Web版 有鄰

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有鄰
(題字は、武者小路実篤)

有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成17年8月10日  第453号  P1

○座談会 P1   ドン・ブラウンと昭和の日本 (1) (2) (3)
山極晃/天川晃/北河賢三/中武香奈美/松信裕
○特集 P4   野口英世と横浜検疫所  星亮一
○人と作品 P5   藤原伊織と『シリウスの道』



座談会


コレクションで見るアメリカの戦時・占領政策
ドン・ブラウンと昭和の日本 (1)

横浜市立大学名誉教授 山極晃
放送大学教授 天川晃
早稲田大学教授 北河賢三
横浜開港資料館調査研究員 中武香奈美
 有隣堂社長 松信裕

 

中武香奈美さん 天川晃氏 山極晃氏 北河賢三氏 松信裕
左から、中武香奈美さん、天川晃氏、山極晃氏、北河賢三氏と松信裕

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*印のある写真は、すべて横浜開港資料館蔵 ドン・ブラウン・コレクションから〜
 

    はじめに
 
松信  
  ケア物資の図書を国会図書館へ贈呈するブラウン(右端)
  ケア物資の図書を国会図書館へ贈呈するブラウン(右端) 1949年11月30日 * (中央は金森徳次郎国会図書館長)
 

横浜開港資料館の個人コレクションの一つに「ドン・ブラウン・コレクション」があります。 約1万点にのぼる日本関係図書や戦時中の対日宣伝ビラ、占領軍の内部文書などが収められております。 旧所蔵者のドン・ブラウンは1930年に来日したジャーナリストで、戦後は、連合国総司令部(GHQ)の一員として再来日し、対日メディア政策に深く関わりました。

今年は終戦60年という節目の年に当たりますが、昭和20年は戦後の日本の歩みを大きく左右した「日本占領」が始まった年でもあります。 そこで本日は、ドン・ブラウンの足跡をご紹介いただきながらコレクションの概要や、アメリカの戦時・占領政策などについてうかがいたいと思います。

ご出席いただきました山極晃先生は、国際政治史をご専攻でいらっしゃいます。 第二次世界大戦中にアメリカが原子爆弾製造のため行なったマンハッタン計画や、戦中・戦後の米中関係などを研究していらっしゃいます。

天川晃先生は政治学および占領期の政治過程がご専門で、『神奈川県史』や『横浜市史II』では占領期を担当され、『GHQ 日本占領史』の編纂にも携わっていらっしゃいます。

北河賢三先生は、日本近現代史をご専攻で、戦時下の地方の文化活動を調査され、言論統制が行なわれていた時代の知識人のあり方なども研究されていらっしゃいます。

中武香奈美さんは、横浜開港資料館で対外関係史を専門とされております。 同館で8月3日から開催されている「ドン・ブラウンと戦後の日本」展を担当されていらっしゃいます。

また、皆さまには、時期を同じくして有隣堂から刊行します『ドン・ブラウンと昭和の日本—コレクションで見る戦時・占領政策』(ジャンプ詳細)の編集もお願いしております。
 


  ◇英字紙の記者となり、50年にわたって日本と関わる
 
松信  

まずドン・ブラウンの経歴をご紹介いただけますか。
 

中武  

一般には全く知られていないドン・ブラウンですが、1905年にアメリカのオハイオ州に生まれ、アメリカ東部にあるピッツバーグ大学に学びます。 その後、昭和5年(1930年)、25歳のときに初来日をしました。 来日の目的は、イギリス留学の途中で日本に寄ったと述べていますが、はっきりしたことはわかりません。

  東京・丸の内 1930年代
  東京・丸の内 1930年代 *
 

彼は、『ジャパン・アドヴァタイザー』という、当時は極東で一番有名だった東京の英字新聞社に入社して、帰国するまでの10年間を、国際ジャーナリストとして過ごします。 1940年10月に『ジャパン・アドヴァタイザー』が、日本外務省寄りの『ジャパン・タイムズ』に買収されると、ブラウンは間もなくアメリカに帰ります。

そして、41年に日米開戦になる。 帰国したブラウンは42年にアメリカ政府の情報機関である戦時情報局(OWI)に入り、主に日本に対する宣伝ビラの作成に携わります。

戦後は、早くも45年12月にGHQの一員として再来日し、民間情報教育局(CIE)で、占領終了の52年まで、情報課長としての重責を担いました。 その後、アメリカ極東軍司令部に移り、退職後も日本にとどまります。

