Web版 有鄰

500平成21年7月10日発行

[座談会]有隣堂の100年 —地域とともに— – 2面

作家 評論家 神奈川近代文学館館長・紀田順一郎
横浜開港資料館調査研究員・松本洋幸
有隣堂相談役・篠﨑孝子
有隣堂社長・松信 裕

右から篠崎孝子、松本洋幸氏、紀田順一郎氏、松信裕

右から篠﨑孝子、松本洋幸氏、紀田順一郎氏、松信 裕

はじめに

第四有隣堂 大正5、6年頃

第四有隣堂 大正5、6年頃

松信有隣堂は、おかげさまで今年創業100周年を迎えることになりました。これはご愛顧を賜りましたお客様を始め、多くの方々のお力添えによるものと、心から感謝を申し上げます。また本紙『有鄰』も今月号で500号になりました。

このように、記念の年と記念の号が重なりましたので、今回の座談会は、趣向をちょっと変え、いつもご利用いただいている有隣堂が、横浜の近代史あるいは現代史の中で歩んできた歴史をご紹介させていただくことに致しました。

ご出席いただきました紀田順一郎様は横浜のお生まれで、作家・評論家として活躍され、神奈川近代文学館館長もお務めです。近著『横浜少年物語』など、横浜にかかわるご著書もございます。

松本洋幸様は横浜開港資料館調査研究員をお務めで、横浜とその周辺の地域史を研究しておられます。先ごろ当社から出版いたしました『開港150周年記念 横浜 歴史と文化』にもご執筆をいただきました。

私は創業者の松信大助の孫にあたります。大助は子沢山で9男2女、合わせて11人の子供がおりました。大助の没後、2代社長には妻の隆子が、3代社長には次男の總次郎、その後、4代社長には、三男で私の父である泰輔が就任しました。10数年前に泰輔が病に倒れ、私はそれを機に有隣堂に入りました。その後、きょう同席をさせていただきました篠﨑の跡を受けて6代目社長に就任し、ちょうど10年になります。

篠﨑孝子は創業者大助の次女で、戦後の早い時期に有隣堂に入社し、5代目の社長を務めました。

明治42年、第四有隣堂を伊勢佐木町に開業

創業当時の伊勢佐木町(右から5軒目が第四有隣堂)

創業当時の伊勢佐木町
(右から5軒目が第四有隣堂)

松信横浜では今、開港150周年を祝うさまざまな行事が繰り広げられていますが、100年前の明治42年(1909年)にも「横浜開港50年祭」が盛大に催されました。

その年の12月に、松信大助が伊勢佐木町一丁目の現在地に「第四有隣堂」という間口2間・奥行3間の小さな書店を開業しました。

開港50年の頃の横浜はどういう状況だったのでしょうか。

松本有隣堂が創業された明治42年は、横浜にとっても重要な転機に当たる年です。「開港50年祭」は、当時の開港記念日の7月1日から3日間、現在の赤レンガ倉庫のある新港埠頭で開かれ、このとき初めて「浜菱[ハマビシ]」の市のマークと「横浜市歌」が決められました。7月1日の祝賀会では扇子が配られまして、そこに森鷗外が作詞した横浜市歌が書かれていました。

町を挙げた一大イベントだったんですが、伊勢佐木町でもかなり大規模な盛り上がりを見せます。亀楽煎餅が一番力を入れていて、屋上にアドバルーンみたいなものを上げて盛大に祝ったそうです。

当時の横浜の人口は、大体40万人ぐらいと言われています。ただ、そうした華やかな雰囲気の陰で、横浜は将来への不安を抱えていました。

それまで横浜は生糸貿易一本でやってきたんですが、生糸貿易だけですと非常に景気の変動を受けやすい。西のほうでは神戸が輸入貿易で横浜を抜き、輸出でも横浜を脅かしつつありました。そこで、横浜における基盤産業の必要性が叫ばれるようになり、貿易港だけではなくて、工業を根づかせて、商工業都市として脱皮を図ろうとし始める時期です。

また開港後の50年を担った第1世代が退いて、第2世代が台頭し始める時期でもあり、まさしく有隣堂の創業はそうした第2世代の登場と軌を一にしていると思います。

創業者の松信大助は25歳で独立

第一有隣堂

第一有隣堂

松信第四有隣堂として開業したのは、第一、第二、第三がすでにあったからです。第一有隣堂は、最初は単に有隣堂と名乗り、店は伊勢佐木町の現在の本店から2、3分のところの吉田町にあり、大助の長兄の大野貞造が経営しておりました。後に、第二、第三を大助の姉と次兄が開業しています。

大助は明治17年(1884年)に横浜尾上町に生まれ、尋常高等小学校を中途で退学し、日本橋の繊維問屋に丁稚奉公に出ます。しかし、兄の貞造が身体が弱かったため、大助が第一有隣堂を手伝うようになったようです。

