Web版 有鄰

503平成21年10月10日発行

野中ともそと『犬のうなじ』 – 人と作品

人生の転機に、前へ進もうとする人たちを描いた短編集

野中ともそ氏
野中ともそ

9・11テロを目の当たりにした衝撃

自分ではどうにもならない出来事に遭遇した時、人の見る景色はどう変わるのだろう。2001年9月11日、米同時多発テロを目の当たりにして精神的に打撃を受けた野中ともそさんが、少しずつ立ち直る過程で書きためた物語を編んだ短編集である。

「ガーンという音で目が覚めて、交通事故でもあったのかと窓の外を見ると、路上の人たちが大騒ぎして、2機目の飛行機が突っ込み、ビルが崩れていく光景を目の当たりにしました。その時はただ呆然で、煙のきな臭さが満ち、がらんとした街で暮らすうちに動揺が強くなり、精神的に落ちるところまで落ちてしまいました。日常が戻ってきても、目の前の何気ない光景が事件前と違って見える。しばらくして、1年に1編の割合で短編を書きためていきました。心の中に残っている欠片みたいなものを形にできたらと、常に考えていました」

まず’02年に発表した『月の穴』は、「9・11」から約1年半後の話である。駐在員の北里さんは、事件がきっかけとなり、23年連れ添った妻と離婚。妻は子供を連れてハワイに移り、北里さんは日系ピアノバーで働くぼたんとつきあっている。

「9・11の後、離婚したり、結婚したり、本当に大事な人を見極めてその人と時間を過ごそうとする動きが見られました。日本人が帰国していき、私も少しの間帰国したかったんですが、ビザの更新で国務省にパスポートを預けていて帰りたくても帰れない。落ち込んでいる私を、復旧作業をする消防員を励ますプラカードが置かれた場所に友人が連れて行ってくれ、印象に残り、小説のどこかであの光景を入れるだろうと思いました。私の場合、映像的なシーンが浮かび、それを手がかりに書くことが多い。『犬のうなじ』なら犬がふいに現われるシーン、『月の穴』ならグラウンド・ゼロで着物を投じようとするシーン。映像的なシーンに物語や時間の流れがくっついてくる感じです」

冒頭の「凧、つかむ」の夫婦は、事件の数か月後に結婚、娘が産まれて日本に帰国したが別居してしまう。切れかけた夫婦の姿を、風に向かって糸を張る凧揚げの情景とともに印象的に描く。表題作『犬のうなじ』の主人公は、9・11よりもずっと前に恋人を亡くしている。

「ツインタワーもそうですが、あるものが急になくなることがある。それでも日々は過ぎていく。辛いからこそ立ち直ろうと人が労りあう、誰しもが繋がりあっているんだなと思う光景をたくさん見たので、加筆する時に短編同士が繋がりあうエピソードを加えました。落ち込みながらも気持ちが上向きになる瞬間が私にはありました。どんな出来事があっても日々は進んでいくし、見方を変えれば新しい光が見える。衝撃に立ちすくんでも、人は必ず前に進んでいける、そんな物語にすることを意識したと思います。9・11そのものを書こうとしたのではなく、読者にとって個人的な、別の出来事に置き換えても伝わる物語を書こうと考えていました」

NYに住んで日本語が恋しくなり、小説を書き始める

東京都生まれ、明治大学文学部卒。1998年、『パンの鳴る海、緋の舞う空』で小説すばる新人賞を受けてデビュー。主な小説に『宇宙でいちばんあかるい屋根』『おどりば金魚』『世界のはてのレゲエ・バー』、イラストエッセイ集に『カリブ海おひるねスケッチ』、翻訳絵本『もぐらのバイオリン』などがある。1992年からNY在住。

「この街でしばらくライブを見たいなとNYにいつき、絵を描いて路上で売り、生計を立てました。日本語が恋しく、凄く大事に思えて、小説を書き始めました。音楽も絵も文章も、私の中では自然に繋がっています。どこか色鮮やかなもの、きれいなもの、共通したものをどの表現でも求めている気がします」

本作と同時期に、水しずくと薬草売りの男、似た者同士が心を通わせる物語『ぴしゃんちゃん』も上梓した。

「『ぴしゃんちゃん』もそうですが、あり得ないことがふと起こりそうな感じ、現実から少し離れたところの繋がりに興味があるのかもしれないです。イメージ先行型で、ふっとわき上がってくる、ぼんやり見える、言葉にできない感じがあり、これをどう表現しようか、果たして形になるのかであがいていますね。9・11後、絵も小説も、余分なものが落ちてシンプルな方向に向かいました。装飾的な表現は減りましたが、言葉の1つ1つを丁寧に選んでいきたいと思っています」

(青木千恵)

『犬のうなじ』・表紙

犬のうなじ
野中ともそ/双葉社/1,500円+税

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