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有鄰

平成17年8月10日  第453号  P3

○座談会 P1   ドン・ブラウンと昭和の日本 (1) (2) (3)
山極晃/天川晃/北河賢三/中武香奈美/松信裕
○特集 P4   野口英世と横浜検疫所  星亮一
○人と作品 P5   藤原伊織と『シリウスの道』



座談会


コレクションで見るアメリカの戦時・占領政策
ドン・ブラウンと昭和の日本 (3)



<画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。>

*印のある写真は、すべて横浜開港資料館蔵 ドン・ブラウン・コレクションから~
 

  ◇GHQ民間情報教育局で民主化政策を推進
 
松信  

1945年8月に日本が敗戦し、その年の12月1日に、ブラウンはGHQの民間情報教育局(CIE)の一員として再来日するわけですね。
 

中武  
  占領初期の東京・日比谷
  占領初期の東京・日比谷 *
 

ブラウンは厚木の飛行場から軍用トラックで、横浜を通って東京へ向かうんですが、その途中の印象を「横浜の郊外までは、すべてが荒廃した状態であるほかは戦争の傷跡はほとんどなかった。 しかし横浜に入ると、風景の中に、がれきや、壊れた建物、さびたブリキの簡易避難所、焼き尽くされた車や市街電車が見え、人びともみすぼらしくて生気がなく、痛々しかった。 交通量はかなりあったが、その大半はアメリカ軍のものだった。 (中略)英語の道路標識がいたるところにあった。 横浜の建物の多くには軍の表示板がかかっていた。 東京への幹線道路は、かつては日本で一番よい道路だったが、穴だらけだった。 店舗と住宅が立ち並ぶ比較的大きな通りは破壊されずそっくりそのまま残っていたが、荒れ果てていた。」と、ニューヨークの友人への手紙に書いています。
 

北河  

ブラウンは、OWIで準備してきた海外向け映画の配給や、翻訳権の問題にかかわっていたということで、CIEに配置された。 OWIでやってきた仕事を、そのままCIEで生かすというつながりですね。

CIEに情報課ができるのが46年の6月で、ブラウンが情報課長になるのは7月です。 それから52年の占領終了まで務めますから、占領期、情報課長として一貫して指導し続けました。

日比谷のCIE図書館 左はアーニー・バイル劇場(現東京宝塚劇場)  
日比谷のCIE図書館 左はアーニー・バイル劇場(現東京宝塚劇場) *
 
 

ブラウンが関与した部署はいくつかあります。 46年1月からは、プランズ・アンド・オペレーション・ディビジョン。 企画作戦課と訳されることがありますが、初期の婦人参政権の問題、女性団体、労働組合、青年団体等々、初期の民主化政策に対応する啓発宣伝活動をしていたところです。 それから、新聞、ラジオ、映画、CIE図書館に関与しています。 そういうCIEの初期の民主化政策の宣伝にかかわっていた。

46年の4月からは、プレス・アンド・パブリケーション・ディビジョン。 新聞出版課のチーフが更迭され、後任に任命されて新聞出版にかかわっていき、7月頃から、恐らくその一環で用紙割当の認可を行なうようになります。
 

松信   戦後、言論が自由になったと言っても発表するための紙が足りない。 その割当にGHQが関与していたんですね。
 
北河  

情報課長時代、ブラウンが直接関係したことで一番多いのが、用紙割当問題です。 それに続いて外国映画の許可、検閲。 それから外国文献の翻訳の認可。 これらが主なものだったようです。 映画や出版物の検閲を担当したのはCCD(民間検閲支隊)という検閲の部署ですが、CCDと並んでCIEの情報課が検閲の一部を担ったという事実もあるのです。
 


   用紙割当や出版統制では公正であろうと努力
 
北河  
「新聞出版用紙割当制度の概要とその業務実績」  
「新聞出版用紙割当制度の概要とその業務実績」 *
 
 