当時は20歳になると、男子は徴兵制度で軍隊に入る。日露戦争のころです。兵役を終え3年ほど経って、25歳で独立、第四有隣堂を開業します。大助の兄の姓は大野ですが、母親の実家が茨城県の神立村(今の土浦市)の出身で松信と申しまして、大助が母方の姓を継いで松信を名乗りました。

篠﨑大助の父親は大野源蔵といって、今の新潟県小千谷の人です。小千谷縮の行商人だったそうで、時々横浜に来ていた。大助たちの母と結婚してから、横浜に根を下ろしたらしいです。母親の実家に子供がいなかったので、大助が松信の養子になったと聞いています。

大助の父・大野源蔵は明治10年代、尾上町で貸本屋を営む

松信有隣堂は小さな本屋ですし、関東大震災にも空襲にもあっていますので、古い資料が残っておりません。また大助は2歳くらいで父親と死別していますので、古いことは子供たちにも話さなかったようです。

有隣堂では今、100年史の出版を準備しており、ようやく朧げながら創業以前の様子がわかってきました。以下は、社史編纂の原稿に従ってお話をさせていただきます。

大助の父親の大野源蔵は明治19年に横浜で亡くなります。当社の『八十年史』をご覧になった、小田原の高野書店という古本屋の高野肇さんが、古書店の歴史を調べていたところ、『近世紀聞』という本の見返しに、「腹内掃除丸・大通丸売弘所」という薬の宣伝の引き札が貼ってあり、そこに「横浜区尾上町三丁目四十四番地 貸本店 大野源蔵」とあるのを発見された。さっそく当社の出版部に連絡をいただき、大野源蔵が明治10年代の中頃に貸本屋を開いていたことがわかりました。その本には、貸本であることを示す「横浜・大野」という丸い判が押されているんです。

当時は、木版刷りのものが多いわけで、今と違って新刊本も少なく、貸本屋が江戸時代から引き続いて非常に繁盛していたようですね。

紀田木版では部数も限られていますからね。

松本薬と貸本店という取り合わせは、丸善が横浜で、書店と薬種店の2つを開いたことと似ていますね。

松信尾上町の貸本店については、その引き札がほとんど唯一の資料ですが、吉田町の有隣堂は絵葉書が残っています。

源蔵の跡を継いだ長男の貞造が、吉田町一丁目に移って貸本屋を始めます。明治27年発行の、博文館の『傳家寳典明治節用大全』に、武蔵国の書店として有隣堂が出てきます。昔は流通の役割を果たす取次業がなかったので、出版社が売捌所として書店のリストを巻末に載せていた。さかのぼり得る有隣堂の名前の最初は、明治27年ごろと思います。それ以前に名乗っている可能性もありますが。有隣堂の社名は、「徳は孤ならず必ず隣有り」という『論語』の一節に由来しております。

当時の記録に、吉田町の有隣堂を「絵双紙屋のよう」と記しているものもあります。

源蔵が生まれた新潟県は本屋の故郷

紀田大野源蔵さんという方が、縮を売ったということが横浜の代表的な商人とは違うところだと思うんです。もし生糸だったら生糸商人になって、有隣堂さんはできなかった。横浜開港以来、横浜商人のバックグラウンドは、茨城、栃木、群馬、山梨です。新潟は、湿度とか気温の関係で蚕の生育に適さない。

僕がすぐ気がついたのは、神田神保町の書店街を築いた一世たちは新潟の長岡出身です。幕末から明治にかけて、新潟は本屋の故郷なんです。その辺で大野源蔵とつながるものがある。しかも横浜に進出した新潟の方は少ないんです。みんな江戸・東京に行っちゃう。天の配剤みたいなものがあったんじゃないか。

松信松信大助の第四有隣堂は、伊勢佐木町にあった倉田屋という書店がたまたま廃業したところに開業したということになっています。

兄の経営する有隣堂を大きくするのではなく、第二とか第三とかに分かれていったのは、いわゆる「暖簾分け」なんでしょうか。

紀田チェーン店の初期の形ですね。

松本チェーン店は関東大震災後、昭和初期ぐらいからはやり始めるんですが、それに比べると早いですね。

紀田現代のように一族が集まって役割を分担する近代的な企業経営は後の話で、当時の人の感覚からすると、第一、第二という形が必然的だったんじゃないですかね。

松信大正5年の『新興の横浜』という雑誌に掲載された「有隣堂連鎖店」という広告では、第一から第八まであった。暖簾分けで一国一城の主になるということで、今のチェーン店とは意味がちょっと違うんでしょうね。

ハイカラ好きだった創業者 松信大助

創業者の松信大助(右は4代社長となった泰輔)

創業者の松信大助
(右は4代社長となった泰輔)

