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有鄰

平成17年8月10日  第453号  P2

○座談会 P1   ドン・ブラウンと昭和の日本 (1) (2) (3)
山極晃/天川晃/北河賢三/中武香奈美/松信裕
○特集 P4   野口英世と横浜検疫所  星亮一
○人と作品 P5   藤原伊織と『シリウスの道』



座談会


コレクションで見るアメリカの戦時・占領政策
ドン・ブラウンと昭和の日本 (2)



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*印のある写真は、すべて横浜開港資料館蔵 ドン・ブラウン・コレクションから~
 

  ◇ジャーナリスト活動が絶望的になり帰国
 
松信  

日米開戦前ですが、日本政府との情報のやりとりはいろいろあったんでしょうね。
 

天川  

1931年の満州事変以降、日本は中国との関係で軍事的な行動をとり始め、アメリカが非常に神経をとがらせていった。 日本としても、国際的な問題について、外国に対していろいろ説明をしなければならなくなって、外務省に情報担当者を置いたんです。

  天羽英二外務省情報部長の外国人記者会見
  天羽英二外務省情報部長の外国人記者会見 1933-37年 *
 

ですから、外国人記者を対象とした記者会見には、ブラウンとかフライシャー、バイアスらは、当然出ています。

当時のアメリカ駐日大使のグルーの日記を見ますと、フライシャーとグルーは非常に密接なコンタクトをとっていて、フライシャーは、記者会見等での日本政府の話をグルーに伝えてますし、グルーもアメリカの基本的な考えを教えるようなこともあって、ジャーナリストとアメリカ大使館は、かなり接触があったと考えられます。

特に、彼らは、アメリカの新聞の特派員でもありますから、グルーが、本国の新聞にどういう記事を書いているのかを聞き出したり、あるいはそれについてコメントを求めたりということをやっている様が、グルーの日記からうかがえます。

時代がしだいに緊張をはらみ、日米関係が悪くなっていく時代でもありますので、大使館としては、そういった外国人ジャーナリストからいろいろ情報を得る努力をしていたと言えるんじゃないでしょうか。
 

北河  

例えば神戸の『ジャパン・クロニクル』は、小さな新聞ですから、余り問題にされなかったようですけれども、満州事変段階から、随分批判的な論調を一貫して示しています。 それに比べて『ジャパン・アドヴァタイザー』はどういう姿勢だったんでしょうか。
 

天川  

日本政府は、外国新聞が非常に批判的なことを書くと、発行停止にする。 現に『ジャパン・アドヴァタイザー』は何度か発行停止になっていて、ワイオミング大学にあるフライシャーの文書の中に、内務大臣からの発行停止の書類があります。

グルーは『ジャパン・アドヴァタイザー』は自主規制をしながら発行を続けていたということを書いていますね。 そこが発行部数の多い『ジャパン・アドヴァタイザー』と神戸の『クロニクル』の違いでもあるということです。
 


   『ジャパン・アドヴァタイザー』が買収される
 
松信  

1940年にブラウンは帰国しますが、その原因は何だったのでしょうか。
 

天川  

『ジャパン・アドヴァタイザー』が『ジャパン・タイムズ』と合併したからです。 『ジャパン・アドヴァタイザー』の経営が苦しかったことと、日本政府としても、英字新聞は、日本政府の手が入っているような『ジャパン・タイムズ』があったわけですから、一本化できたほうがいいということで、結局、買収されるんです。
 

中武  

その前にも、例えばイギリス政府とか、朝日新聞からも買収の話があったんです。 でも、フライシャーとしては、アメリカの立場を表明する唯一の新聞だという自負から、経営が苦しいながらもなんとか守ろうとするんですが、だんだん追い詰められていった。 父親のフライシャーはグルーに、最後は安く買いたたかれて、没収されたと同じだと語っています。 そこでフライシャー一家も帰国しますし、ブラウンも日本にいてもジャーナリスト活動ができないということで、帰国します。
 

北河  

ブラウンは、毎日ではないんですが日記をつけていまして、彼は心情的なことを余り表に出さないという印象が強いんですけれども、40年になりますと、大変追い詰められていて、常に偵察されているという状態で、普通にものが書けないということを書いています。

恐らく経営上の問題とともに、もうジャーナリズムとして成り立たないと思ったんでしょう。
 

中武  
W・フライシャーのインタビューを受ける松岡洋右  
W・フライシャーのインタビューを受ける松岡洋右 1940年 (『Volcanic isle(火山列島)』 カバーから)
 
 

