Web版 有鄰

503平成21年10月10日発行

ヘボンと横浜 – 2面

岡部一興

hepburn

J・C・ヘボン
横浜指路教会蔵

今年は、ヘボン来日150年、横浜開港150年にあたる。横浜では開港に伴う行事が盛んに行なわれている。ヘボンが建てた横浜指路教会でも10月31日から11月3日にかけて「ヘボンと来日宣教師展」を開催する。

開国前後のキリスト教は、1844年にカトリックのパリ外国宣教会のフォルカード神父が琉球に上陸、隔離されて何も出来なかったが、2年後に来たベッテルハイムは、那覇で迫害を受けながら布教し、聖書の翻訳にも力を注いだ。幕末から明治にかけて数多くの宣教師がやってきた。

彼らは、布教のために聖書を翻訳し、教会を創立し、さらに教育事業や社会事業に力を注いだ。男性宣教師は第一線の役割を担い、女性宣教師は当時牧師にはなれなかったので、教育事業などに携わることが多かった。ヘボンは、そうした枠組みを超えて活動した点で、注目すべき宣教師である。

ヘボンはヘボン式ローマ字で知られている。正しくは、ジェームス・カーティス・ヘップバーン(James Curtis Hepburn)という。祖先は、スコッチ・アイリッシュといわれている、スコットランドから北アイルランドに渡り、アメリカ大陸に移住した一団である。

教派的にはプレスビテリアンと呼ばれるスコットランドのカルヴァン派で、イギリス国教会に反対して、弾圧された。祖先はスコットランドのエディンバラで、13世紀に建てたボスウェル城主のパトリック・ヘップバーンまで辿ることができる。そこから7代目のヘボンの曽祖父サムエル・ヘップバーンの時、ペンシルヴェニア州サスケハンナ川渓谷まで進み、ウイリアムスポートやミルトンなどを開拓した。

父サムエルは法律家、母アンニ・クレーは牧師の娘で、ヘボンは、二男六女の長男として1815年3月13日にミルトンで生れた。少年時代には海外伝道への関心を持ち、ジョージ・ジェンキン牧師から信仰的な影響を受けた。

プリンストン大学で、総長アシュベル・グリーンから古典の重要性を教えられてラテン語やヘブル語を学び、これが、後に辞書の編纂、聖書翻訳に役立った。さらにペンシルヴェニア大学の医科に進み、’36年、アポプレキシー(脳卒中)の学位論文で医学博士になった。

ヘボンがペンシルヴェニア州ノリスタンで開業した頃、助教をしていたクララ・リートと出会い、東洋伝道について語り合ううちに二人は共鳴しあい、’40年10月、結婚式を挙げた。

翌年7月シンガポールに到着、’42年アヘン戦争によって香港が割譲され、広東、上海、厦門[アモイ]など5港が開港されると、’43年2月頃アモイ対岸のコロンス島でアビールと医療活動を開始したが、妻の病気のため留まることができず、’46年3月ニューヨークに帰着、42番街で医院を開き、13年間、市民の信頼を得て名声と富を得た。しかし5歳、3歳、1歳の男の子が相次いで病死、「わたしの胸は、はりさけるほどだ」というほどで、その悲しみは癒えることはなかった。

1858年(安政5年)日米修好通商条約が調印され、翌年、神奈川、長崎、箱館(函館)などが開港されるのを聞くや否や、ヘボン夫妻はミッション本部に日本への渡航を申入れた。再び海外宣教のチャンスがめぐってこようとは夢にも思っていなかったが、それが現実のものとなった。’58年12月、弟スレーターに宛てた手紙には「伝道局が日本の何処へ私どもを派遣するか分かりません。しかし神の意ならば、私は喜んで日本に行きます」。

44歳という年齢で、なぜ見知らぬ国へ宣教師として行くのかと両親や親戚、友人たちはこぞって反対したが、誰もヘボン夫妻の決心を変えることはできなかった。

成仏寺に住むヘボンたち、新発見の写真

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成仏寺の宣教師たち 1860年(万延元)
左からS・R・ブラウンとその娘、ゴーブル、ヘボン
横浜開港資料館蔵

次男サムエルを友人のヤングに託し、病院と自宅を売却して1859年4月、サンチョ・パンザ号でニューヨークを出発、’59年10月17日、神奈川沖に到着、翌日、米国領事ドールの世話で成仏寺を住居と定めた。11月に改革派のS・R・ブラウンとシモンズが、’60年4月にはバプテスト派のゴーブル夫妻が来浜し、シモンズは宗興寺に、ブラウンは成仏寺の庫裡に、ゴーブルは同じ敷地に小屋を建てて住んだ。

今年1月、横浜開港資料館が「横浜開港と宣教師展」を開催、その中で成仏寺でのヘボン、ブラウン、ゴーブルの生活ぶりを明らかにした。従来、1873年の『ファー・イースト』に貼付された萱葺き屋根の寺院の写真を、グリフィスが『ヘボン伝』の中で成仏寺として使用して以来、さまざまなところでそのように紹介されてきたが、同資料館が新たに成仏寺の写真を入手、同館の石崎康子研究員がこの写真を実証的に分析し、グリフィスが使用した写真は成仏寺ではなく米国領事館になっていた本覚寺であることを明らかにした。