松信創業者の松信大助は、どういう人だったのでしょうか。私も少しは知っていますが。

篠﨑今回、いろいろ考えたんです。何でちっぽけだった本屋が、100年の間にここまでになれたのか。それには4つの要素があると思いました。

1つは、横浜という場所がとてもプラスになったんじゃないか。横浜の人はハイカラ好きですね。父から直接聞いた話ですが、彼は少年のころ、丁稚奉公に出されて、背中に大きな風呂敷を背負って配達に歩いていたらしい。奉公先が繊維業だったこともあって、元町の入り口にあった、新屋さんという輸入毛糸を扱っているお店に行ったときに「世の中にはこんなに美しい色があるのかと、本当に感動した」と言っていました。ですから本をただ並べるだけではなかったし、当時はファッション商品だった文具にも非常に力を入れたのではないでしょうか。

それと、横浜には身分に上下がない。ご主人様が威張っていて、従業員は下ということが全くない。それが、社員の、独創的な考えが自由に出せる当社の雰囲気のもとになっているんじゃないか。

2つ目は、大助さんは本当に働き者でまじめだった。私の記憶では、年に2回の休業しかなかった。元日と、店員慰安の日帰りバス旅行、この2日だけです。大晦日は帳面の整理などで帰れず、元日の始発の市電で帰ってくるんです。それでゆっくり起きて、みんなでお雑煮でお祝いしてから、神社やお寺にお参りに行く。

「臥薪嘗胆」という言葉がありますね。父は小僧のころに、何とかして勉強しなければと、朝早く目が覚めるように、薪を並べてその上に寝たと言っていました。

それから、私の覚えている限りでは酒もたばこも一切やりませんでしたね。

根本にある感謝の気持ちと社会への貢献

篠﨑3つ目は、大助夫妻の絶妙なペアワークだと思うんです。

以前に『有鄰』にご執筆いただいた大脳生理学の大島清先生が、男の脳と女の脳は違う、ということを書かれていました。簡単に言えば、男は人間の脳、女は動物の脳が発達している。それは決して優劣ではなく、差異なんだとおっしゃっている。

まさに両親は、それぞれの特性を実にうまく生かしながら、ペアを組んでいたと思うんです。焼け跡のゼロから出発して、こつこつここまで積み上げていったのは父です。それは男の脳がやることですね。それを母はよく知っていて陰から助ける。

父が出かけるとき、母は玄関で火打ち石をカチカチとやり、「いってらっしゃい」と言うんです。11人も子供を産んで、よくそこまで仲よくできたなと思うんですけれども、そんな絶妙のペアを組んでいました。

最後の1つは、感謝の気持ちですね。あるとき、お茶の間で父と2人だった。「子供たちもどうやら立派に育ち、店もここまで繁盛した。これは、みんな世間様のおかげなんだよ。これからは、どうご恩返しをするか。それを考えなきゃいけないんだよ」と言った。その言葉を、私は今でもようく覚えているんです。

それを、4代社長の泰輔が「『有鄰』の精神にもとづき、文化、教育に関する商品の販売を通じて地域社会に貢献する」と、世間様のおかげ、それにご恩返しをするという言葉を、「経営方針」の第一条に掲げ、社員手帳に明文化してきちんと残した。

今申し上げたような創業者の幾つかのこと、それと、母親の努力というものが、有隣堂の一番の根っこにあるなということを、つくづく感じております。

大正中期、横浜で3番目の書店に急成長

有隣堂の広告 大正9年

有隣堂の広告
大正9年

松信その後、第一有隣堂を経営していた兄が亡くなったことなどがあって、第一有隣堂と有隣堂文具部と呼ばれていた関連の商店を合併して、「株式会社有隣堂」に組織を改めたのが大正9年7月です。有隣堂文具部は伊勢佐木町二丁目にあって、現在の不二家の隣あたりにありました。

松本その前の大正4年の『横浜商工案内』という本に、横浜市内の19の書籍店の営業税のリストがあるんです。1番は丸善で飛び抜けて多いんですが、その後は弘集堂、師岡屋、弘文堂という、明治20年代から続いている老舗の書店が並んで、7番目が第四有隣堂です。税額は丸善が231円で、第四有隣堂は当時72円です。

篠﨑3分の1弱ですか。

松本ところが、大正7年になると、1番は丸善で同じですが、2番は弘集堂、有隣堂が3番目なんです。この間に、ものすごく業績を上げている。その辺はどういうわけなのか、今後また調べていきたいと思っているんです。

一つは、元々倉田屋さんがやっていた、地図とか絵葉書を出すという伝統を引き継ぎながら、新しい要素を盛り込んでいって、老舗に食い込んでいくようなところがあったんだろうという気がします。例えば第一次世界大戦中の好景気の中で、横浜船渠で働く労働者など、かなり多くの人口が横浜に流入してきます。そういう新しい層も開拓しようとしていたのかもしれません。

