Web版 有鄰

  『有鄰』最新号(P1) 『有鄰』バックナンバーインデックス 『有鄰』のご紹介(有隣堂出版目録)


有鄰
(題字は、武者小路実篤)

有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成17年11月10日  第456号  P1

○座談会 P1   長崎源之助の児童文学 (1) (2) (3)
長崎源之助/小西正保/松信裕
○特集 P4   よこはまゴルフことはじめ  平野正裕
○人と作品 P5   奥泉光と『モーダルな事象』



座談会


戦争の虚しさを描く
長崎源之助の児童文学 (1)


児童文学作家 長崎源之助
児童文学評論家 小西正保
 有隣堂社長 松信裕


松信裕 長崎源之助氏 小西正保氏
右から、小西正保氏、長崎源之助氏と松信裕

<画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。>

    はじめに
 
松信  

ことしは戦後60年目に当たり、戦争を知らない世代が増えるとともに、戦争の記憶も徐々に薄れていくように思われます。

児童文学界の重鎮として、今なお精力的に創作活動を続けておられる長崎源之助先生は、その戦争の悲惨さを今の子どもたちに伝えたい、忘れてはいけないと、兵士としてのご自身の体験や、庶民の戦争体験をもとに、戦争の時代を生きた人々や、その時代の子どもたちを一貫して描き続けてこられました。 その中には、横浜で生まれ育たれた先生の子ども時代の遊びや、下町の情景を描いたもの、横浜を舞台にしたものも多く、これまでに書かれた作品は100冊以上に上っています。

  長崎源之助氏が主催する「豆の木文庫」の看板
  長崎源之助氏が主催する
「豆の木文庫」の看板
 

また、昭和45年から、ご自宅を開放して「豆の木文庫」を開設され、地域の子どもたちに深い愛情を注いでおられます。

そこで本日は、長崎源之助先生と、児童文学の出版に長年携わってこられた小西正保様にご出席いただき、長崎先生の作品への思いや児童文学作家になられたきっかけ、横浜への思い・愛着などを伺いながら、作品の魅力についてご紹介いただければと存じます。

小西正保様は、子どもの本の出版社として知られる岩崎書店で、長崎先生の作品をはじめ、数多くの児童書の編集を手がけられ、同社社長、会長を歴任されました。 また、「石井桃子論」によって、日本児童文学者協会新人賞を受賞されるなど、児童文学評論家として活躍されていらっしゃいます。
 


  ◇昭和初期の横浜下町の子どもたち
 
松信  

長崎先生は横浜生まれ、横浜育ちで、現在もそこにお住まいです。 100冊以上の作品の中の9割ぐらいが、横浜を舞台にしたもので、『ヒョコタンの山羊』や、『向こう横町のおいなりさん』『トンネル山の子どもたち』などに、先生が子どものころの横浜の下町の情景が描かれていますね。
 

『ヒョコタンの山羊』 理論社 『トンネル山の子どもたち』 偕成社 『向こう横町のおいなりさん』 偕成社
『ヒョコタンの山羊』
理論社
『トンネル山の子どもたち』
偕成社
『向こう横町のおいなりさん』
偕成社

長崎  

私の生まれ育った場所は、横浜と言っても当時は端っこの井土ケ谷[いどがや](南区)という所です。 私が子どもだったころ、昭和の初めですが、うちの隣が屠殺場で、周りには養豚業者が大勢いて、豚小屋がいっぱい並んでいましたから、いつも豚の鳴き声や臭いがあふれていました。 牛馬も飼っていたりして、家畜と隣合わせの生活でしたね。

屠殺場の裏には原っぱがあって池があって、そこでよく遊びました。 近くのお稲荷さんの境内も遊び場でした。 お稲荷さんの境内には、よく紙芝居屋さんがきたり、べっこう飴やしんこ細工のお菓子を売りにきたりしていました。
 

小西  

『向こう横町のおいなりさん』に当時の子どもの遊びが出てきますね。
 

長崎  

一番愛着のある、好きな作品なんです。
 

小西  

『ヒョコタンの山羊』に、「ぼくの町には、ちゃんと清水谷というりっぱな名まえがあります。 それなのに、よそのもんはブタ谷といいます。」とありますが、そっくりですね。
 

長崎  

あの舞台はほとんど井土ケ谷です。
 

松信  

ヒョコタンというあだ名の、足の悪い男の子がいて、大好きなキンサンという朝鮮人のお兄さんにもらった一匹の山羊を飼っていた。
 

長崎  

ヒョコタンは創造の人物で、屠殺場を中心にした子どもたちの遊びや、朝鮮人のキンサンが軍隊での差別に耐えかねて脱走する事件がからんだ話です。

井土ケ谷というのは変な町で、養豚場があるもう一方には花街があったんです。 肉を売買するときに、お酒を一杯やったり、お客さんを招待したりするためだったんですね。
 

松信  

今も町に面影は残っているんですか。
 

長崎  

屠殺場は、東洋一大きいと言われたそうですが、今はマンションが建っていて面影は全然ないですね。
 

小西  

当時、朝鮮の人が随分いらしたんですか。
 

長崎  

大勢いましたね。 ボクサンとか、キンサンとか。 『ヒョコタンの山羊』もそうですが、『あほうの星』にも朝鮮人が出てきます。 日本人になるべく、日本人として生活するために、わざわざ兵隊に志願していった人もいる。
 