ウィルフレッド・フライシャーは、アメリカに帰国してすぐに『Volcanic isle(火山列島)』という日本回顧録を出すんです。 どこで噴火するかわからないような危険な要因をいっぱい持った日本という意味だと思います。 その中で、40年ぐらいになると、記事に抗議して、ドイツ大使館の書記官が家に押しかけてきて、脅迫され、大使館に助けを求めるというようなことが起こって、フライシャーもかなりまいってしまっているということを、具体的に書いているんです。
 

北河  

外国人記者は友好関係を保たないと仕事ができないし、外務省側もそれなりの対応をしていますけれども、他方で要注意人物についてはかなり細かく身辺を調べていますね。 ロイターの記者が、スパイ容疑で逮捕され、取調べ中に飛び降り自殺している。
 

中武  

40年7月のコックス事件です。 ブラウンの日本での日記の最後は、コックス事件を受けて、もうたまらないという気持ちを書いて終わっています。 帰るまでまだ3か月ぐらいあるんですけれども、もう絶望的だったんでしょうね。
 


  ◇アメリカ戦時情報局で対日宣伝ビラを作成
 
松信  

ブラウンは帰国してすぐに、戦時情報局(OWI)に入るんですか。
 

山極  

彼がOWIに入りましたのは42年9月です。 その前は、1年ほど、UP通信にいました。

当時、アメリカの宣伝情報機関の宣伝方法には、大きく分けて二つありました。 一つは公開の宣伝やニュースで、ビラを出す場合でも、アメリカ軍が出したものだということをはっきりさせている「白い宣伝」、ホワイト宣伝です。 それに対して、もとがわからないように、例えば日本のグループが出したような形にする謀略的なものをブラック宣伝と呼んで一応区別している。

OWIは、原則としてホワイト宣伝を担当していて、OWIそのものは、アメリカの国内の意思統一、国民の統一を図るための宣伝をする国内部と、対外宣伝をする海外部の二つに分かれていた。 彼は海外部に属していました。

OWIの本部はワシントンにありましたけれども、彼が属していたのはニューヨーク事務所です。

彼はそこで、主に宣伝ビラの作成と、その管理・配布をやっていました。 アッツ島とかアリューシャン列島、そのほかの太平洋諸島を担当していたので、太平洋の小さな島々についてのビラがかなり残っています。

彼のコレクションは、もちろんアメリカがつくったビラ全体から言うと一部にすぎないんですけれども、それがニューヨークのOWIの事務所で保管されていたものだということと、その現物が日本にあって、見ることができるという点で、たいへん貴重だと思います。

分類しますと、比較的初期のものが多いのが一つの特徴です。 42年の後半から44年にかけて、前線でビラをつくれなかった時期に、ニューヨークから送っていたということを物語っています。
 

松信  

ビラはどのくらいつくられたんですか。
 

山極  

戦争が始まると、それぞれの戦線でもビラをつくるようになりますから、そういうものを含めますと、大変な量になります。 種類で言っても、全体で数百になるんじゃないでしょうか。
 


   ビラの作成は日本兵の士気を弱めることが目的
 
松信  

ビラをつくって、飛行機で撒く。 目的は戦意を喪失させるということですか。
 

山極  

戦争手段によらずに相手の兵隊の戦う意欲、士気を弱めるという心理作戦ですね。 それでうまくいけば投降させるところまでいくんだけれども、実際にはなかなかそこまではいかないんです。

もう一つは、現地の諸民族に対する、日本への非協力とか、反抗とか、できればアメリカ側に協力をさせようというねらいです。 大きく分けてこの二つの目的があった。
 

  対日宣伝ビラを飛行機で撒布
  対日宣伝ビラを飛行機で撒布 (アメリカ国立公文書館蔵)
 
松信   日本向けのビラの文章を見ると、日本側の事情をよく知っていますね。 天皇に対する配慮もされていた。
 
山極  

そうですね。 天皇については、戦争が始まってすぐ、OWIと国務省で討議して、直接攻撃すべきでないという方針を決めます。 天皇に対して、非常に気を使っている。 ただし、それは天皇のためというよりも、天皇を攻撃したらマイナスしかないという考え方です。

それから、最初のころは、アメリカの軍事力の強さを誇示して、「だから降伏しろ」という論調が強かったんです。 しかし日本軍はそんなことでは降伏しない。 むしろ、家族のため、新日本建設のために現在アメリカ軍の中にいる日本軍の戦友たちに参加しなさい、という言い方になる。
 

松信  

ビラに使ってある日本兵の捕虜の写真も、最初は顔を出していたのを隠すようにしたりしていますね。
 

山極  
  ブリスベーンで作成した宣伝ビラ
 
  ブリスベーンで作成した宣伝ビラ *
 

非常に気を使うようになっていく。 降伏する兵隊が持ってきたら通すという安全通過証があって最初は、それに、「I Surrender (私は降伏した)」と書いてあったんですが、途中から「I Cease Fire (戦闘をやめた)」と言葉遣いを変えていくわけです。 かなり巧妙になってきています。