松信大正2年に横浜市の地図「大正調査番地入 横浜市全図」を発行しています。また、大正5年には横浜史談会が発行した絵葉書を出しています。今伺ったのは4年と7年ですから、この3年間に7番手から3番手までに上がったんですね。

松本これは非常に急成長だなという感じがします。

松信その頃に店舗をギリシャ風といいますか、西洋風の凝った装飾の建物に変えているんです。2階の上の看板は金文字だったとも聞いています。

大震災で増築したばかりの店舗が倒壊焼失

関東大震災直後の伊勢佐木町(左・越前屋、右・野澤屋) 横浜市史資料室蔵

関東大震災直後の伊勢佐木町
(左:越前屋、右:野澤屋)
横浜市史資料室蔵

松本それで、大正12年9月1日の関東大震災ということになります。当時の横浜の人口は45万人ほどですが、死者は大体23,000人ぐらいとされています。これは今井清一先生が出された『横浜の関東大震災』(有隣堂・2007年)にありますが、横浜は東京よりも地震の被害が大きかった。

あわせて火災も非常に多かったんですが、東京に比べると燃えるスピードが非常に速かった。大体一晩で市街地の中心部がほとんど壊滅してしまった。なかでも一番ひどかったのは伊勢佐木町周辺で、当時の伊勢佐木町警察署が管轄していた区域では、死者だけで12,000人といいますから、全体の半分ぐらいが、ここで亡くなっている。飲食店が並んでいて火災が非常に多く発生したために有隣堂を始め伊勢佐木町周辺がすっかり燃えてしまったんです。

松信さんのご家族は、それより前に弘明寺に引っ越されていたそうですね。

紀田横浜で地震の被害が大きいのは、埋立地で下が砂だからなんです。私も終戦後すぐにバラックを建てる現場を見ていたら、上に3、40センチの土が積もっているだけで、下は全部砂なんです。それで関東大震災の火災の跡を示す黒い2センチぐらいの線が通っていて、子供心にゾーッとしたのを覚えている。横浜がそういう土地だということは、長く住んでいる人は知っていたでしょう。伊勢佐木町は埋立地ですからね。後から入ってきた人はそれを知らないんですよ。

私の母親は、関東大震災のときに弟をおぶって地割れの中に落ちてしまって、引き上げられて助かったらしい。

松信震災当時、店舗は大正9年に3階を増築したばかりでしたが倒壊、各所から発生した火災によって商品、什器とも全焼しました。店舗の2階と3階にあった有隣食堂のウエイトレス1名と、お客様1名が死亡したようです。もし今、このようなことが起きたら再起不能でしょうね。新築したばかりで、支払いもまだ残っていたと思います。

紀田キリンビールを始め震災で倒壊した企業はみんな横浜の外に出てしまった。横浜に留まったのはすごい。

松本震災後、野毛に震災記念館ができました。いろいろな資料が展示されている中に、地震が起きた11時58分で止まった時計があった。その文字盤に有隣堂の名前がありまして、有隣堂さんが横浜市内の某小学校に寄贈したものだったようです。

関東大震災後、戸板に本を並べて営業を再開

篠﨑震災からの復興について、聞いた話では、雨戸の戸板を並べて、焼け残った本を売った。それが商売の建て直しの第一歩だったそうです。父もまだ若かったから何でもできたんでしょうね。

松本長男の久太郎さんが昭和19年に、空襲に備えてどうすべきかを書店業界の方と話している記事が残っていて、大助さんから聞いたこととして「震災に遭ったときは2週間露店を出して、1か月目にバラックを建てた」と。

そして「あの当時を回想すると、新聞も、食糧も大事だが、その次は書物による娯楽だ」と話されています。

松信それは戦時中に、取次店が統合されて日配、日本出版配給株式会社という統制会社ができ、その広報誌に掲載された座談会で、戦時下にも同じようなことが起こるだろうと、震災の体験を話をしているんです。

紀田情報を求めるのと、心の慰めを求める両方の機能は本に集中していますから、それを体験によってお知りになられたのは、気持ちが明るくなるという大変心が打たれるエピソードですね。

松本今、携帯かもしれない。(笑)

紀田でも、願わくは本であってほしいなというのはありますね。

昭和初期、店舗を広げ、古書部では海外の雑誌もあつかう

左:2階に古本市を設けた店舗 昭和15年頃 右:有隣食堂の案内 「大横浜日日繁盛双六」部分 昭和初期

左:2階に古本市を設けた店舗 昭和15年頃

右:有隣食堂の案内
「大横浜日日繁盛双六」部分 昭和初期

松信関東大震災の後、昭和2年に、隣地を買収したり借りたりして、間口が伊勢佐木町の角までになります。

紀田昭和10年に有隣食堂を廃止し、古書部を開設とあるのは、僕は時節柄、今すごく目がとまったんです。それは新刊の業界から言うと、古書は全然別の異端なものだけど、このときに新刊書店でもって古書部をつくったのは、歴史から言うと、丸善に次ぐんでしょうかね。どうなんですか。丸善よりも早いかもしれない。

