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有鄰


有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 旧字体「鄰」は正字、村里の意。 題字は武者小路実篤。

平成12年6月10日  第391号  P1

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 横浜はダンスのメッカ (1) (2) (3)
P4 ○装丁にみる出版文化  臼田捷治
P5 ○人と作品  垣根涼介と『午前三時のルースター』        藤田昌司

 座談会

横浜はダンスのメッカ (1)

  作 家   もりた なるお  
  神奈川県社交ダンス協会次席代表   堀 英夫  
  「イシダ・チハル・ダンサーズ」創設者石田千春氏婦人   石田 美佐緒  
  モダン出版株式会社取締役   杉浦 清  
  本紙編集委員・文芸評論家   藤田 昌司  
              

はじめに

藤田
ダンスホール「白馬車」
ダンスホール「白馬車」
(もりた なるお画)
社交ダンスは今や、シルバー世代を中心にして大変なブームになっています。いろいろな盛衰がありましたが、その最初の舞台が横浜だったということで、皆さんにいろいろ蘊蓄(うんちく)を傾けていただければと思います。

ご出席いただきました、もりたなるおさんは、二・二六事件などをライフワークにしておられる作家ですが、ダンスについての小説も書いておられ、今、地方新聞に『ラストダンス』という小説を連載中です。その『ラストダンス』をお書きになるうえで、横浜とダンスの歴史のかかわりを詳しくお調べになっておられるということで、その辺の成果をぜひご紹介いただきたいと思います。

堀英夫さんは、神奈川県社交ダンス協会次席代表で、長年、社交ダンスの指導に当たってこられました。ダンスの世界の人脈も広くていらっしゃいますので、面白いエピソードなども紹介していただきたいと思います。

石田美佐緒さんは、横浜のダンスのナンバーワンだった石田千春氏の奥様でいらっしゃいます。千春氏は、戦前から戦後にかけて、幾多の名選手を育てられました。

杉浦清さんは月刊雑誌『ダンスビュウ』を出版しているモダン出版株式会社の取締役で、ダンスの歴史と人脈に非常にお詳しいと伺っております。


正式な舞踏会は鹿鳴館が最初

藤田 もりたさんが『ラストダンス』を書くうえで調べられたことによると社交ダンスは横浜の居留地から全国に広まったということですが、横浜とダンスの関わりについてお願いします。

もりた
座談会出席者
左から杉浦清氏・石田美佐緒さん・
もりたなるお氏・堀英夫氏・藤田昌司氏
ダンスの小説を前から書こうとは思っていたんですが、二・二六事件の小説を書いているときに、戦前、赤坂の溜池にあったダンスホールのフロリダが出てきました。フロリダは総理大臣官邸の下にあって、総理大臣が襲撃されたときに、官邸の地下室からフロリダへ行く通路があったという説があります。それで調べてみたら、フロリダは鹿鳴館の後身なんです。鹿鳴館は明治二十七年に華族会が買い取って華族会館になりますが、フロリダは開館して最初の半年ぐらいは鹿鳴館という名前だったんです。

二・二六事件で、どうしてフロリダに関心を持ったかというと、二・二六事件のときの青年将校がフロリダの常連で、いつも仕立てのマントを着て、裏地の赤い羅紗をターンをするときにピュッと見せる。その粋ですね。

私もダンスを少しやったことがあるので、ダンスの小説をあちこちに書いていましたが、もう一度調べ直すと、ダンスは外国から入ってきたものですから、やっぱり横浜なんですね。

 

  日本人が最初にダンスに接したのは幕末の遣米使節

もりた 僕が調べたのですと、日米修好通商条約が結ばれて安政六年(一八五九)に外国人が日本に来た。三年後の文久二年に、横浜の港崎(みよざき)町(現在の横浜スタジアム辺)で、渡来した居留民が踊っているダンスを玉蘭斎貞秀が木版画で描いています。社交ダンスというより、多分スケアダンスみたいなものだった。面白いのは、バンドというかミュージックが鳴り物なんですね。笛と太鼓。明治になってからも鳴り物で。

藤田 バンドはなかったわけですね。

もりた ええ。笛と太鼓で踊り、その後に軍楽隊がダンス音楽を奏でるわけです。

男女が組み合ってやるようになったのは明治になってからでしょう。パートナーは遊女です。岩亀楼(がんきろう)の遊女の喜遊のように当時の女性は、外国人と接するのを嫌って自害するくらいで、みんないやがったんです。ダンスというと鹿鳴館とか浜離宮と言われますが、やっぱり横浜がルーツなんです。というのは、開国後、外国人が一番最初にきた土地だったからでしょう。

藤田 そのころは今のような社交ダンスのスタイルではなく、四人とか六人とかで踊ったわけですね。

もりた そうです。それでも日本人はびっくりしたみたいです。

藤田 カドリールとかですか。

杉浦 宮廷舞踏の一種で、ウインナワルツみたいなもので輪になって踊る。

もりた 日本人が一番最初に正式なダンスに接したのは幕末の遣米使節ですね。

杉浦 日米修好通商条約の批准書を持っていった米国でということになっています。

 

  不平等条約の撤廃が目的だった鹿鳴館の舞踏会

藤田 そのころは居留地にもホールというのはなかったんでしょうね。

杉浦
鹿鳴館
鹿鳴館(横浜開港資料館蔵)
ホールはないけど、領事館がすでにあった。領事館で夜会が始まったという話です。そのときに最初はもちろんダンスはないんですね。音楽だけで、みんなで食事をしたり、談笑したりする中で洋楽が入ってきたわけです。

藤田 領事館にちょっとしたホールがあって、そこで踊っていたんでしょうね。幕末の頃は女性で来ているのは、せいぜい宣教師とか、あとは貿易商の男性とか軍人ですから、正式に舞踏会ができるのは、ちょっと後でしょうね。

杉浦 正式な舞踏会は、やはり鹿鳴館ですね。明治十六年になってから。それ以前にも三井銀行の社友倶楽部で一応始まっていますが、いわゆる舞踏会ではない。どちらかというと夜会というべきものでした。

藤田 鹿鳴館は西欧文明に追いつこうとして建てられましたが、外交的な儀礼として必要なので社交ダンスをやるようになったのですね。

杉浦 そうですね。もともと日米修好通商条約は不平等条約だったから、当時の井上馨外務大臣がそれを平等条約に切りかえようと、伊藤博文首相と共に、欧米人と交渉しなければならない。その交渉のテーブルにつくには、まず文化を共有しなければということで、鹿鳴館が開館された。政治目的だったわけです。

藤田 そうすると、女性のダンサーはどういう人が…。

杉浦 宣教師とか外交官は家族で赴任している場合があるし、津田塾の創立者・津田梅子や当時、外国に留学経験のある十人ぐらいの女性が全部招集されて、お相手をさせられたといいます。

井上馨が音頭を取ったんですが、不平等条約は解消されず、結局、鹿鳴館はつぶされていく。結果を出せなかった。伊藤博文が女性とスキャンダルを起こしたらしくて、明治二十年に『東京日々新聞』がそれをつつくんですね。

もりた 相手は戸田という伯爵夫人ですが、博文が美酒に酔って、いい音楽を聞いて勘違いして飛びついたという説がある。



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