’61年11月にJ・H・バラ夫妻が来浜し、成仏寺の本堂に居住しているが、写真にはバラ夫妻が写っていないので、これ以前の写真であると思われる。1859年11月のミッション本部に送ったヘボンの手紙には、「屋根が瓦葺で床から4フィートで、柱で支えてあり通風がよく、42フィート平方の一つの大きい構え」という記述があり、『明治学院五十年史』に掲載された写真でも瓦葺の成仏寺となっている。

新たに発見された写真にはヘボン、クララ夫人、ブラウンと夫人エリザベスと3人の子ども、ゴーブルと夫人エリザら9人が建物の前で並んでいるのを見学者たちが立ち止まって見入っていたのが印象的であった。

施療の日々と『和英語林集成』の編纂

ヘボンは、1861年春から宗興寺で施療を始めた。患者は1日100人から150人来て、眼科、内科などの治療に当たったが、5か月で閉鎖を命ぜられた。62年12月、居留地39番に移転し、’63年5月に施療を再開した。ヘボンと親交があった佐倉の医者で順天堂の創始者である佐藤泰然が、脱疽という病気を病んでいた歌舞伎役者の沢村田之助をヘボンに紹介して、手術をしてもらった。米国のセルフォ社から義足を取り寄せ、最新の治療をし、田之助が舞台に上がって演じる姿を楽しんだ。

’60年に入ってヘボンは、日本人教師を雇い『和英語林集成』の編纂に着手、日本語の研究に磨きをかけた。患者と相対して一つ一つ日本語の言葉を英語に置き換えて、ノートに綴っていった。

’66年9月に出版にこぎつけ、夫妻は岸田吟香を連れて上海に行き、上海美華書院で印刷、翌年5月に出版、和英558ページ、英和132ページ、日本語は2万語にのぼった。吟香は後に新聞記者になるが、彼の「呉淞日記」によると、3月25日「へボン対訳辞書(デクショナリ)」に対し、「和英語林集成」の版下を書くという記述をみると、吟香が書名を付けたのが分かる。

’72年の第二版は奥野昌綱を助手とし、第三版は’85年に丸善商社が出版を引受け、助手に高橋五郎があたった。この頃、偽版が出たこともあって版権を丸善商社に譲り、丸善は2千ドルをヘボンに贈ったが、ミッションに寄付、それを基に明治学院に3階建てのヘボン館が建てられ学生寮として使われた。

『和英語林集成』は九版に及び、縮刷版も出た。出版費用は横浜居留地のウォルシュ・ホールが立て替えていた。

キリスト教布教に不可欠な聖書翻訳を推進

ヘボンは『和英語林集成』の編纂は最終目的である聖書翻訳に至る予備的なものと位置づけ、キリスト教を伝えるには聖書翻訳が不可欠と考えていた。

1872年には、第一回の宣教師会議が居留地39番のヘボン邸で開かれた。聖書翻訳については共同訳をつくることが決まり、新約聖書は、S・R・ブラウンを委員長として、ヘボン、D・C・グリーンらが加わり、’79年12月に完成した。旧約聖書はヘボンを委員長としてフルベッキ、ファイソン、日本人から松山高吉、井深梶之助、植村正久らが参加し、’88年2月に、築地の新栄橋教会において完成祝賀会を開催した。

新約聖書27巻と旧約聖書39巻合わせて66巻のうち新約聖書の6割以上、旧約聖書の半分近くがヘボンによって訳された。

ヘボンとブラウンらは庶民に受入れやすく、文学的にも価値が高い訳を目指した。ヘボンは翻訳が完成した時、アメリカの弟に宛てて、「それはわたしの学才がすぐれていたというのではなく、与えられた職務の一つに専念し、それを完成するまで、その一事にしがみついて離れなかったという辛抱強さであった」と謙遜した手紙を書いている。

ヘボン塾で英語を教わった多くの人々

’62年9月頃、神奈川奉行に依頼されて、ヘボンは大村益次郎、沼間守一など9名の武士を教えた。’62年12月に居留地39番に家を建て移転した後も英語を教えていたが、’63年3月頃、家塾を一時閉鎖、同年5月から施療を再開、11月からはクララ夫人が英語塾を始めた。これが明治学院の始まりである。

のちに駐英大使になった林董、総理大臣の高橋是清、最初の医学博士三宅秀、三井物産を創設した益田孝、日銀出納局長鈴木知雄、佐藤泰然の子・桃太郎と桃三郎、牧師になった山本秀煌、服部綾雄ら優れた人材を輩出した。

1870年9月、ミス・キダーが、ヘボン夫人の私塾を引き継いだ。これがフェリス女学院となり、女子教育の先駆となった。1876年には施療所を閉鎖、ヘボン塾はジョン・バラに引き継がれた。

ヘボンがわが国にもたらしたものが何と多いことか。施療によって庶民の病気を治療し、『和英語林集成』の編纂とヘボン塾の開塾によって、英語が日本に広まるきっかけをつくり、のみならず近代日本における文化と学術に大きく貢献した。また共同訳の聖書の翻訳によって、日本にキリスト教の福音をもたらし、指路教会を建て、明治学院の創設に関わるなど、その足跡は高く評価される。

岡部一興氏
岡部一興  (おかべ かずおき)

1941年東京生まれ。
横浜指路教会長老。共著『図説 横浜キリスト教文化史』 有隣堂(品切)、編著『宣教師ルーミスと明治日本』 有隣堂 1,000円+税ほか。

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