松信それ以前から、古書即売展覧会とか、開港資料錦絵即売会なども、2階で開いています。

紀田目線が、お客さんのほうに向いている。お客さんは本があればいいんですからね。新刊書店から言うと全然別もので、流通も違うし扱いも違う。

松信そのころ古書として『ライフ』など海外の雑誌の古いものも売ってた。有名なカメラマンの三木淳さんが、日吉の慶応義塾に通っているころ、有隣堂の2階で海外のグラビア雑誌をあさったと話されています。

紀田横浜は船が入るとドカッと古雑誌が入るんです。市中の古本屋は2百何十軒あったと言うけれど、みんなそれで潤っていた。港に行って担いでくるんです。

松信父の泰輔は、20歳のころに、ハシケで沖の船まで行き、縄ばしごで船にのぼって、本を何十冊も納めたこともあると言っていました。

紀田それからもう一つは円本ブームがちょっと前、大正末年からあるわけだから、この円本ブームはものすごいですね。1円の全集本の予約をとるだけで大変でした。昭和2年に新潮社の『世界文学全集』が出版されますが、予約で56万部売っているんです。最終回は3分の1か4分の1になったとしても、払い込みの振替用紙が出版社に大八車で何台も届けられたというんだから、震災後の復興は比較的早いというか、この時代に書店が倒産したという話は余り聞かないですね。

昭和の不況期には株式会社から個人商店に組織変更

篠﨑その前にもう一つ大きな波があるのは昭和4、5年のころです。昭和4年に長女の節子を17歳でアメリカのミシガン州に留学させました。横浜人は進取の気性と言えば格好いいけど、多少、軽薄なところもあるんです。留学させた途端に世界的経済恐慌に襲われて、1ドル2円だったのが、あれよあれよという間に4円に下がった。父は万年筆とか腕時計とか貴重品を全部売ってもお金が足りず、娘に学資が送れない。

そのころ伊勢佐木町の土地を買い増したところだったらしいんです。当時は小港に家がありまして、借金取りが頑張っていて帰れない。今のマイカル本牧のところに十二天社があり、水辺に太い松の並木があって、「家へ帰れないから夜中にそこを行ったり来たりしながら、どの枝が一番首のつり具合がいいかなって考えたもんだよ」と言うのを私は父から直接聞きました。

松信そのころ、株式会社有隣堂本店から個人商店にまた戻しているんですね。

店内は地味だったが、光り輝いて見えた

松信伊勢佐木町のお店の戦前のご記憶というのはありますか。

紀田八十年史に出ている写真には私も記憶があるんですよ。お店の中で上から電灯が下がっているんです。

昭和初期の店内(中央は大助)

昭和初期の店内(中央は大助)

それで児童書を買ってもらったんです。そろそろ紙が悪くなり始めていましたから、昭和16、7年ごろだろうと思うんですけど、天文学の本を買ってもらったのは覚えていますね。そういう本は、近所の本屋さんにはなかったんです。

児童書は子供が自分で手にとれるようにちゃんと低い棚にありました。見ていくとどれもみんな欲しいんですね。父親と一緒に行って、父親は病気でしたから、健康のときが余りないですから、このときとばかりに何冊も抱え込んで買ってもらったのを覚えているんです。

上の電灯を仰いで見たのも覚えている。これはまだ白色電灯なんですね。タングステンですよ。子供心に明るいとは思ったけれども、今の書店の蛍光灯の照明の明るさとは違って、柔らかい光なんですね。だから写真になるとちょっと暗い感じがする。

本の特徴は、マニラボールの箱に入っている。専門書が大体そうでしょう。それから帯がついていない。だから、お店の中が何となく全体的に暗っぽくて地味なんです。それでも何か光り輝いて見えましたね。近所の書店にはそういうのがなくてね。

それから有隣堂さんは戦後もそうなんだけれども、雑誌を分けるのがとっても上手なんです。一般の雑誌と、その中でも映画雑誌のようなものと、読み物的なものとをきれいに分けるんです。

児童書も学年別になるように分けてありましたね。私は小学校の1、2年ぐらいだったかな。そのころにちょうどいいような雑誌と、ちょっと上級生向けの雑誌とが分かれて置かれていて、パッと見ればわかるようになっていました。私は2度ほど行っただけですが、そんな記憶がありますよ。

