Web版 有鄰

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有鄰

平成17年11月10日  第456号  P2

○座談会 P1   長崎源之助の児童文学 (1) (2) (3)
長崎源之助/小西正保/松信裕
○特集 P4   よこはまゴルフことはじめ  平野正裕
○人と作品 P5   奥泉光と『モーダルな事象』



座談会


戦争の虚しさを描く
長崎源之助の児童文学 (2)


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  ◇復員後『童話』に出会い、童話を書き始める
 
松信  

横浜へ戻られたのはいつですか。
 

長崎  

昭和21年の3月の末です。
 

小西   横浜は5月29日の大空襲で市街地のほとんどが焼けてしまいましたが、ご自宅はどうだったんですか。
 
長崎  

  やまびこ子供会(昭和24年4月27日)  後藤楢根氏、倉澤栄吉氏、(前列右から)を迎えて。 後列左端・佐藤さとる氏、中列右端・長崎源之助氏
  やまびこ子供会(昭和24年4月27日)
  後藤楢根氏、倉澤栄吉氏、(前列右から)を迎えて。 後列左端・佐藤さとる氏、中列右端・長崎源之助氏
  <資料写真は長崎源之助氏提供>

井土ケ谷は半分焼けましたが、うちは幸いに残っていました。 横浜一の繁華街だった伊勢佐木町をはじめ、市の中心部の大部分は焼けて、その後は米軍に接収されてしまった。

それで野毛が日本人の町で、そこに、板子一枚の上に本を並べている本屋があって、ポルノ雑誌が1冊ずつ並べてあった。 その極彩色のポルノ雑誌の中に1冊だけ、日本童話会の後藤楢根[ごとうならね]さんがつくった『童話』の創刊号があったんです。 坪田譲治[つぼたじょうじ]とか、波多野完治[はたのかんじ]とか、滑川道夫[なめかわみちお]とか、僕でも知っている名前が並んでいた。 そういう人が書いている雑誌だから早速買ったんです。 そして、それを見て初めて、童話を書こうと思ったんです。 それが昭和21年です。
 

小西  

それで日本童話会にお入りになった。
 

長崎  

はい。 佐藤さとる君も、同じ『童話』を銀座で見つけて買って、彼はすぐ投稿している。 5号に『大男と小男』というのが積木築[つみききずく]というペンネームで載っている。 僕は「そかい」という詩が6号に載ったんです。 それがうれしくてね。
 

松信  

佐藤さとるさんとは長いお付き合いですね。
 

長崎  

昭和22年に地元の小学校の先生と「やまびこ子供会」をつくったんですが、その集いに彼が参加した。 それが初対面でした。
 


   商売よりも童話のことで頭の中がいっぱいに
 
松信  

童話を書こうと思われてから、児童文学に専念されるまで、いくつかお仕事を変わられたそうですね。
 

長崎  

精米業、古本屋、文房具店、化粧品店、写真屋、日用雑貨店……。
 

松信  

いろいろなさったんですね。 古本屋をなさろうと思われたのはどうしてですか。
 

長崎  

「ながさき書房」は、古本屋をやっていた友だちにすすめられて始めたんですが、新刊本が余り出ないし、古本のほうがいい本が多かったんです。 戦後すぐは、ほんとにざら紙みたいなものに印刷してましたね。
 

松信  

古本屋さんは儲かりましたか。
 

長崎  

いや、儲からない。 これは素人がやるものじゃないです。 古本屋は競り市で本を仕入れるんです。
 

松信  

横浜駅の西口のあたりにあったそうですね。
 

長崎  

そうなんです。 当時の西口は石炭置き場や製材工場が掘割の岸にあっただけのうら寂しい所でね。

ふり手といわれる親父が、10冊とか20冊とか同じ系統の本を重ねて、「さあ、いくら」と言って競るんです。 でも激しい競りの中で声を出すのは難しくてね。 「あっ、あっ」といってるうちにほかの人に競り落とされてしまう。
 