用紙割当、出版統制については、当時のGHQ内部で、CIE対CIS(民間諜報局)、もう一方でESS(経済科学局)との対立がある。 それから日本の民間団体の中でも、戦後、日本出版協会ができて、戦争責任問題をめぐり、戦時中、戦争協力がはなはだしかった講談社とか旺文社、主婦之友、家の光協会とかの大手出版社が戦犯出版社として批判される。 それらの出版社が日本自由出版協会をつくって、日本出版協会と対立していました。

GHQ内部の対立と、日本の民間団体の対立が相互に結びついた状況で、ブラウンは日本出版協会を支持し、用紙統制の実権を握り、メディア統制を行なったと、今までは言われていたのです。

いろいろな側面で対立があったこと、ブラウンが「統制派」であったことは間違いない。 ただ、「鉄の男」などとよばれて、専制的、独裁的なニュアンスで語られる場合があるんですが、必ずしもそうではないのです。

それは、統制によって一定の原則を守り抜くということなんです。 いろんな立場に対して公正であろうとした。 だから、特定の個人や集団の利益に奉仕するような形はとらない。 用紙配給に際して政府の高官や政治家の介入は拒絶する。 陳情に対応はするけれども、結局一切認めなかったという証言もありました。

G2(参謀第二部)のウィロビーには小規模出版社の存続という考え方はなく、共産党への用紙配給は否定されていた。 ところがブラウンはその逆で、小規模出版社を擁護して用紙を配給するし、共産党といえども、それを否定することはできないという考えだった。

ブラウン自身は決して親共産党的ではなく、むしろ反共に近いとも言える面があるんですが、ただ、マッカーシズムのような絶滅的なものではない。 さまざまな立場を認めるということだと思います。

国内の出版団体との関係でも、対立する双方の立場を認める。 そういう容認論で、ブラウンの立場はかなり一貫しているという印象ですね。
 


  ◇占領の最初から最後まで関わった稀な存在
 
松信  

占領軍の一員として見て、ブラウンはどんな存在なんでしょうか。
 

天川  

GHQの中にはいろんなセクションがありました。 政治関係ではGSと訳される民政局、経済関係はESS。 GSは政治関係、憲法問題などいろんなことをやりましたが、実は、せいぜい三、四十人の規模なんです。 そんなに大きくないんです。 ですから、憲法も、十人か十五人が書いたというのは、そのころはそのぐらいしか人がいなかったということなんです。

ところがCIEは、かなり大きいセクションで、時期によって違いますけれども、情報課だけでも四十人ぐらいいます。 ブラウンは、GSよりも大きな課の課長だったということです。
 

松信  

大所帯の課長だったんですね。
 

天川  
日本の高校生とCIE音楽担当
日本の高校生とCIE音楽担当 *
 

ブラウンは戦後の非常に早い時期に日本に来ていますね。 これは、一つは、OWIが戦争が終わったら用がなくなって、国務省に統合される。 そして、日本関係の知識のある人が、今度は違った形で占領に必要になってくるということで、彼は再来日した。

彼の場合、戦前に10年もいたわけですね。 しかも、占領の最初から最後までずっといた。 占領にかかわったいろんな人を見ても、そもそも最初から最後までいた人はそれほど多くないし、その中で、いわんや戦前にかなり長い間いた人は非常に少ない。 そういう意味では非常に稀な例だという印象を持ちます。

そういう人なら、もっといろんなことがわかってもいいはずなのにという気がするんですが、彼の行動の根幹のところでよくわからない部分がまだまだ残っていまして、それが彼のパーソナリティーなのか、謎めいたところがたくさんあるんです。

再来日の初期の12月から1月にかけての、友人のE・H・ノーマンについて記した手紙が残っています。 彼の戦時中の日記は飛び飛びですが、書簡はほぼ毎日書いている。 本当に短い期間しか残っていないので残念なんですが、こうしたものは彼の交友関係や考え方などを知る上で、重要な手がかりだと思います。
 