有隣堂で本や文具を買ってもらうのがステータス

篠﨑今の先生のお話を聞いて思い出したのですが、私は先生よりちょっと年上ですから、もう少し前の時代かもしれませんが、「君、松信の妹か」の次に、「僕が子供のころ、有隣堂って思い出があるんだよな。通信簿の点がいいと、お父さんやお母さんは機嫌がよくて、有隣堂に連れて行ってくれる。まず、好きな本を選び、次は、文具の売り場で、24色の金銀色入り王様クレヨンを買ってくれるんだよ。その後で野澤屋に行って、旗の立ったお子様ランチを食べる。これが最高の思い出なんだ」というんですね。そんな話を、私は何度も聞いています。

紀田当時の子供にとっては無上の喜びだったね。有隣堂のステータスってそれだったと思うんです。

ですから『横浜貿易新報』に、文具は万人に向く贈り物だということが書いてあるけれども、文房具を贈り物にするというか、万年筆を贈り物にするという時代が戦後まで長くありましたね。

篠﨑そうですね、貴重品でしたね。

紀田それでペンスタンドだとか、とにかく有隣堂で何か父親がもらってきた覚えがあるんです。横浜の場合は有隣堂ですよ。

戦時下には工学書売場を増設

松本戦争が始まりますと、伊勢佐木町はもちろん繁華街として存在しているんですが、戦時の配給統制があったりして、営業も窮屈になってきます。町を照らしていたすずらん灯が金属供出で撤去されたり、街頭にスパイを探し出すことを督励する防諜週間などという横断幕が張られるようになります。

この時期、特に戦時下になってから、理科系の本がものすごく売れ始める。私は、それは久太郎さんの考えだろうと思っているんです。戦争中に亡くなられますけれど、理科系に力を入れられていたようで、先代の大助さんの地道な路線に上乗せして、新しい展開として久太郎さんの営業方針が重なる。そうして有隣堂の経営基盤はかなり分厚くなっていくんじゃないかという気がしました。

松信昭和16年8月に、古書部を廃止して工学書売場をつくり、さらに、「慰問品種々取揃」とありますから、やっぱり機を見るに敏だったんじゃないでしょうかね。

開戦前日の12月7日には、「航空模型機部」をつくったという広告を出しているんです。その翌日の8日に真珠湾攻撃ですからね。このタイミングは私には信じられないですよ。

そして、盛り場だった伊勢佐木町も野澤屋の4階以上が東芝の横浜工場になったりして、すっかり様子が変わる。男はみんな戦争に行ってしまって、今度は若い学生たちが軍需工場に通ってくる。ですから、そういう参考書として有隣堂も工学書が増えていったというのが、当時の『出版弘報』に出ているそうです。

横浜大空襲で木造二階建ての店舗は焼失

昭和20年5月29日の大空襲の被害 横浜市史資料室蔵

昭和20年5月29日の大空襲の被害
横浜市史資料室蔵

篠﨑そのころ伊勢佐木町の有隣堂は木造2階建てだったんです。強制疎開という命令が来ると、建物を全部解体するのね。命令が出ていたんだけれども、有隣堂は建物の規模が多少大きいのと、中に入っていた商品が多いので、その整理にちょっと時間がかかるからというので、延期の申請書を出していたらしい。それで中はほとんどがらんどうなんだけど、建物だけ残っていた。それが昭和20年5月29日の空襲で見事に焼けてしまった。

私は、空襲のときに伊勢佐木町にいたんです。野澤屋の地下に逃れて、何とか助かりました。

紀田焼夷弾が何十万発か落ちたんでしょう。

篠﨑35万発だそうです。束になって落ちてきて、地上に着く前に1つが6つぐらいに分かれるのよね。

紀田私はその半月前に小田原に疎開していたんです。小学校4年生でした。横浜の空が朝なのに真っ赤かになっているのを、小田原から私も見ましたよ。

店舗敷地が接収され、本牧で営業を再開

占領軍のモータープールとなった伊勢佐木町の店舗敷地

占領軍のモータープールとなった伊勢佐木町の店舗敷地

篠﨑戦後、まず本牧の倉庫で営業を再開しました。

紀田本牧三之谷ですね。

篠﨑コンサイスの英和辞典が売れ残っていた。

松信先を見越して仕入れていたのかどうかわかりませんが敵性外国語だということで売れ残っていたようで、終戦後、それが当たったんですね。

紀田終戦直後で情報がとにかくないんですが、有隣堂さんでコンサイスの英語の辞書を売っているという話は、子供まで全部知っていましたね。

篠﨑あの行列はただ事じゃなかったもの。

紀田私も3キロぐらい歩いて本牧三之谷まで行きました。そして果物の栽培のハンドブックを買ってきた(笑)。本への飢えがあるんですね。なんでもいいから本が欲しかった。昭和14、5年ぐらいの、もう古本に属するような本だったと思うんですが、新本として仕入れられたきれいなクロス張りの本だった。戦中から終戦直後ぐらいまでクロス装幀なんて全然ないですから。