小西  

古本屋もそうですが先生は商人には向かなかった(笑)。 頭の中は童話を書くことばかりで、どれも商売に身が入らなかったんじゃないですか。
 

長崎  

そうですね。
 


   昭和25年同人誌『豆の木』を創刊
 
小西   平塚武二さんに会われたのはいつ頃ですか。
 
『豆の木』創刊号(復刻版) (昭和25年3月19日発行)  表紙挿絵・池田仙三郎
『豆の木』創刊号(復刻版)
(昭和25年3月19日発行)
表紙挿絵・池田仙三郎
<資料写真は長崎源之助氏提供>
長崎   日本童話会で佐藤さとる君とか何人かで研究会をやっていたんです。 その研究会で「平塚武二論」をやることになって、佐藤さとる君と一緒に磯子の間坂にある平塚さんのお宅を訪ねたんです。 昭和24年です。 それで翌年、平塚さんのすすめで同人誌の『豆の木』を、佐藤さとる、神戸淳吉、いぬいとみこの4人でつくった。 ですから4人とも一応、平塚さんの弟子になったわけです。
 
松信   同人誌の『豆の木』はどうやってつくっておられたのですか。
 
長崎   大抵うちの店のすみで編集会議をやったんです。 佐藤君は戸塚ですし、いぬいさんも神戸さんも東京から来た。 幸か不幸か、うちの店はあんまりはやらなかったから(笑)、昼間やってました。
 
松信   それは何屋さんのころですか。
 
長崎   「ながさき文具店」のころです。 同人に謄写版屋さんがいて、ただでやってくれた。 それを佐藤君が講談社に送ったんです。
 
小西   やっぱり商売には身が入っていない。 『豆の木』という名前は平塚さんがおつけになったんでしょう。
 
長崎   ええ。 豆の木とでもつければと口からでまかせに言ったんです(笑)。 それで創刊号にお祝いの言葉をもらえと言うので、児童文学作家全部に葉書を出したら、ほとんどの人がくれた。 北畠八穂さんは「豆の木豆の木づうっとのびろカラスつゝいたらなおのびろ……」という歌をくれました。
 

  ◇厳しかった文学の師・平塚武二
 
松信   平塚先生の添削は厳しかったそうですね。
 
平塚武二(昭和23年頃) 撮影:山本静夫
平塚武二(昭和23年頃)
撮影:山本静夫
<資料写真は長崎源之助氏提供>
長崎  

ええ。 添削と言っても「削」だけなんです。 「添」はない。(笑)

最初から、「ここは一行要らないよ」と言って、「その次もむだだね」「こっちも削ったほうがいい」……と。 そうすると、一枚がほとんどなくなっちゃう。 それで、「おまえ、これつまらなかったよ」って(笑)。

毎回そんなふうに言われるから、原稿を見せるのをやめちゃうと、「書いていますか。 書いたら見せてください」なんて言うんです。 それもすごく丁寧な言葉で、「元気ですか。」のかわりに「書いていますか。」と。 何度も言われるので、いやいや持っていくと、また同じことの繰り返しなんです。 佐藤さとる君も、いぬいとみこさんも、みんな同じ目にあっています。
 

小西   それがまさに平塚流ですね。 平塚さんは鈴木三重吉の『赤い鳥』出身ですが、鈴木三重吉という人も、原稿の添削はものすごかったらしいですから、それが平塚武二に伝わって、先生の所までおりてきたんですね。
 

   わがままで風変わりだけれど憎めない人
 
長崎  

平塚さんは変な人で「おまえ、幾らか持っていたら貸してくれないか。」と言うので貸すでしょう。 「先生、この間お貸ししたお金は返していただけますか。」と言ったら、「あれはくれたんじゃないのか。」って。

それから「今度結婚するので、前ご用立てしたお金を返していただけませんか。」とおそるおそる言うと、「えー、おまえ結婚するのか。 いつ、結婚式は?」と。 でも返してくれない。 それで、結婚式場で、「やあ、おめでとう。 これ、この前借りていた金だ。」って、むき出しで金を返してくれる。 「それから、こっちはきょうのお祝いだ。」って。 大勢いる前でやるんです。
 

