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| 平成15年10月10日 第431号 P4 |
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| 目次 | |
| P1 P2 P3 | ○座談会 神奈川県立近代美術館 葉山館誕生 (1) (2) (3) |
| P4 | ○運慶と東国 水野敬三郎 |
| P5 | ○人と作品 吉村萬壱と『ハリガネムシ』 金田浩一呂 |
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運慶と東国 『日本彫刻史基礎資料集成』刊行にちなんで 水野敬三郎 |
![]() 水野敬三郎氏 |
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『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代造像銘記篇』が刊行
これ以前から『鎌倉時代造像銘記篇』のための資料収集も行っていたが、ここにようやく機が熟して第1巻の刊行にこぎつけたものである。準備を共にされた松島健・西川新次の両氏が相ついで急逝されたのはまことに残念であったが、今回は従来の編纂者の他に副島弘道・山本勉・根立研介という次の世代の三氏が加わった。この仕事は鎌倉時代を前後の二期に分け、まずその前期で6巻、1年に1巻ずつ刊行を予定しているが、全巻の完成には10数年を要することになる。その頃には新たな三人に加えてさらに若い人達が助けてくれているであろう。 ここに造像銘記というのは像の一部に直接、あるいは像内に納入した品に、その像を造る目的や発願者、作者、製作の年時などを書付けたもので、造像事情、信仰内容、作家や流派、編年、様式変遷など、あらゆる彫刻史的研究の基礎となる資料である。本書はその造像銘記を有する作品を編年的に取上げて、銘記及び像自体に関する詳細なデータを図版を掲げながら記述するものである。 運慶作と銘札から判明した願成就院、浄楽寺の諸像 さて『鎌倉時代造像銘記篇』第1巻には文治2年(1186)から建仁2年(1202)までの作品30件を収録したが、その冒頭を飾るのが伊豆願成就院の仏師運慶による諸像である。文治5年(1189)の横須賀市浄楽寺の諸像も運慶作で、前者は北条時政、後者は和田義盛のための造像とそれぞれの銘札から知られる。この他、東国の像として建久7年(1196)宗慶作の埼玉県保寧寺阿弥陀三尊像、同8年の藤沢市養命寺薬師如来像を収録するが、いずれも運慶派の作であり、第2巻に収録を予定する承元4年(1210)の伊豆修禅寺大日如来像、函南の桑原区薬師堂の阿弥陀三尊像も運慶派に属する仏師実慶の作である。
運慶様式の形成に東国武士が大きな役割を果たす 慶派仏師と東国はどうして結びついたのか。奈良、ついで京都に本拠をおいた慶派仏師は東国でどのように活動したのであろうか。 運慶もその一員であった興福寺に仏所をおく奈良仏師と東国との関係は、文治元年(1185)平家滅亡後、源頼朝が亡父義朝の菩提のため鎌倉に勝長寿院を建立した時、仏師成朝が奈良から下向してその本尊阿弥陀如来像を造立したことに始まる。 成朝は奈良仏師の正系で、運慶やその父康慶の本家筋にあたる。頼朝による成朝の起用は、当時の仏師界でもっとも有力な院派・円派といった京都仏師が後白河院や平家と関係が深かったのに対し、奈良仏師は旧勢力との関係が稀薄であったという政治的な理由によると考えてよい。成朝の作品に私は文治5年にできた興福寺の仏頭(もと西金堂本尊)をあてているが、さらに近年成朝作と伝える山梨県塩山市放光寺二王像の存在が知られた。放光寺は平家討伐に大功のあった甲斐源氏の棟梁安田義定(建久五年に頼朝に殺された)の開基で、像のすぐれたできばえからいってもこの有力武将のために成朝が造像をした可能性は高い。