松信伊勢佐木町の敷地は接収されてしまい、約10年間も戻れなかったんです。

松本横浜には、アメリカの第8軍が進駐して、大体9万人ぐらいの将兵がやってくるわけです。今の横浜税関を本拠として、最初は東日本一帯を統括するんですが、後には沖縄を除く日本全域を統括する形になります。昭和21年当時、市内は全部で920ヘクタールぐらいが接収にあったと言われていますけれども、一番多いのはやっぱり中区ですね。中区だけで全市の43%で、中区の区域の35%にのぼります。伊勢佐木周辺ですと、野澤屋はPX(米軍購買部)、不二家は将兵たち相手のスペシャルサービスクラブ、松屋は病院に当てられました。そういう形で建物の接収が10年間ぐらい続く形になります。当然、有隣堂さんも10年間ほど接収にあうという形になります。

松信海軍病院のレントゲン室があったのと、野澤屋がPXになっていて、有隣堂の場所はそれの駐車場だったんです。伊勢佐木町の周辺一帯はカマボコ兵舎が並んでいました。

すごかった野毛の店舗の混雑

野毛営業所の店内 中央は草笛光子さん

野毛営業所の店内
中央は草笛光子さん

松信昭和22年からは野毛に営業所をつくって営業していました。

紀田野毛の店舗は、僕は一番なつかしいです。

篠﨑あそこはよく繁盛したんですよ。

紀田いつも混んでいましたね。ちょうど、『昭和文学全集』が出たころで、店頭に「読め」とか威勢のいいビラが下がっていましたね。そして実用書とか、当時のベストセラーの『この子を残して』とか『長崎の鐘』、谷崎潤一郎の『細雪』なんかが並んでいる。とにかくお店の中に入っていくと読みたい本がいっぱいあるんですよ。サルトルやカミュは入って右側のところに並んでいましたね。

松信右側は難しい本ばかり並んでいましたね。私が小学校3、4年のころです。

篠﨑私も店番をしていました。例えば入り口近くの商品をお客様がお買い上げくださる。ところが、レジは店の真ん中辺にあって、混んでいてそこまで行かれない。仕方がないから、お札に硬貨を包んでレジに向かって投げるんです。それが時々ばらばらになったりする。そんなに混んだの。すごかったですよ。1階は、入って左側が文具の売場でした。

紀田そうそう。それから児童書があった。

接収解除の陳情書を何度も特別調達庁に提出

松本接収解除の陳情書を何度も出されたそうですね。

篠﨑有隣堂の店があったところに、英文で、有隣堂がないと横浜市民は本が買えない、文化に飢えているんだ、という大きな看板を出したんです。文章をつくったのはアメリカ帰りの長女です。

松信GHQに叱られたそうです。当時、市域の接収の窓口として、特別調達庁という機関が駐留軍司令部の統括下にあったそうです。昭和26年9月に提出した陳情書には接収解除後の土地使用計画として、「国際港都に相応しい一大文化センターを建設」すると、店舗の設計図まで付けて、一日も早い接収解除を要望しています。

それから、直接、駐留軍司令部のある座間に、通訳を連れて行ったという話は、父から聞いています。英文で書いた陳情書も、残っています。そして、伊勢佐木町の本店のビルは、末広町の部分と伊勢佐木町の部分とに分かれていまして、末広町側だけが昭和27年にようやく解除になるんです。

それで先に片方側だけ建ててしまうんです。伊勢佐木町のほうが解除になるのが昭和30年ですので、それで両方を合体して一つのビルディングにしたということです。

篠﨑伊勢佐木町の店を新しく建てるにあたって、父はいろいろと夢を描いていました。そして、地鎮祭の打ち合わせを竹中工務店のスタッフの方たちとしていて、それが終わって、「ではよろしくお願いします」と頭を下げたまま、あの世に行っちゃった。これが有隣堂の一つの区切りになったんですね。昭和28年でした。

松信接収解除に際して区画整理も行われまして、1.8メートルほど道路用地に提供していますので、店の間口は少し狭くなっています。

昭和31年、伊勢佐木町に復帰

竣工した有隣堂ビル 昭和31年

竣工した有隣堂ビル
昭和31年

松信昭和31年に伊勢佐木町に復帰しますが、そこから、また有隣堂の新しい時代が始まっていきます。

紀田新しいお店ができたときは、本当に新しい時代が来たという感じがしましたね。中2階がある店舗のデザインなんですよね。私なんか野毛の営業所に慣れていますから、書店に行っているような、行っていないような。(笑)

篠﨑メザニンフロア(中2F)なんて。横浜の人は本当にハイカラ好きだから。

紀田横浜で洋書を本格的に扱っていたのは有隣堂くらいだったでしょう。売り場は右側のほうだったかな。オックスフォードの「ワールド・クラシックス」とか、大抵のものがありましたね。

