Web版 有鄰

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有鄰

平成17年12月10日  第457号(最新号)  P4

○座談会 P1   明治を読み解く —『ビジュアル・ワイド 明治時代館』刊行にちなんで (1) (2) (3)
宮地正人/清水芳郎/松信裕
○特集 P4   横浜ホテルニューグランド 初代総料理長 S・ワイル   神山典士
○人と作品 P5   今野敏と『隠蔽操作』
○有鄰らいぶらりい P5   町田康著 『東京飄然』桐野夏生著 『アンボス・ムンドス』C・R・ジェンキンス著 『告白』佐々木欽三著 『夜明け時代のTVプロデューサー』
○類書紹介 P6   「ニート・フリーター・下流社会」・・・若い世代の価値観や行動は、社会をどのように変えていくのか。



横浜ホテルニューグランド 初代総料理長 S・ワイル



神山典士
神山典士氏
  神山典士氏
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秋も深まった一日、横浜三溪園に隣接した隣花苑に遊ぶ機会があった。 友人でもあるヴァイオリニスト礒絵里子さんのコンサートが田舎家を舞台に開かれたからだ。 開演前、見事な葡萄柄の着物姿の隣花苑ご主人・西郷槇子さんが挨拶に立たれた。

「この建物は昭和5年、静岡県大仁町田京の広瀬神社の神官の家を私の曾祖父・原三溪が移築したもの。 約600年前の足利時代の建物と言われております—。」

私にとって、隣花苑を訪ねたのはこの時が初めてではない。 数年前にも友人家人と昼食を楽しんだ。 おそらくその時も、栞か何かでこの建物の由来は読んでいたはずだ。

けれど今回、横浜を舞台にした新刊『初代総料理長サリー・ワイル』を上梓したばかりの私には、改めてこの説明に感慨深いものがあった。 昭和初期の横浜。 その時代にこれだけの建物を娘のために遠く伊豆から移築した財界人・原三溪の力。 そして間違いなくこの建物の侘びた風情を愛でたであろうスイス人サリー・ワイルの存在。

今も隣花苑に伝わる三溪そばや蓮華飯を考案した稀代の食通である三溪と、当時新装なった横浜ホテルニューグランドの料理長として皇族を含めた多くのグルメを唸らせていた料理人・ワイルは、折にふれて友情を深め、この地でも遊んでいたはずだ。

—この縁台で秋の月を愛でながら、二人は何を話したのだろうか。

約75年前の交遊に思いを馳せながら、私には改めて、当時の横浜の底力を感じる一夜になった。
 

 
震災後、貿易と港の復活を賭けてニューグランドが開業
 
  

—はたしてこの町はこの壊滅から立ち直ることができるのだろうか。

大正12年9月4日、関東大震災から3日目にして滞在中の箱根の山荘からやっと横浜を見下ろす高台に帰り着いた三溪は、そう呟いたという。 9月1日午前11時58分、関東一帯を襲ったマグニチュード7.9の直下型地震は、当時「金の砂が蒔いてある」とまで言われた黄金期の港町・横浜を壊滅させた。 被害世帯95.5%、死者2万3,000人余、重軽傷者1万人余。 港町は、奇跡的に燃え残った開港記念横浜会館(現・横浜市開港記念会館)の塔だけを残して灰塵に帰した。

だがこの悲劇からの立ち直りが早かったのも横浜の力だ。 被災からわずか6日後、三溪が横浜に戻って3日後の9月7日には生糸商人を中心に「横浜貿易復興会」が誕生し、会長に三溪が就いて復活への狼煙をあげた。 震災前、明治末期の横浜は日本の貿易の65%を担っていた。 殊に生糸貿易は、日清戦争の戦費が2億円だった時代に輸出額8,700万円を誇る日本の主要産業だった。