それから、ブラウンのビラの中で、もう一つ特徴的なのは、オーストラリアでつくられたビラがかなり入っています。 マッカーサーのフィリピン進攻に備えて、心理作戦も強化するということで、彼は44年の7月にオーストラリアに派遣され、パンフレットやビラの作成についてOWIの要員たちと協力、あるいは助言をしたんですね。
 


   戦争末期は捕虜となるケースが増える効果も
 
松信  

ビラは、実際効果はあったんですか。
 

山極  
宣伝ビラ「一歩先は軍部の捨て駒」  
宣伝ビラ「一歩先は軍部の捨て駒」 *
 
 

美味そうなお鮨をカラーで印刷したり、「愈ゝ死に直面する日本兵」「一歩先は軍部の捨て駒」というタイトルのものとか、日本兵の心理をつこうとしたものがたくさんあります。 その効果のほどははっきりと証明はできないんですが、アメリカ側が判断基準にしていたのは、一つは、日本政府、日本軍がいかにその問題を気にするかということです。 つまり、効果がなければ軍も政府も気にしないでしょう。 だけれども非常に気にしている。 そういう度合いが強くなればなるほど、アメリカ側としては、やっぱり効果があると考えた。

もう一つは、かなり膨大な日本人捕虜の尋問をやって、どういうビラにどんな感想を持ったかということを詳しく聞いているんです。 捕虜になった以上、どうでもいいやというところがあって、そのまま受け取るわけにはいかないんですが、どういうときにどんな気持ちになったかということはある程度わかる。

ただ、実際にビラを見て降伏した人は数えるほどなんです。 では効果がなかったかというとそうでもない。 本当に食うや食わずでやっている兵隊からすれば、やっぱり何らかの影響は確かにあって、本当なら自殺するところを捕虜になるといったケースがだんだん増えていくわけです。
 

北河  

日本軍はもともと無投降主義ですね。 捕虜になっても日本に帰れないという感じだったんですが、最末期になると、玉砕というのは実際は文字どおり全滅ではなく、「玉砕した」と中央に連絡して、あとは現地で何をやってもいいという、「玉砕」の次の段階なんです。 その段階で捕虜がすごく増える。

フィリピン戦の統計では、初期の捕虜はせいぜい数十人なんですが、戦争末期は1か月で1千人、2千人単位で増える。 それは、撒かれたビラの量と正比例しているんです。 最後の「生きるため」というか、もう餓死するしかない状況の中で、ビラが意味を持ったという推測はできるかもしれません。
 


   日系二世の藤井周而らがビラづくりに協力
 
松信  

OWIでブラウンの周りにいたのはどういう人たちだったんでしょうか。
 

山極  

まず、藤井周而という日系二世がいます。 彼はいわゆる帰米二世で、父親はジャーナリストで、子供のころ日本で教育を受けてアメリカに帰ってきた。 その後『同胞』というロサンゼルスの日本語の新聞の代表を長くやっていて、ジャーナリストとしても非常に有名だったんです。

彼は共産党員だったと思いますが、その新聞を含め、かなり左翼運動もやっていて、戦争が始まると、アメリカ側がマークしていた日系人の有力者の一人と目されて逮捕されます。 しかし新聞自体が、もともと日本の軍国主義に反対していた新聞なので、彼はそこで釈放されて、また新たに日系人キャンプに入れられ、42年に釈放されてニューヨークに行くんです。
 

松信  

それでOWIに入るわけですか。

山極  

そうなんです。 ブラウンをリクルートしたデニス・マッケヴォイという人が、藤井周而も採用した。 彼によれば、一生懸命国中探して、やっと最適な人物を見つけたと言ったほど、確かに優秀だった。 彼はブラウンよりもちょっと先にOWIに入っていて、ブラウンの部下になります。 ブラウンも、日本人向けのビラをつくる上では彼にはかなわないと言っていて、非常に珍重したようです。

それから石垣綾子(マツイ・ハル)ですね。 彼女もブラウンより先に入っています。 翻訳の仕事を主としてやっていたようで、彼とは部署が違っていたけれど、戦後、石垣綾子が日本に帰りたいというときにも、ブラウンが尽力したようです。

それから国吉康雄という、当時すでにアメリカの画壇で有名だった人もOWIに関係していましたが、ビラの仕事ではなかったようですね。
 

松信  

我々がよく知っている、『菊と刀』を書いたルース・ベネディクトもOWIにいたんですね。
 

山極   はい。 でも部署が違うので、余り関係はなかったんじゃないかと思います。
 
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