松信広い売場で新たな店づくりをしていく中で、4階にギャラリー、地下に食堂をつくります。けれども、写真を見ると、開店当初は、市の中心部はカマボコ兵舎が取り壊された後も空き地が多く、「関内牧場」と揶揄されている状況でした。

篠﨑食堂にも、コンセプトがありました。上でゆっくり好きな本を買い、地下に行く。そして、新刊特有のインクの香りが漂うお気に入りの本を読みながら熱いコーヒーを飲む。そういうシーンを想定して、お店をつくったんです。

紀田当時、ギャラリー的なものは横浜にはなかった。これは大きいですね。

篠﨑それは父が言っていた世間様へのご恩返しを、兄たちがしっかり心に刻んでいたんでしょう。

紀田かつて三笠宮崇仁殿下が来ているんですね。

松信「オリエント古代文化展」です。神奈川県立博物館ができる昭和42年まで博物館や美術館のような施設は横浜にはありませんでしたから、市民や県民の方々から圧倒的な支持を受けました。

オリエント古代文化展にご来場の三笠宮殿下 昭和43年

オリエント古代文化展にご来場の三笠宮殿下
昭和43年

山下清作品展とか、長谷川伸、吉川英治、獅子文六といった横浜ゆかりの作家などの展覧会を毎年やっていました。県内の仏像や、国宝に指定されている陶磁器なども、専門の先生方のご指導を得て陳列させていただきました。

昭和47年の大佛次郎展では、大佛さんご自身が入院中の癌センターから来場された。亡くなられる5か月前です。

松本加山道之助という、震災前に有隣堂の株主もしていた人がいます。彼が「横浜は商工立市」と言っているが精神の部分がないと嘆いている文章があるんです。どうすればいいか。それには博物館や定期的な展覧会などが必要だと、大正10年ぐらいに言っているんです。

これは、有隣堂ギャラリーの発想に近いものがありますし、初代の松信社長がおっしゃった公共的な精神の発揮というのは、そういう、地域の文化センターとしての自負もあるんじゃないでしょうか。

『有鄰』はお客様とのコミュニケーションを図るために創刊

松信昭和42年12月には、本紙『有鄰』を発刊しました。創刊号には「楽しい読みものとして、お客様とのコミュニケーションの役割を果たすためにこのささやかなニュースを企画した」と、父が挨拶文を書いています。

紀田新聞という形態が面白いですね。PR誌というと岩波書店の『図書』といった格好でしょう。『有鄰』はアイデアの勝利ですね。今どこも維持に困っているらしいけどもね。保存する場合には500号といったらずいぶん分厚くなるでしょう。本当に資料価値があるものですよ。

篠﨑それは本当にありがたいお言葉です。

松信書店として、本に関する情報をお伝えするのはもちろんのこと、地域の文化、例えば神奈川県を視野に入れますと、中世には鎌倉や小田原、また開国・開港の舞台となった横浜というように、当社をご利用いただいているお客様が住んでいる地域には、いろいろな話題があります。こうした本と地域に関する情報紙として多くの方々にご愛読いただいております。おかげさまで創刊以来1号も休むことなく、500号を迎えることができました。

紀田横浜のことを調べようとインターネットで検索すると、上のほうに必ず『有鄰』の記事が出てきます。つまりいろんな固有名詞はほかで研究していないんですね。まず『有鄰』が出てくる。

老舗の書店として地域の皆様のお役に立ちたい

松信最後に一言ご挨拶申し上げますと、今は、書籍を中心とする紙メディアが置かれた環境は非常に厳しいものがあります。私どもの取り扱い商品は本が中心ですが、近年は事務機やコンピューターを販売したり、音楽教室を開設したりと業態をいろいろ広げています。こうした状況の中で、さまざまな試みをしていかなくては会社が生き残れないと思っております。

これから本の世界がどのようにデジタル化されるのかよくわかりませんが、コンピューターで取り寄せるネット書店と違って、店舗を持つリアル書店としての楽しさを十分発揮していきたい。老舗の書店として、きちっとした品ぞろえのできる本屋として、地域の皆様のご要望に添いながら、お役に立っていきたい。創業者がつくってきた企業精神は、少しずつ形を変えながらも次の100年に向かって歩んでいきたいと、思っております。引き続き、ご指導とご愛顧のほどをお願い申し上げます。

篠﨑本日はどうもありがとうございました。

紀田順一郎 (きだ じゅんいちろう)

1935年横浜生まれ。
著書『横浜開港時代の人々』 神奈川新聞社 1,600円+税、ほか多数。

松本洋幸 (まつもと ひろゆき)

1971年福岡生まれ。

篠﨑孝子 (しのざき たかこ)

1930年横浜生まれ。

松信 裕 (まつのぶ ひろし)

1944年横浜生まれ。

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