  昭和初期のホテルニューグランド
  昭和初期のホテルニューグランド
 

震災で港湾機能が麻痺した時、三溪たちは「生糸貿易を神戸にとられるな」と発奮し、次々と対策を打った。 その一つが、明治6年の開業以来外国人商社マンたちを宿泊させていた港町のシンボル、グランドホテルの復活だった。 同ホテルの英国人経営者は被災時に圧死した。 保険金を手にした株主たちも、ホテルを再建しようという気概はない。—ならば市民の手でホテルを建てよう。

三溪は、大正14年に新市長となった有吉忠一や生糸商仲間と共に、貿易と港の復活を賭けて外国人向けホテルの建設に立ち上がった。 建設案が復興会で諮られたのが大正14年6月。 「新しいグランドホテル」の意味で、「ホテルニューグランド」と命名され、その開業は昭和2年12月。 誕生までわずか2年半という速度に、横浜がいかにホテルを渇望したかが現れている。
 

 
ワイル仕込みの味とメニューを料理人たちが全国に広める
 
  

そのホテルは外国人宿泊客を納得させるサービスと食事が満たされていなければならないのも自明だった。 三溪に初代社長を依頼された井坂孝は、腹心をパリに派遣して支配人と料理長をスカウトさせた。 その誘いによって、「パリの四ツ星級ホテル」(『ホテル・ニューグランド50年史』)の支配人だったスイス人アルフォンゾ・デュナンと当時30歳の料理長サリー・ワイルが日本にやってくる。 もちろん、ヨーロッパから見れば当時の日本は船旅で40日かかる極東の島国。 二人には大いなる冒険だったはずだ。

だがワイルは、契約どおり2年で帰国したデュナンとは対照的に、「ここはやり甲斐がある」と言って約20年間その厨房に立ち続けた。 そこから多くの料理人が育ち、彼らがワイル仕込みの味とメニューを全国各地のホテルやレストランに広めたことで、日本の西洋料理界は飛躍的な進歩を遂げる。

この時代、横浜では「この際だから」という言葉が流行ったという。 震災をバネにより新しい事にチャレンジしようという市民の気概を示す言葉だ。 ワイルもまた「この際だから」呼ばれた料理人だった。 その手元から、当時世界の料理界の王と呼ばれたオーギュスト・エスコフィエ直伝のメニューや食を楽しむ精神が紡ぎ出された時、横浜は西洋料理のメッカとなった。 食通だけでなく全国から有能な料理人も集まり、梁山泊の活況だった。

私もまた、約1世紀の時代を遡って彼らの足跡を辿ることで西洋料理史、青春群像を描くことができた。 それもまたあの時代に横浜が持っていたエネルギーと、三溪やワイルの「情熱」に触発された結果だ。 だからこそ、隣花苑での一夜が感慨深かったのだ。

昭和初期の横浜の底力。 今もその火は、港町の地中深くで埋み火として燃えている。
 


スイスに帰国後料理人のヨーロッパ研修の受け皿に
 
  

もう一つ、ワイルの業績を辿るときに忘れてはならないものがある。 それは「異文化交流の人」という側面だ。

夏の終わりに別件で指揮者の小沢征爾氏に会った折り、こんな話になった。

「僕がヨーロッパに渡ったのは、1950年代末期でした。 その頃現代美術の草間弥生さんもニューヨークへ行っています。 多くの若者があの時代に弾けるように海を渡ったんですね。」

この時50年代が話題になったのには訳がある。 西洋料理を目指す日本の料理人が初めてヨーロッパ修業に出たのも、氏の渡航と同時期、57年だったからだ。

この時代、民間人の渡航には海外在住の保証人が必要だった。 外貨持出し制限も500ドル(約18万円)。 61年に出版された小田実の『何でもみてやろう』が大ベストセラーになったのは、国民の多くが「何でも見たくても見られない」状況にあったからだ。

何故この時代に料理人が海を渡れたのか。 実はそこにこそ、ワイルの功績がある。

昭和31年、日本の司厨士協会に届いたワイルからの便りの中に、後に約30年間にわたって続く料理人のスイス研修のきっかけとなる一文があった。

「スイスに帰って友人のシェフに、もし日本から見習いを送ってよこしたら仕事をさせてくれるかと訊ねたら、いつでも受け入れるとのことです。 来春までに希望者がいたら2名くらいは語学を勉強させておいてください。」