また仕事以外でも日本との関わりを深めました。 外国人を中心とする民間の日本研究団体である日本アジア協会に1947年の活動再開時から関わり、亡くなるまで紀要の編集に携わっています。 日本アジア協会は明治5年に横浜で設立され、初期の会員にはイギリス人外交官で日本学者のアーネスト・サトウやB・H・チェンバレンらが名を連ねる由緒ある団体です。
 


   膨大な収集資料を遺産管財人を通じて譲り受ける
 
松信  

彼のコレクションはどのようないきさつで開港資料館に収蔵されたのですか。
 

中武  

1980年5月にブラウンは74歳で名古屋で亡くなります。 家族がいなかったので、図書1万点と新聞・雑誌、文書類を、遺産管財人のブレイクモアという弁護士を通じて譲り受けました。 この人もGHQの一員だった人です。

横浜開港資料館は81年に開館しますが、その準備段階で最初に収集したのがブルーム・コレクションで、その旧蔵者のポール・C・ブルームさんが、自分の古い友人であるブラウンのコレクションを「自分のコレクションよりは落ちるけれども、日本関係の新聞、雑誌はとてもいいものがある。」と教えて下さったと聞いています。

ただ、コレクションの大半が1930年代から占領・戦後期にかけての資料で、専門スタッフがおりませんでしたので、なかなか整理がつきませんでした。 でも、貴重だというのはわかっておりましたので、横浜国際関係史研究会にその研究をお願いすることになりました。
 

北河  

私たちがドン・ブラウンにかかわったのは、99年度からです。 ブラウン・コレクションは、新聞・雑誌については整理がほぼ済んでいたのですが、それ以外の文書類について、内容が、ブラウン自身が活躍した同時代の資料なので、その検討を本格的に始める必要があるという趣旨で、横浜開港資料館から、私たち横浜国際関係史研究会(通称ドン・ブラウン研究会)が研究委託を受けました。 それ以後、今日の3人のほか、赤澤史朗、今井清一、枝松栄、大西比呂志、吉良芳恵、寺嵜弘康、山本礼子の10人のメンバーで、ことしの3月まで調査研究を重ねてきました。 また、担当の中武さんの協力もえました。

研究会では、日記、書簡、ビラ、写真等の検討を進め、あわせてブラウンと直接かかわりのある事柄やブラウンが所属した組織、関係のある人物について調査をしました。

アメリカではナショナル・アーカイブス(国立公文書館)ほか、いくつかの大学と、国内の各関係機関を中心に調査を進め、関係者へのインタビューもおこないました。 そこでは、これまでのブラウン像とはやや違った印象もありました。
 


   日本の英字紙記者と外国の新聞の特派員を兼ねる
 
松信  

最初の来日では、新聞社に勤めたんですね。
 

天川  

彼の仕事は、記事を書くことが中心だったと思いますが、署名記事ではないので、どんな記事を書いたのかはわからないんです。

後年、『ジャパン・アドヴァタイザー』にいたジョセフ・ニューマンという人が書いた『グッバイ・ジャパン』という本には、ブラウンは編集長みたいに書かれています。 当時『ジャパン・アドヴァタイザー』の経営者であり編集長だったウィルフレッド・フライシャーの代理的なこともやっていたんじゃないかと思われます。 いずれにしても、比較的若手の記者として活動していたんでしょう。
 

中武  

『ジャパン・アドヴァタイザー』は、1890年に横浜で始まった英字紙ですが、経営が危なくなったときに、アメリカ人のベンジャミン・フライシャーが買い取り、大きな新聞社に育て上げたんです。

その息子がウィルフレッド・フライシャーで、この当時、編集長をしていました。
 

天川  

当時『ジャパン・アドヴァタイザー』に記事を書いていた記者たちは、同時に外国の新聞の特派員もやっていたんです。 ブラウンも、『クリスチャン・サイエンス・モニター』と『シカゴ・デイリー・ニューズ』の特派員でもありました。

ウィルフレッド・フライシャーは『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』、編集長のヒュー・バイアスは『ニューヨーク・タイムズ』の特派員をやっており、日本で記事を書くだけでなく外国へも情報を送るという、二重の看板を持って活動をしていたようです。
 

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