小西  

『ヒョコタンの山羊』のキンサンも、朝鮮人とバカにされている両親のために日本人として軍隊に志願する。 でも、そこでも同じように日本人から差別され、暴行を受けつづけて、ついに脱走してしまう。 時代は昭和11年ころの設定ですか。
 

長崎  

そうです。 ちょうど日中戦争が始まる直前です。
 


   家業の左官を継ぐつもりで浅野中学へ
 
松信  

昭和11年に井土ケ谷尋常小学校を卒業され、浅野綜合中学(現・浅野高校)に入学される。
 

長崎  

おやじが左官だったので、当然、家業を継ぐつもりだった。 それで、浅野セメントの浅野総一郎が創立した浅野中学を選んだんです。 当時、コンクリート科というのがあったんです。 病気しなかったら継いでましたね。
 

松信  

昭和16年に太平洋戦争が勃発しますが、そのころ体を悪くされたのですね。
 

長崎  

体が弱いのに、くそまじめというか、無遅刻無欠席で通っていたのが、4年の終了式が終わった途端に病気になって3か月間入院しました。 その後、復学したんですが、軍事教練が過酷で、みんなが演習をしている間、病気で見学していても、気を付けをしてずっと立っていなければいけない。 それが辛くて学校をやめちゃったんです。
 

小西  

そのころにいろいろな本を読まれたんですね。
 

長崎  

うちの左官屋には、住み込みの小僧さんが数人いたんですが、入院したときに小僧の喜ちゃんが文庫本をお見舞いに持ってきてくれた。

当時は文庫と言ったら岩波文庫だったんです。 安いし軽いし、病人が読むには適当だと思って、自分は本屋になんか行ったことないのに、有隣堂に行って「岩波文庫を下さい。」と言ったんだって。 「岩波文庫と言ってもたくさんあるんですよ。 どれでしょう。」と店員さんに言われ、棚を見てびっくりした。 それで「中学生が読むようなのをみつくろっておくれ。」と言ったら、『クオレ』と『あしながおじさん』を選んでくれたんだそうです。 病気のおかげで文学の楽しみを知ったんです。
 


  ◇軍隊での体験をもとにしたあほうの星
 
松信  

ご病気をされたのに、20歳で召集されるんですね。
 

長崎  

召集というか、現役です。 20歳で兵隊検査を受けるんです。 昭和19年12月1日でした。 そこで、「おまえ、病気をしたことがあるか。」と聞かれ、「ありませんっ!」と答えたら合格になっちゃった。 胸なんか洗濯板みたいにあばら骨が浮き出てて、一目で病人だとわかるのにね。
 

小西  

兵隊が足りなくなっていたから、多少体が弱くても、みんな取られたんですね。
 

長崎  

隣町に俳人の大野林火さんが住んでいて、友だちと句会へ行ってたんですが、入隊のとき、先生が送別句会を催して下さった。 そのときの句は忘れましたが、下関で船に乗るときに「しかとにぎる銃のつめたさや祖国去る」という句をつくりました。
 


    陸軍二等兵として中国・山東省に派遣される
 
長崎  

陸軍二等兵として川崎の溝ノ口に入隊し、1週間後に華北へ派遣されました。 下関まで列車で行き、関釜[かんぷ]連絡船で釜山に上陸して、そこから貨車につめこまれた。 窓のない牛馬を運ぶような列車で、寝ワラなんかがあるだけでした。

配属されたのは虚弱な兵隊を集めた特別訓練隊で、山東省の泰山という山の中腹の、天外村という所でした。
 

小西  

そこで戦闘を体験されたんですか。
 

長崎  

そこでは戦闘はなかったんです。 戦争の体験は敗戦してからで、中国の蒋介石政府(国民政府軍)の捕虜という名目で、そのまま中共軍(八路軍)の警備につかされたんですが、中共軍が武器を目当てに攻めてきて、うちの中隊は降参したんです。
 

小西  

八路軍はゲリラみたいなものですからね。
 

長崎  

それで翌年、武装解除されて、半年の収容所生活の後、日本に帰れたんです。
 


   戦場の中でもがき、悩む二等兵たちの物語
 
小西  

そのときの体験がそっくり『あほうの星』に生かされているわけですね。

『あほうの星』は、「八つぁん」「ハエ」「ハトの笛」からなる短編集で、いずれも中国に配属された二等兵を主人公にした物語です。

二等兵の「私」は軍隊に入ったとたん、バカで、のろまで、意気地なしになり、班長の村にいる「八ッつぁん」という愚かな男に似ていると、軽蔑を込めて「八つぁん」とよばれ、「あほう」扱いされるうちに、自信も気力も失くして、「八ッつぁん」そっくりの男に変わっていく。 その班長が復員途中、匪賊に殺されてしまい、「私」は遺品を班長の家に届ける……というのが「八つぁん」ですが、モデルがいたんですか。
 