  再来日したワイルとホテルニューグランドの料理人たち (昭和31年、ホテルニューグランドにて) テア・ネヘア氏 提供
  再来日したワイルと
ホテルニューグランドの料理人たち
(昭和31年、ホテルニューグランドにて)
テア・ネヘア氏 提供

終戦後、スイスに帰国したワイルは50歳という高齢もあってホテル等の厨房には戻れず、食材の営業マンとして糊口をしのいでいた。 その窮状を知った戦前のニューグランド育ちのワイルの弟子たちが、昭和31年、資金を出し合ってワイルに1カ月の日本旅行をプレゼント。 東京横浜だけでなく大阪や門司、博多でも厚遇を受け大感激したワイルの胸に日本とスイスの交流の火が灯る。 それが「ヨーロッパ研修の受け皿になる」という便りとなったのだ。

昭和39年の東京五輪開催が決まり、ホテル建設ブームとなっていた当時の日本では、西洋料理を志す若者が溢れていた。 けれど本場フランスに渡ろうにも、現地の厨房に知り合いがいない。 そんな事情を熟知したワイルは、若者たちを招聘する際にこんな条件を出した。 「月給は住込みで350スイスフラン。 税金60スイスフラン。 労働関係の許可もとります。」

つまり単なる「研修」ではなく、税金を払う代わりに労働証明書が取れる契約にしてくれたのだ。 もちろん、給料を貰う以上仕事は厳しい。 足手まといになれば即刻首だ。 けれど頑張って約半年働けばその店の支配人から「労働証明書(セルティフィカ)」を貰える。 これさえあれば、次の職場は自分からアプローチできる。 国境を越えてフランスに渡ることも不可能ではない。

そうやって、50年代末期から続々と若者たちがまずスイスに渡り、そこからフランスを中心にヨーロッパ各地に散って行った。

「ワイルさんには『日本的ではダメ、積極的に自分をアピールしろ、仕事ができないやつは日本に帰れ。』と厳しく教えられました。」

昭和38年、ワイルの導きでスイス・ベルンのレストランで修業を始めた今井克宏(現・静岡三鞍の山荘オーナー)は語る。 この頃スイス修業を経験した料理人は、皆言葉に悩み、異文化の習慣に苦しんだ。 時には差別や偏見とも闘わなければならなかった。 けれど、若き日に異文化の中で経験した孤独との戦いこそ、その後の料理人としての最大の財産だったと語る者は多い。

だからワイルの果たした役割は、それまで閉鎖的だった日本の料理界に世界の風を吹き込むことであり、世界標準の修業環境を整えることでもあったのだ。

「ワイルなかりせば巨木となった日本の西洋料理の樹形図は描けない。」と、拙書の書評で料理評論家・作家の宇田川悟氏が書いている。 ワイルの登場がなければ日本の西洋料理界は何十年か遅れていたと言われるのは、まさにここに理由がある。
 

 
異文化に旅発つ多くの若者の姿を見守ってきた街・横浜
 
  

隣花苑での一夜。 たまたま隣に座ったのはパリで世界的建築家、レンゾ・ピアノ氏のアトリエにもいた帰国直後の新進建築家、岡田大海さんだった。 田舎家に豊穣な音を響かせた礒さんもまた、ベルギーに学んだ経験を持つ。 今でこそ渡航スタイルも事情も様変りしたが、横浜は、異文化に旅発つ多くの若者の姿を見守ってきた街でもある。

書き手として、この歴史を語り継ぐことこそ使命。 横浜の地中に赤々と燃える火に打たれ、私もまた、ほんのりと気持ちよく上気する夜となった。
 



神山典士 (こうやまのりお)

1960年埼玉県生れ。
初代総料理長サリ−・ワイル』 講談社 1,890円(5%税込)
ひとりだちへの旅』 ラボ教育センター 1,680円(5%税込) 他。



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