠で砂の中にあった岩にはねられて車が浮き、5回転しました。車は競技用で太い鉄パイプが入っていたのでつぶれなかった。普通の車なら死んでいた。

後を走るジャンマリーがとんできました。外に出たら、「よかったな」と僕を抱き締めました。隊長は僕の頬を叩き、「俺の名前は」ときく。「マヅー」と答えたら、「大丈夫だ。この車に乗っていけ」と言いました。でも、フロントグラスがない(笑)。

敦煌でジャンマリーは、フロントグラスの寸法にガラスを切って、木の枠をつけました。普通のガラスなので、割れたら私の顔はザクザクです(笑)。「だめだ」と言うと、ガムテープを細く裂き、内側から貼ってくれました。北京に着いた時、彼はフロントグラスにキスをしていた(笑)。

9月の本番でまた会えるはずだったのが、ラリーが1年延期になりました。そして、12月のパリ・ダカールラリーでジャンマリーは、車が3回転半した時、シートベルトを緩めていたので首が3倍ぐらい伸びて即死しました。

僕はパリに行き、試走隊のメンバーも集まりました。でも、「うまい所を紹介する」とか、そういう話しかしない。彼の話は何もしないので悪酔いしてしまい、隊長に、「ふざけるんじゃない! 一緒に命がけで旅をしてきたやつが死んだんじゃないのか」と言った。隊長は僕の頬を叩き、「ケン、よく聞け。ジャンマリーはいるじゃないか。俺たちは死んだやつのことを死んだなんて思わない。いつだってそこにいると思う。そこにいれば別に話かける必要もない。生き残った人間にできるのは、忘れない、それだけだろう。おまえがタクラマカンで死んでいたとしても、俺はおまえを忘れない。忘れない限りおまえは生きている。いつもそこにいるんだ」と言いました。

初めてフランス人の死生観がわかり、死んでも心の中で生きている死、というものがあるんだと思いました。『水滸伝』は人がたくさん死ぬ小説です。人を死なせるために苦しい思いをするんです。しかし、死んだとしても、心の中に生きていて、いつもそばにいると思うことで苦しさを克服できて書き上げました。

横浜は私の2番目のふるさとのような所です。そこで皆さんとお目にかかれたのは何かの縁です。人生は「一期一会」と言いますが、どこかでまた会うかもしれません。その時には「横浜であの話、聞いたよ」と声をかけて下さい。そうやって人と人はつながっていくものだと思います。

北方謙三  (きたかた けんぞう)

1947年唐津市生れ。作家。
著書『楊令伝』集英社、ほか『三国志』角川春樹事務所、 『水滸伝』集英社、など多数。

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