   占領終了後は米極東軍司令部の情報担当として滞日
 
中武  

ブラウンは、占領政策が終わり、情報課長としての任務が終わった後の1952年に、在日アメリカ軍の極東軍司令部の情報担当として日本に残ります。 ところが54年に共産主義者との関係が疑われて、国家安全保障審査委員会でひっかかります。 ここで潔白が証明されなければ解雇されることになるので、それに対して約40ページにわたる弁明書を用意します。 一昨年の夏、その写しのそろいが、友人のブレイクモアの元別荘に残っていたのが出てきたんです。

ブラウンが、真実をすべて語ったとは思えませんが、初めて、戦前からの交友関係について、誰々が共産主義者とは知らなかったとか、自分はそうじゃないということを慎重に、一人一人について具体的に述べていて、ブラウンの交友関係と考え方を知る資料としてはかなり貴重なものです。
 

北河  

最初はOWI時代の資料が一番乏しくて、文書がないものですから、年譜をつくる上でも苦労していたんです。 そこに今のブレイクモア文書が出てきたので、かなり埋めることができました。
 

松信  

極東軍ではどんなことをしていたのですか。
 

中武  

パブリック・インフォメーション・オフィスと言いますから、渉外局でしょうか。 今度はスタッフは余りいないんですけれども、そこに情報官として入ります。

そこでの仕事は、これまでは余りわからなかったんですが、残した文書を少しずつ見ていきますと、OWIや、GHQの情報課でやっていたのと同じように、新聞をもとに、アメリカに対する日本の世論の動向などを日日チェックし、その情報を司令部の上に伝える。 さらに、日本の首相に宛てる司令部からの書簡の草稿を書くとか、そういうこともしていたようです。 その写しが随分残っているのが、整理が進むにつれてわかってきました。
 


  ◇1万点におよぶ日本関係図書のコレクション
 
松信  

ブラウンのコレクションには、ほかにもいろいろな資料がありますね。
 

中武  

コレクションの中の主な資料については、今までのお話の中で出てきましたけれども、それ以外の珍しいものとして、占領初期の1946年に亀井文夫監督が製作した「日本の悲劇」という、問題となった記録映画があるんです。 天皇の扱い方をめぐって、検閲をパスして上映中だったのにストップがかかり、全部のフィルムが没収された作品です。 その没収されたうちの1本のプリントがブラウンの手元に残ったままになっていたんです。 そういう問題のプリントを扱う部署の責任者の一人であったことがわかります。

それから1万点の図書がありますが、これは去年、横浜開港資料館で分類目録をつくって、全面公開しました。

その中に寄贈のサイン入りの図書が130冊ぐらいあります。 それを見ると、彼の交友関係が見えてくる部分があります。 研究者も、外国人も日本人も、先ほど話題に出たOWIのころに出会った石垣綾子とか、八島太郎という絵本画家もいます。
 


   戦前や終戦直後の日本各地の写真も
 
松信  

写真も、かなり珍しいものがたくさんあるようですね。
 

中武  
  横浜駅西口の石油集積場
  横浜駅西口の石油集積場 * (戦前はスタンダード石油の所有地だった)
 

はい。 ブラウンが撮ったわけではありませんが、1930年代の日本各地の風景を撮ったものや、戦時中にOWIで宣伝ビラを作成するときの資料として集めた戦場写真や捕虜の写真、戦後すぐの日本各地の写真が、全部で800枚ぐらいあります。

戦後の写真の中には、終戦直後の横浜駅西口とか、バラックの裏庭の畑を耕している写真もあります。 文書だけではなく、ビジュアルな資料として、日本と日本人分析の助けとなったんだろうと思います。

横浜開港資料館では、8月3日から10月30日まで「ドン・ブラウンと戦後の日本」という展示をいたします。 とにかく膨大な資料ですから、全部は展示できませんが、このような写真もたくさん使って、占領期を中心に紹介しました。
 

山極  

ブラウンは、いつごろから本や資料を集めていたんですか。
 

中武  

いつ、どこで入手したかと書いてある本があり、一番古いのは、来日した1930年に神戸で入手しています。 1930年代の彼の日記には、「きょうは神田で何を買って幾らだった」という記述もあります。 いつからというのはなかなか難しいんですが、多分、来日してすぐにコレクションを始めたんだと思います。
 


