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有鄰


平成15年10月10日  第431号  P2

 目次
P1 P2 P3 座談会 神奈川県立近代美術館 葉山館誕生 (1) (2) (3)
P4 ○運慶と東国  水野敬三郎
P5 ○人と作品  吉村萬壱と『ハリガネムシ』        金田浩一呂

 座談会

神奈川県立近代美術館 葉山館誕生 (2)
—海と緑の山にかこまれた出会いの場—


(大きな画像はこちら約~KB)… 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。
 

  ◇記憶される美術館をめざした展覧会活動

篠崎 葉山と一番長いかかわりをお持ちなのは、奥谷先生ですね。どういうきっかけで来られたのですか。

奥谷 葉山の景色は海あり山ありで、私が生まれ育った高知県の宿毛とちょっと似ていたからです。

私は葉山にくる前、一時、鎌倉の鶴岡八幡宮の源平池のすぐそばに住んでいたことがあるんです。そのころに近美ではムンクとかクレー展などをやっていたんです。 日本のはしりみたいな感じでした。

そういう展覧会や、最近だと大正時代の洋画家・関根正二とか、村山槐多とか、戦前の長谷川利行とか、とても印象に残るような展覧会をやってくださっているんです。学芸員の人たちが力を合わせて研究した成果で、本当に充実した作品が並べられるというのか、とてもいい展覧会をやっているんですね。

酒井 それは大変ほめてもらって、うれしいお話しなんだけれど、時々涅槃のふたをあけて、警鐘を鳴らさなければならないんです。土方定一という化け物みたいな人がいて、人々に記憶される美術館になろうということでしごかれた。記録される美術館は多いんですが、そうではなくて人の記憶に深く残る活動、ということだったと思います。

 
  美術館を支えた土方定一氏の思想

酒井 土方定一先生は、鎌倉近美に開館前からかかわっていた人です。開館時は副館長で、65年に館長に就任しました。

戦前にドイツに留学して、帰国後、草野心平らとともに詩人として活躍しながら、文学・美術の評論活動を行っていた。戦後、北京から引き揚げてきて近美にかかわった。『土方定一著作集』をはじめ著作も多数あります。

館長としてのリーダーシップはすごいものがありましたね。美術評論家・美術史家としての自分の問題や関心から企画案を立て、学芸員を総動員して実現させる。

日本の近代美術を、通史的にながめたり、あるいは作家の戸籍みたいなものまで、一つ一つ調べていた時代があった。ワーグマンもそうだし、高橋由一なんかも、実際のところは簡単な履歴一つつくるにも、大変な騒ぎだったんです。今はコンピューターがあったり、調査が行き届いたけれども、作品がどこにあるのかも、その人のお墓がどこにあるのかもわからないという ところから、一から始まったわけです。

「パウル・クレー展」や「エドワルド・ムンク展」は1969年、70年で、大阪万博や高度成長期の、美術館が大きく変貌した時期の象徴的なものだったんですが、その底流には、日本のそういう地道な実証研究を美術館がしていこうということがあった。

 
  近代日本洋画の中での存在を知らしめた「高橋由一展」

酒井 それともう一つ、うちの美術館というか、土方定一の思想と言っていいんだけれど、ある成果を得て、ある時期になってさらに充実した視点なりを持てるようになったら、また展覧会をやりなさいというのがあるんです。

高橋由一 「江ノ島図」
高橋由一 「江ノ島図」 (大きな画像はこちら約60KB)

1876~77年 油彩
神奈川県立近代美術館蔵

実は「高橋由一展」は1964年にやっているんです。これが最初の「高橋由一展」で、ある意味で、近代日本洋画の中に大きな位置を占める高橋由一という存在を知らしめた最初の展覧会だった。

その後、71年に、「高橋由一とその時代展」で、さらに高橋由一の周辺の明治初期の美術史を調査研究した成果を展覧会にしようというときに、我々が頼りにしたのが、東京芸大資料館にいらした青木茂先生で、資料を次々と出していただいた。その次の年、たっての願いで鎌倉近美に来ていただいたんです。

そして驚くべきことは、青木先生は通勤の片道二時間の電車の中で、活字おこしをされていないあらゆる基礎文献を読まれて、明治初期洋画の基礎台帳をつくられ、芸術選奨文部大臣賞をもらわれた。

青木 私が田舎から東京へでてきたころ、ちょうど鎌倉近美ができたんです。それが何とも派手な新しい美術館でしょう。あんなものはまだ全くなくて、まだバラックがあったころです。

