Web版 有鄰

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有鄰

平成17年11月10日  第456号  P4

○座談会 P1   長崎源之助の児童文学 (1) (2) (3)
長崎源之助/小西正保/松信裕
○特集 P4   よこはまゴルフことはじめ  平野正裕
○人と作品 P5   奥泉光と『モーダルな事象』



よこはまゴルフことはじめ


平野正裕
平野正裕氏
  平野正裕氏

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1903年に「神戸ゴルフクラブ」が日本で初めて設立
 
  

外国人が居留地に生活の場を限定されていた時代、国内にゴルフ場はなかった。 神戸の六甲山に日本最初のゴルフクラブ、「神戸ゴルフクラブ」(KGC)が設立されたのは1903年(明治36年)5月24日。 中心人物は、神戸・横浜で商人として活躍したイギリス人アーサー・ヘスケス・グルーム(1846−1918)。 グルームは、長男亀次郎名義で1895年(明治28年)、六甲山に住宅を建設し、その後別荘の分譲に手を染め、六甲山を一大別荘地に変えた。

神戸ゴルフクラブは、当初9ホールであった。 日本人では美術品蒐集家でも著名となる松方幸次郎(川崎造船)と弟の正男、住友吉左衛門(住友財閥)ら7人が創立メンバーとなっている。 翌25日の第1回クラブ選手権では、横浜のアダムソンと神戸のR・H・クラークが優勝。 コースは設立の翌1904年、18ホールに拡大された。

1904年(明治37年)、現在の神戸市東灘区に「横屋ゴルフ・アソシエーション」が6ホールで開設された(1913年閉鎖)。

  第1回レディース・インターポート・マッチ神戸−横浜(1916年・横浜根岸)
  第1回レディース・インターポート・マッチ神戸−横浜(1916年・横浜根岸)
『神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み』から
 

六甲、横屋に続いて、横浜の根岸競馬場コース内に「ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション」(NRCGA)が9ホールで開設されたのは1906年11月23日である。 横浜にゴルフクラブができ、神戸との東西港町のゴルフ戦、インターポート・マッチが開催される。 山あいで起伏が大きく、サンド・グリーンの六甲と、台地上の比較的フラットなグラス・グリーンの根岸とでは、コースの性格が異なった。 1907年8月4日の第1回戦は六甲に横浜を迎えて対抗戦がおこなわれ、ホームの神戸が勝利している。

インターポート・マッチは第一次大戦期の1918年と関東大震災の1923年をのぞき、判明する限りで1929年(昭和4年)まで21回、交互にコースをかえてくりひろげられたが、圧倒的にホーム側有利。 3回の引き分けをのぞき、アウェーでの勝利は1912年(大正元年)8月3日の六甲における横浜、1928年10月14日の根岸での神戸のわずか2回であった。

レディース・インターポート・マッチも、1916年(大正5年)10月14・16両日に根岸で実現し、これもまたホームの横浜が勝っている。
 

 
日本人で初めてゴルフをしたのは英国留学中の水谷叔彦
 
  

日本人で初めてゴルフクラブを握った者はだれか? 日本ゴルフ協会では、留学中の海軍幹部候補生水谷叔彦[みずたに よしひこ]が、1896年(明治29年)にイギリス最古のロイヤルブラックヒース・ゴルフクラブでプレーしたことにもとめる。

また、外国商館による居留地貿易を嫌い、ニューヨークで生糸直輸出を企てた新井領一郎も、1899年ころに、ニュージャージー州ウェストフィールド・ゴルフクラブでプレーし、ゴルフのよさを熱心に説いたとされる。 程ヶ谷カントリー倶楽部の会長になる森村市左衛門は、在米中に新井とその友人からゴルフセットをプレゼントされている。

神戸・横浜ののち、長崎県立で雲仙ゴルフリンクスができる。 日本人ゴルファーも増えて、東京でもゴルフ場を求める動きが出てくる。

1914年(大正3年)6月、横浜正金銀行総裁の井上準之助が中心となって、駒沢に、「東京ゴルフ倶楽部」(TGC)が6ホールでオープンし、次いで9ホールに拡大した。 日本人による日本人のためのゴルフコースのさきがけで、根岸を代表するプレーヤーのG・G・ブレディとF・E・コルチェスターが設計にあたった。

しかしながら、宮家や貴顕紳士が集まる駒沢コースは地主からの借地料値上げ要求に苦しんだ。 会員が増加し、会員の技術向上がみられるが、本格的なゴルフコースを獲得したくても地主は土地を売り惜しむ。 東京ゴルフ倶楽部はより郊外にゴルフ場をもとめてゆくことになる。
 

 
1922年に「程ヶ谷カントリー倶楽部」がオープン
 
  

1921年(大正10年)ころ、猟銃を肩に、草深い保土ヶ谷峰岡町の丘陵(現在の横浜国立大学所在地)をゆく若者がいた。 32歳の青年実業家、浅野良三(1889−1963)である。

浅野は浅野財閥の創始者浅野総一郎の次男で、財閥企業の東洋汽船などの役員をつとめ、横浜で革新的な映画製作に取り組む大正活映の社長でもあった。 米国ハーバート大学留学を終え帰国。 弱冠25歳で東京ゴルフ倶楽部の創立に参加した。