小西  

夜中にタクシー代を払わせられたとか。
 

長崎  

結婚してすぐの、写真屋をやってたころです。 店を閉めたあと、雨戸をドンドンたたく音がするんです。 急いであけると、平塚さんが立っていて、「奥さん、早くタクシー代払ってきて、早く。」といって、東京から乗ってきたタクシーを待たせてあるんです(笑)。 それで、急いで買いに行ったお酒を、「奥さん、そういっちゃなんだけど源之助は文章が下手でね。 なんで、こう下手なんだろう。」なんて僕の悪口をサカナに飲んでるんですよ。 挙げ句の果てに、家まで帰るタクシー代まで借りていっちゃう。
 

小西  

昭和39年に横浜文化賞をもらわれたときも、賞金はすぐに飲んでしまったのに、それでヨーロッパに行くからと言って、みんなからお餞別を集めて、しばらくどこかに隠れていた。
 

長崎  

あのときは僕も本気にしちゃって。 能因法師よろしく、しばらく人前に出てこなかったんです。 それでヨーロッパに行ったふりをして、どこどこの空港で食ったホットドッグがうまかったとか。
 

小西  

私は岩崎書店で「日本の幼年童話」シリーズをつくっていたとき、平塚さんに何回かお会いしてるんです。

今でもありありと覚えていますが、喫茶店で待ち合わせをしたら、開口一番、「僕は出版社と契約したら、印税は前払いしてもらうことに決めてるんだ。」と大きな声で言われるんですよ。(笑)

「うちは本ができてからお支払いすることになっていますので。」と言うと、「俺はそういうのはだめなんだ。」と言われて、それで、翌月あたりにいくらかお送りしたんですが、その1か月後に平塚さんが亡くなられた。
 

長崎  

亡くなられたのは昭和46年です。
 


   平塚武二の文章術を見事に引き継いだ長崎文学
 
松信  

平塚先生のことをご存じの方も少なくなってきましたが、『ヨコハマのサギ山』とか、横浜を舞台にした作品を随分書かれてますね。
 

長崎  

お父さんは平塚組という大きな土建屋さんで、横浜の中心部から元町の山手トンネルを掘って、本牧まで路面電車の線路を敷設した人です。 それで平塚さんが小学2年のころ、三渓園のそばの、海が見える大きな家に引っ越した。 平塚さんは、ばあやから「いい子ぼっちゃま」と呼ばれていたそうで、ほんとかどうか知らないけれど。(笑)

それで、ばあやが「いい子ぼっちゃま、きょうは海がきれいですよ。」なんて言う。 いい子ぼっちゃまが見ると、あるときは新しいブリキのようにかがやき、あるときはインクのように黒ずみ、と思うとガラスのかけらのみどり色に見える、というようなことが「動物のいない動物園」という作品に書いてあります。
 

小西  

平塚さんはそういうフィクションの天才だったんですね。 『玉虫厨子の物語』にしても『馬ぬすびと』にしても、フィクションですけれど、ほんとうにあったようにうまく書いてある。 そういう意味では私生活でも天才だったんでしょうね。

反発された部分もあったんでしょうけれども、平塚さんの文学を一番受け継いだのは長崎先生だと思うんです。 随分お読みになったでしょう。
 

長崎  

そうですね。 僕は平塚さんを「作家としては」尊敬していましたからね。 ほんとに立派な童話作家だと思うし、童話はすばらしい。
 

小西  

先ほどお話に出ました『トンネル山の子どもたち』を読むと、平塚さんの文章術が長崎さんに見事に受け継がれているのがよくわかりますね。
 

長崎  

あれも井土ケ谷の商店街が舞台ですが、平塚流に古い店を書こうと思った。

「がき大将のダイちゃんちは、馬力屋である。 ……ダイチャンちのとなりは、炭屋のタンちゃんちだ。 入り口の両わきにまきが山と積まれているので、……」と。
 

小西  

平塚さんの「月」は「横浜のごみごみしたまずしい町で、私は生まれた。 私の家の左どなりは炭屋、右どなりは菓子屋、前には、そば屋があった。 炭屋のとなりは紙くず屋……」。 時代は大分違いますけどね。
 

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