そして展覧会を、年に10本もやって、そのなかには当たり外れもあったんだろうと思います(笑)。けれど、次々と、新しい、今までどこでもやっていなかった作家を取り上げて、そしてちょっと怪しいんじゃないかなと思うぐらい、「こうだ」と言う。

ある見方で統一しちゃうところがあった。それは土方先生の持ち前だったんでしょうな。いずれもひどく新鮮でしたよ。

鎌倉に来てみましたら、酒井さんをはじめ、一騎当千の人がいまして、それはすごいんだ。みんなおっかない。

私はそれまで国立だったでしょう。作品を借りるということがなくて、いつも貸すほうだった。ここに来てから、どこかに借りに行って、「お願いします」と頭を下げるんだけれど、「もうちょっと下げて」なんて言われる。おもしろい苦労をしました。

それから、夕暮れからお酒を飲みながら話をするのが習慣になってまして、そこで先輩からいろんな話を聞いた。私は随分歳をとってから来たので、ずっと外様のような気がしていたんですが、それでも仲間がお酒を飲んでは、美術館での経歴も関係なしに話し合えた。それで幾つかの展覧会もやったんです。


  ◇能面や円空など多彩な展覧会

酒井 青木先生で印象深いのは、1979年の「能面展」ですね。私が会場のディスプレイをお手伝いして、総監督は土方先生だけれど、担当者は青木先生だった。

篠崎 能面の展覧会を近代美術館でなさるのは、すごい試みですね。

酒井 日本の彫刻としてやる。おもしろい展覧会だったんですよ。

青木 酒井さんが展示をやらせろと言うわけですよ。あれは御神体みたいなものですから、能の面の中は普通なかなか見せない。もちろん能を見に行っても、かぶっているところしか見えないでしょう。ところが酒井さんは、裏側が見えるように展示しちゃった。アクリルケースの中にぶら下げたんです。専門家は中が見えるのでびっくりした。中は思ったよりちょっと荒っぽい彫りがしてある。そしてサインがあったりね。

奥谷 以前、能楽師の人にお聞きしたのですが、能の面には命が入ってくるんだそうです。だから、裏から見せることは大変なことじゃないんですか。

「能面展」ポスター
「能面展」ポスター
(大きな画像はこちら約50KB)

1979年

青木 そうなんでしょう。それを私ら知らないからやっちゃった。後から聞けば、大変なことらしいですよ。

奥谷 そう思いますよ。能面の展覧会なんて初めてじゃないですか。

青木 恐らくどこでもやっていない。

酒井 1960年の「円空上人彫刻展」も鎌倉が最初でした。それから1965年の「木喰上人の彫刻展」も最初なんです。そのたびに学芸員はえらい苦労をする。

ただ、美術館というのは、言ってみれば愛想のない空間ですよね。そんなところに日本画を並べたり、仏様を並べたりするんだけれど、あんな展示というのはほんとの姿かしらと思うときがある。

ヨーロッパの考えとは違って、日本の美術はちゃんと床の間にかけるなり、しかるべき場があったわけでしょう。その前に座って、いいお茶を飲んで、いい話をしてという「しきたり」みたいな中で、暮らしと一体になっていた。そういう考え方が土方先生の 中にありました。暮らしと結びついた美術ということがあって、それで展覧会も非常に多彩になったんです。

 
  独自の視点で研究した日本の近代洋画

篠崎 初期洋画の研究についてはいかがでしょう。

青木 開館二十周年の「高橋由一とその時代展」。私はここに入る前でしたが、カタログなんかにもちょっと変わった履歴なんかを載せさせてもらいました。

それと、「近代日本洋画の150年展」というのを十五周年記念でやった。

酒井 66年ですね。

青木 この「近代」は明治からじゃないんですよ。日本の近代はいつからかということは、今は明治維新からということをあまり言わないようになって、もう少し前から準備されていたんだと、歴史のほうでも言うようになったんですが、それを先取りして、今の歴史家よりももっと早いところに近代を置いた展覧会をやりました。あれは非常に新鮮なものでした。

酒井 当時は、明治100年で日本じゅうがかまびすしいというか、みんな100年、100年なんです。それが土方定一という人にはちょっとおもしろくないんだよね。それで中身がどうなるかわからないのに、最初に展覧会のタイトルが決まって、それで後はやれという感じだった。


  ◇葉山館開館記念「もうひとつの現代展」

篠崎 今回の開館記念特別展のお話を少ししていただきたいと思います。

酒井 タイトルは「もうひとつの現代展」としたんですが、「何がもうひとつなんだ」と言われると、微妙に難しいところがある。広い意味で、美術ももうひとつの歴史なんだということなんです。