   コレクションの価値を見いだすのは利用者自身
 
山極  

この1万点の本の特徴というと、何ですか。
 

中武  

資料館で持っていますブルーム・コレクションとよく比較するんですが、5千点あるブルーム・コレクションには、大変高価な稀覯本、16世紀のイエズス会の日本報告書とか、初版本がそろっていて、最初から、ある程度価値がわかっている。

ブラウンはその倍の1万点ですが、ブルームさんが言ったように、本当に雑多です。 けれども、それは、ブラウンがその時々に関心を寄せた、あるいは仕事上の関係で手元に集まった、彼のやってきた仕事とともにある図書コレクションであるわけです。 日本理解を仕事としつづけた一外国人が残したこのコレクションは、時代時代のさまざまな日本の姿をとらえているはずで、利用もそれにあわせて、さまざまだと思います。

ですから、その価値を見つけるのは、利用者自身であって、いろいろな関心をもった人たちに利用してもらって活かされるコレクションではないかと思っています。
 

松信  

どうもありがとうございました。
 





山極晃(やまぎわ あきら)
1929年宮城県生れ。
著書『米戦時情報局の『延安報告』と日本人民解放連盟』 大月書店 5,460円(税込) ほか。
 
天川晃(あまかわ あきら)
1940年大阪府生れ。
共著『日本政治史−20世紀の日本政治』 放送大学教育振興会 1,995円(税込) ほか。
 
北河賢三(きたがわ けんぞう)
1948年愛知県生れ。
著書『戦後の出発』 青木書店 2,310円(税込) ほか。
 
中武香奈美(なかたけ かなみ)
1956年宮崎県生れ。
共著『横浜英仏駐屯軍と外国人居留地』 東京堂出版 (現在品切・重版未定) ほか。


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■好評発売中!■
図説 ドン・ブラウンと昭和の日本
コレクションで見る戦時・占領政策
 
『図説 ドン・ブラウンと昭和の日本』表紙画像

 
  横浜国際関係史研究会・横浜開港資料館:編
A4変型・120頁(カラー口絵8頁)
有隣堂刊
2,940円(税込)
<2005年8月6日発売>
ISBN:4896601912


ドン・ブラウンは1930年に来日、英字新聞の記者として活躍し、日米戦争時には米戦時情報局で対日心理作戦に携わり、戦後はGHQ情報課長として日本の民主化を推進した。

本書は、日本軍に投降を呼びかける宣伝ビラ、GHQ内部資料、戦前・占領期の写真、日本関係図書などのコレクションの中から約500点を収録し、ドン・ブラウンの軌跡と、アメリカの戦時・占領政策の実態を紹介する。
 

≪目 次≫
 
  はじめに
  刊行によせて
 
第一部 国際ジャーナリスト−戦前期(1905~1940)
    1 ジャーナリストとしての萌芽/ 2 1930年代の日本/ 3 初来日—『ジャパン・アドヴァタイザー』入社/ 4 アメリカ主要紙の特派員として/ 5 外務省情報部からの情報収集/ 6 ジャーナリスト仲間/ 7 駐日アメリカ大使館と『ジャパン・アドヴァタイザー』/ 8 帰国—『ジャパン・アドヴァタイザー』の終焉
 
第二部 アメリカ戦時情報局員−戦時下(1941~1945)
    1 日米開戦/ 2 日本関係図書の出版—日本・日本人論、日本語辞書/ 3 戦時情報局入局—対日心理戦/ 4 戦時情報局の日本関係スタッフ/ 5 アメリカの宣伝ビラ/ 6 日本の宣伝ビラ/ 7 アジア太平洋戦争の情報収集
 
第三部 GHQ民間情報教育局情報課長−占領・戦後期(1945~1980)
    1 占領開始/ 2 敗戦直後の横浜・東京/ 3 再来日、そしてGHQ入局/ 4 CIE情報課のおもな活動/ 5 新聞出版用紙の割当問題/ 6 占領終了後
 
  解 説  「もう一つの顔—日本関係図書の収集家」
  ドン・ブラウン年譜
  あとがき
 





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