『あほうの星』 理論社
『あほうの星』
理論社
長崎  

八つぁんは創作ですが、僕の戦友に一人、バカでないのにバカのふりをしていたのがいて、おまえはバカだから戦争に行かなくてもいいと言われた。
 

小西  

「ハトの笛」の上田二等兵に似ていますね。 みずからバカ、のろま、あほうを演技して生き延びようとするけれど、祖国を前に病気で死んでしまう。

ハエが伝染病の媒介をするのを恐れた隊長にハエとり競争をさせられる「ハエ」という話は……。
 

長崎  

ハエとり競争はほんとの体験なんです。 ばかばかしい話ですよ。 私たち初年兵は、1日50匹取れなかったときのビンタが強烈でこわかったので、必死でハエを追い回した。

私は中国に行って何をしたかというと、ハエを何100匹か殺しただけなんです。 鉄砲も一回も撃ったことがないし、撃たれたこともない。 ハエを盗もうとして撃たれて死んだ小川二等兵というのはフィクションですが。
 


   兵隊の体験は人生で一番強烈な出来事
 
小西  

『あほうの星』の「はじめに」に、「ここにおさめた三つの作品は、どれも、おろかな男の物語です。 (中略)三つとも、戦場の中での、無力な人間の生き方を描いてみました。」、「この『あほうの星』は、ぼくの『ああ、おれは兵隊だった』物語です。 三つの話の主人公たちは、あの戦争の中で、もがき、なやみ、そして、かすかな夢(希望)にすがりついていた、ぼくの心の擬人化といっていいでしょう。」と書かれていますね。 ほかにも、「自分の文学の原点は戦争にある」と、随分書かれている。
 

長崎  

兵隊の体験は、僕の人生で一番強烈な出来事でした。 だから、人生とか生き方を考えるとき、戦争をとおして考えてしまうんです。 あの戦争は何だったのか。 あのとき自分はどう生きたか、どう生きねばならなかったかと。

あるとき、「長崎さんは戦争児童文学を専門に書こうと思っているんですか。」と言われて、考えてみたら、それまで戦争児童文学を書こうと意識したことはなくて、ただ書きたいものを書いたら、自分の戦争体験を背景にしていたことに気がついたんです。
 

小西  

そんなに意識的ではなかったわけですね。
 

長崎  

ええ。 でもそれからは意識的に戦争を子どもたちに伝えたいと思って書き出したんです。
 


   戦死はムダな死と伝えたかった『忘れられた島へ』
 
松信  

先生は、鉄砲を撃ったことがないとおっしゃいましたが、それでも、戦争がいかに悲惨で、人の死がいかに理不尽なものであるかということを感じられた。
 

小西  

『忘れられた島へ』という作品のことを話された講演会で、「戦死はムダな死でした。 犬死でした。 そのことが、この作品でわかっていただければ。」と結んで壇をおりられたそうですね。 公の席ではなかなか言えないことだと思うんですよ。
 

『忘れられた島へ』 偕成社
『忘れられた島へ』
偕成社
松信  

昭和55年に野間児童文芸賞を受賞された作品ですね。
 

長崎  

はい。 これは、母に「お父さんは特攻隊員として敵艦に体当たりして、立派に戦死した」と言われ続けて育った息子が、成人して、父の衣服の切れ端が流れついたという黒島を訪れ、父は鹿児島の基地に戻ろうとして、その島の上空を飛んで墜落したことを知る。 それで、父は、特攻隊員としての規律を破ってまでも家族のもとに帰りたかったに違いないと信じる、という物語です。
 

松信  

心の中ではそう思っていても、なかなか言えませんよね。 言うことが大事なんでしょうが。
 

長崎  

名誉の戦死なんてあり得ない。
 

小西  

ほんとにそうだと思います。 当時、私は子どもでわからなかったけれど、いやだと思いながら戦争に行ったんだと思うんです。
 


   佐世保に復員して知った横浜大空襲
 
松信  

昭和21年2月に佐世保に復員されて、しばらく長崎におられたんですね。
 

長崎  

泰山から青島まで、雪の中を400km歩いたことは、忘れられないつらい体験でしたが、それで痔を悪くしたんです。 佐世保の引揚援護局に1週間ほどいる間に横浜大空襲のことを知ったので、軍隊にいるうちに治して、健康になって横浜に帰ろうと思ったんです。 うちでは心配していたのにね。 それで大村の海軍病院(現・国立長崎病院)に入院したんです。
 

小西  

広島、長崎の原爆の情報は入っていたんですか。
 

長崎  

原爆ということではなくて、大型特殊爆弾が落とされたという話は中国にいるときに聞いてました。
 

小西  

その病院に被爆した子どもがいっぱい入院していたわけですか。
 

長崎  

そうなんです。 あの子たちのことを思うと胸が痛みますね。
 

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