私たちがつき合っている歴史はいろいろあるけれど、美術作品を通してまた違う面が見えるかもしれない。また、美術史における「もうひとつ」という考えもある。

今回の展覧会は、新しく建った美術館には違いないので開館展だけれど、それ以前に鎌倉での長い歴史があって、その延長で葉山館ができたということがある。老舗は老舗なんです。

ただ、私の記憶をさかのぼっていくと、80年代以降から、地方に大きな美術館や、施設的に恵まれた美術館がどんどんできてきて、活発になってきて、自然のうちに3周おくれのトップランナーみたいな感じになった(笑)。いつでもトップなんですよ。だけど、現実は3周おくれている。それで葉山をつくることによって、そこを挽回しようということなんです。

決して威張ったわけではなくて、貧しい老舗、3周おくれのトップランナーが開館展をやるんだから、台所の貧しさをそのまま見せてしまおうというのが、私の考えなんです。というのは、ずうっとお金なくしてものが集まった美術館なんですよ。

 
  寄贈寄託が主流の特色あるコレクション

酒井 高度成長期に、予算が何億、何十億とあって開館して、常設展示室に、こんなものを買いましたとお披露目する美術館では決してないわけです。

開館のときには、コレクションは全くなかったんです。でも現在、収蔵品は総数で約9,500点にのぼります。

油彩画でいえば、明治期の高橋由一をはじめとして、松岡壽、中村不折、黒田清輝など、大正期では萬鐵五郎、岸田劉生、梅原龍三郎ら。

大正末から昭和初期では、佐伯祐三、前田寛治、三岸好太郎、さらに靉光、松本竣介や麻生三郎など、展覧会活動を通じてのコレクションがあります。

古賀春江 「窓外の化粧」
古賀春江 「窓外の化粧」 
(大きな画像はこちら約50KB)

1930年 油彩
神奈川県立近代美術館蔵
彫刻ではイサム・ノグチから李禹煥までの代表作、日本画では山口蓬春をはじめ片岡球子、高山辰雄ら、その他、国内外の版画についても、重要な作品を収蔵しています。

では、ゼロスタートで、何でそんなに集まったのという摩訶不思議なことがある。

美術館の収集は、一つは購入です。それから寄贈寄託です。基本的にはそれ以外にはない。つまり、鎌倉近美は、寄贈寄託が主流のコレクションなんです。

たとえば、川端康成氏から古賀春江の代表的な作品「窓外の化粧」などを寄贈いただいたり、展覧会をとおして作家や作家の遺族、収集家や美術愛好家との縁とともにコレクションが充実していった。

それはどういうことかと言うと、展覧会をしますね。すると、現役の作家の展覧会をした場合でも、物故者の展覧会でも、遺族なり、あるいは作家ご自身なりがある感謝の念というか、気持ちというものがあって、作品を利用してくださいということで美術館に寄贈してくれた。そういうものが、50年間にどんなにあるかというので、今回お披露目をするわけです。

篠崎 それが鎌倉近美の特色ですね。

酒井 はい。それと、ここのコレクションの中心は、日本の近代美術なんですけれども、美術館の開設が1951年(昭和26)なので、それ以前の近代とか、明治、大正のものは、いずれ出すとして、今回は特に、あえて1950年代以降の美術館活動にともなったものを出そうと。戦後の現代美術をそういうことによって展望できれば幸せだと思っているんです。それに、それぞれの作品がここにおさまった経緯やエピソードもあるんですよ。

 
  横山操「波涛」の修復時にみつかったもう一枚の絵

篠崎 例えばどんなものがあるんですか。

酒井
横山操 「波涛」
横山操「波涛」 (大きな画像はこちら約88KB)

1960年 紙本着彩
神奈川県立近代美術館蔵
今回の「もうひとつの現代展」でいえば、日本画の横山操の作品で「波涛」というのがあるのですが、これは彼の作品の中では大きさから言えば最大級のもので、非常にダイナミックな晩年の力作なんです。何年ぶりかで収蔵庫から出して修復をしてもらったんですが、そのとき裏側からもう一枚絵が出てきた。 こちらは初期の具象的なもので、画学生が描いたみたいな絵なんです。これはうちの所属に帰するものなのかどうか微妙に難しいところだったんですが、改めて手続きを取り直しました。

こういったことは、実はこのケースだけではないんです。日本画の中では前衛的なグループに属した人で三上誠という福井の絵かきさんがいるんですが、その人から寄贈していただいた絵からも、修復のときに、裏からもう一枚、別の絵が出てきたことがあったんです。


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