願成就院の造仏始めは5月3日、時政の鎌倉帰着から20日後である。三山進氏は、時政は鎌倉での報告をすませた後に領国へ戻り、造仏にとりかかったのではないか、と推理された。時政の動きと時間的経過から伊豆での造仏始め、すなわち運慶の東国下向を導いた魅力的な説である。 現存遺品で見る限り、運慶独自の新様式は願成就院の諸像に初めて出現したということができる。その力のこもった造型は、東国武士にふさわしい野性的ともいえるたくましさを持っており、運慶と北条時政とのふれあいによってこそ、この新様式は成立しえたのではなかろうか。運慶様式の形成に東国武士との接触が大きな役割を果したことを推測させ、東国は日本彫刻史の展開の上にも大きな意義をもって登場してきたといえよう。東国武士の側でも直ちにこの新様式を満足すべきものと感じたことは、文治五年に侍所別当和田義盛の依頼により運慶が造った浄楽寺の仏像によってもわかる。 以後の運慶一門の活動を追うと、奈良・京都における造仏においてもその背景に源頼朝、頼朝と親交のあった文覚上人、あるいは鎌倉幕府寄りの公卿西園寺公経などの姿が目立つ。東大寺大仏殿の脇侍菩薩、四天王像の造立、東寺・神護寺の復興造像、法勝寺九重塔造仏などである。 一方、東国の造仏で運慶自身がかかわったと思われる作品に、足利市光得寺の厨子入り大日如来像がある。足利義兼(~1195)の発願になると伝えるが、義兼は頼朝の母方のいとこの息で、しかも北条政子の妹を妻としており、頼朝夫妻と姻戚関係がある。 この像には心月輪と柄付きの五輪塔が納入されているのがX線撮影により、確かめられており、そこには願成就院像・浄楽寺像と同様に運慶の名が記されている可能性がある。愛知県滝山寺の聖観音・梵天・帝釈天の三像は、縁起によれば式部僧都寛伝が正治2年(1200)頼朝菩提のために造立し、聖観音の像内に頼朝の歯と遺髪を納めたという。寛伝も頼朝の母方のいとこにあたる。像は作風から見て運慶とその工房の作と見て間違いない。 この他、『吾妻鏡』によると、建保4年(1216)実朝持仏堂の本尊、運慶作の釈迦を京都より渡し(貞応2年〈1223〉の記事にも実朝の平生の本尊が運慶作であったという)、建保6年7月9日に北条義時が発願し12月2日に供養した大倉新御堂の薬師は運慶作で、承久元年(1219)北条政子は実朝追福のため運慶作の五大尊を勝長寿院に安置した。 このように頼朝・政子ときわめて近い関係にある造像には運慶自身がたずさわっていた。しかしいくら政子の発願でもそうはいかない場合がある。いま鎌倉寿福寺にある鶴岡八幡宮伝来の銅造薬師如来像は『吾妻鏡』に記す建暦元年(1211)に北条政子が発願供養したものにあたると考えられるが、運慶派の作品ながら、できばえからいって運慶作とは思えない。おそらくは同年の実朝の病気平癒祈願のための像で、この場合には京都の運慶に発注していては間にあわないのである。 東国に住みついた宗慶・実慶などの慶派仏師 このような需要にこたえるため鎌倉にしばらく、あるいは長く滞在した、中には住みついて仏所を構えた慶派仏師の存在が当然考えられる。東国武士達による造仏もこの時期に活発化し、その点からもそのような仏師が必要とされたことは、数多くの慶派の遺品が物語っている。 埼玉県保寧寺の阿弥陀三尊像は銘文によれば、建久7年(1196)大仏師宗慶が造った。施主は武蔵七党の児玉党に属する四方田弘綱にあたると思われる。宗慶の名は静岡県瑞林寺地蔵菩薩像の治承元年(1177)の銘文に大仏師康慶のもとに小仏師としてあらわれ、寿永2年(1183)の「運慶願経」にも結縁した慶派仏師の枢要な一員である。 同様に「運慶願経」に名があり、運慶の周辺にあって共に仕事をしていたことが確かな実慶の作品が桑原区薬師堂の阿弥陀三尊像と修禅寺大日如来像である。 前者は作風の上から宗慶の保寧寺像とほぼ同時期の作かと思われ、後者は銘記に承元4年(1210)8月28日の日付けがあり、女性の黒髪とかもじを納入している点から、おそらく重い病のため7月8日に落飾し、間もなく亡くなったと思われる辻殿(源頼家室、後に実朝を暗殺する公暁の母)の供養のための像かと推測される。実慶は当時東国に在住していたのであろうし、あるいは長く滞在していたのかもしれない。 東国のその他の慶派作品の示す作風は多様である。京都・奈良における慶派の作品の作風変遷との比較を通じて、それぞれの作家のあり方をなお検討する余地があると思う。 |
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| 水野敬三郎 (みずの けいざぶろう) |
| 1932年東京生れ。東京芸術大学名誉教授・新潟県立近代美術館長・横浜市文化財保護審議会委員。 |
| 共編著『日本彫刻 史基礎資料集成 鎌倉時代造像銘記篇』第1巻 中央公論美術出版34,650円(税込)、ほか。 |
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