浅野は保土ヶ谷屈指の地主岡野欣之助の協力をうることに成功する。 「程ヶ谷カントリー倶楽部」(HCC)は翌1922年2月24日、日本工業倶楽部において東京ゴルフ倶楽部のメンバーの多くが参加して創立された。 設計は、ウォルター・G・フォバーグがアメリカから呼ばれ、前月には完了していた。

10月15日、程ヶ谷カントリー倶楽部は9ホールで開業し、翌1923年4月22日、18ホールとクラブハウスがオープンした。 同年9月の関東大震災によりクラブハウスは倒壊寸前となり、コースの被害も大きかったが、復旧の速成につとめた。
 


程ヶ谷カントリー倶楽部全景

程ヶ谷カントリー倶楽部全景
『程ヶ谷二十年』(1942年刊)から
 

日本ゴルフ史上初の「本格的」なコース
  

程ヶ谷カントリー倶楽部は日本ゴルフ史上初めての「本格的な18ホール」のコースである、とされる。 18ホールは神戸ゴルフクラブも備えていたから、「本格的」の中身が問題であろう。

神戸ゴルフクラブは1923年当時、アウトの9ホールで距離が1,640ヤード、インの9ホールで2,136ヤードで、トータル3,776ヤードであった。 対して程ヶ谷カントリー倶楽部は、1931年でアウト3,065ヤード、パー34。 イン3,105ヤード、パー35。 トータル6,170ヤードで規模の差は明らかである。 程ヶ谷カントリー倶楽部はコースの谷をまたぐ橋や、あづまやを配置して美観にすぐれ、戦後開設される7千ヤード級のコースに比較して見劣りしない「本格的」な内実を有していた。

程ヶ谷カントリー倶楽部ができ、根岸の「ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション」は関東のゴルフ場の主役から後退してゆく。

本格的なコースの出現は、それまでは外来のスポーツで「借り物」であったゴルフを日本人の手によって育てていこうとの意識を呼び覚ます。 1924年(大正13年)、東京ゴルフ倶楽部において日本ゴルフ協会(ジャパン・ゴルフ・アソシエーション=JGA)が結成され、1926年には国内のアマチュアゴルフの普及のためにナショナルハンディキャップ制度が制定される。 日本人のゴルフが世界水準をめざす、その第一歩が刻まれたのである。
 

 
世界のトップ・プロと互角に渡り合った赤星四郎・六郎兄弟
 
  
赤星六郎(左)  
赤星六郎(左)
『程ヶ谷二十年』
(1942年刊)から
 

 

程ヶ谷カントリー倶楽部は東京ゴルフ倶楽部から派生したのであるから、双方のクラブに所属するゴルファーが多く、また、東京在住者が圧倒的であった。 程ヶ谷純粋プレーヤーというのは少ない。 しかし程ヶ谷コースで輝かしい戦績をあげたプレーヤーとしてただちにあげるべきは、アマチュアでは赤星四郎(1895−1971)・六郎(1898−1944)兄弟である。

四郎はペンシルバニア大学卒のスタンダード石油社員。 六郎はプリンストン大学留学中の1924年(大正13年)3月、ノースカロライナ州パインハースト・カントリー・クラブでのスプリングトーナメントで、319人のアマチュアゴルファーを制して優勝。 当時では想像もつかないような実績をひっさげて帰国した。

四郎は、1924年11月に上海での第1回チャイナ・アマ選手権に遠征して第6位に入った。 程ヶ谷カントリー倶楽部でおこなわれた1926年(大正15年)の日本アマチュア選手権で六郎と競って優勝したのち、1928年(昭和3年)も優勝。 ほぼ毎年、予選を通過した。

六郎は、1927年の程ヶ谷カントリー倶楽部を舞台とした、第1回日本オープン選手権で優勝し、1930年の日本アマチュア選手権者となる。 「身長6尺」(約1.8メートル)の体躯において欧米人にひけをとらない赤星四郎・六郎兄弟は、日本ゴルフ協会の招きで来日した世界のトップ・プロを相手にしたマッチ・プレーで互角、あるいは互角以上に渡り合い、ゴルフ人気の拡大に多大に寄与した。
 

 
少年キャディからプロに転じた浅見緑蔵
 
  

日本ゴルフの草創期は、少年キャディからプロに転じる者が少なくなかった。 浅見緑蔵(1908−1984)は駒沢でキャディとなり、その後、程ヶ谷カントリー倶楽部に移り、1926年(大正15年)、弱冠18歳で程ヶ谷カントリー倶楽部の所属プロになった。 1931年(昭和6年)、関東プロ選手権・日本プロ選手権・日本オープンの3冠を達成。 同年、安田幸吉・宮本留吉とともに日本ゴルフ協会から派遣されて日本人プロとして初めてアメリカ大陸に遠征した。 「程ヶ谷一門」「浅見一門」と称される弟子を育て、戦後プロゴルフの礎を築いた。

程ヶ谷カントリー倶楽部は敗戦後、占領軍によって接収され、1952年(昭和27年)に解除された。 1967年には旭区上川井に赤星四郎設計の新コースを建設して移転し、現在も国内屈指の名門コースとしての歴史を刻んでいる。
 



平野正裕 (ひらのまさひろ)

1960年静岡県生れ。 横浜開港資料館調査研究員。
著書「茂木惣兵衛」−『横浜商人とその時代』所収、有隣堂(品切)ほか。
 





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