Web版 有鄰

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有鄰

(題字は、武者小路実篤)
有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。


 平成18年1月1日  第458号 P1 座談会:「お台場」と江戸湾防備 (1)

○座談会 P1   「お台場」と江戸湾防備 —品川台場と神奈川台場— (1) (2) (3)
柘植信行/西川武臣/保谷徹
○特集 P4   よこはまの浦島太郎  阿諏訪青美
○人と作品 P5   逢坂剛と『暗い国境線』
○有鄰らいぶらりい P5   石原慎太郎著 『息子たちと私』永井路子著 『女帝の歴史を裏返す』長部日出雄著 『天才監督木下恵介』山本一力著 『おらんくの池』
○類書紹介 P6   「書」の魅力・・・書聖・王羲之や、漢字を受容して芸術性を高めた日本の三筆や禅僧など。



座談会


「お台場」と江戸湾防備
—品川台場と神奈川台場—
(1)

品川区立品川歴史館副館長 柘植信行
横浜開港資料館調査研究員   西川武臣
東京大学史料編纂所教授   保谷徹


左から西川武臣氏・柘植信行氏・保谷徹氏

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    はじめに
 
編集部  
  神奈川台場 (玉蘭斎橋本謙「増補再刻御開港横浜之全図」部分)
  神奈川台場 (玉蘭斎橋本謙「増補再刻御開港横浜之全図」部分) 
  横浜開港資料館 蔵
 

「お台場[だいば]」と言いますと、現在ではショッピング・モールや国際展示場、テレビ局、海浜公園などがある東京都港区台場の「お台場」がイメージに浮かびます。 しかし、「台場」という言葉は、江戸幕府が鎖国政策をとっていた18世紀中ごろから外国船が日本に到来するようになり、その防備のために幕府が建設した砲台を意味しており、江戸湾や全国各地に数多く建設されました。

本日は、「お台場」が現在どのような状況にあるかをご紹介いただき、江戸幕府の海岸防備に対する考えやその歴史、また品川台場や神奈川台場について、築造される経緯や実際の用途などをお話しいただきたいと思います。

ご出席いただきました柘植信行様は、品川区立品川歴史館副館長でいらっしゃいます。 中世史がご専攻とうかがっておりますが、かつて同館で開催された「黒船来航と品川台場」の展示も担当していらっしゃいます。

西川武臣様は、横浜開港資料館調査研究員で、近世史がご専攻です。 昨年、同館で開催されました「神奈川お台場の歴史」の展示を担当されました。

保谷徹様は、東京大学史料編纂所教授で、近世史料部に所属され幕末維新期の軍事と社会について研究していらっしゃいます。
 


  ◇「海よりのり入れば永代橋のほとりまで」
 
編集部  

お台場は日本各地の海岸に築かれましたが、特に有名なのが品川台場ですね。 現在はどういう状況なんでしょうか。
 

柘植  

人気スポットとしてのお台場の話が今ありましたけれども、そこは幕末の黒船来航を背景とした歴史のドラマが凝縮した現場でもあったわけです。

歴史的な経過に触れながら振り返りますと、当初は品川から深川の洲崎[すさき]にかけて、海上に11基の台場を連珠のように築造しようという計画でした。 実際にはまず、第一、第二、第三の台場、少しおくれて第五、第六の台場がつくられました。 もう一つ御殿山下台場という陸続きの台場、これを入れると6基が完成したわけです。

第四台場、第七台場は未完成のまま途中で工事が中止され、八番以降は未着手のまま終わりました。

そういった台場ですが、幸いに実戦に使われることもなく、戦前から戦後にかけて取り壊されたり、埋め立てにより埋没して消滅していったんです。

  第三台場 (レインボーブリッジ遊歩道から)
  第三台場
(レインボーブリッジ遊歩道から)
 

第二台場には、明治の初めに品川灯台が設置され、今、品川灯台は明治村に移築されています。 7割ぐらい完成の第四台場は、その後は造船所の敷地になり、天王洲アイルの公園に石垣の一部が残っております。

埋め立てで埋没した第一台場は、平成9年から11年に発掘調査がされました。 そのとき、台場の石垣や杭が確認されたということです。

現在は港区になりますが、第三、第六の台場2基が史跡として残され、第三台場が台場公園となっています。 隣接してレインボーブリッジができまして、臨海副都心の新しい街が生み出されて現在に至っています。
 

西川  

東京湾の中にいくつかある台場の中では、品川の2つの台場が、形として一番よく残っていると思います。
 

編集部  

神奈川台場は、今どうなっているのですか。
 

西川  

神奈川台場は石垣の一部分が地表に出ているだけで、あとは土中に埋まっている状態です。 平成14年のトレンチ調査で、土中に創建当時の石垣が、遺構としてそのまま残っている可能性があるということが確認されています。
 

編集部  

貨物線が台場の真ん中を通っていて、線路をはさんで、横浜市の中央卸売市場の中と反対側に立派な石垣が残っており、碑が建っていますね。
 


   松平定信が江戸湾防備の必要性を説く
 
編集部  

こういう台場は、どのような経緯でつくられたのでしょうか。
 

保谷  

江戸時代、鎖国下で唯一の貿易港であった長崎の警備が、お台場の発祥だと思うんですが、江戸湾防備を認識し始めるのは、松平定信の時代と言われています。

1792年にロシア使節のラックスマンが根室にやってきて、江戸での交渉をにおわせる。 その前提には、すでに蝦夷地でのロシアの南下、それに対しての危機感があります。 このときのことを松平定信は彼の自伝『宇下人言[うげのひとこと]』の中で、赤人はラックスマンを指してますが、「しかるに赤人直[じき]にも江戸に来るべしというは、江戸の入海[いりうみ]の事なり、房相二総豆州は小給所[しょうきゅうしょ]多く、城などいうものも少なく、海よりのり入れば永代橋のほとりまでは、外国の船とても入り来るべし、さればこのときに至りては、咽喉[いんこう]を経ずしてただちに腹中に入るともいうべし」という有名な言葉を書き残しています。

もし本当に江戸に来るということであれば、海がつながっているので、そのまま来てしまうではないかというわけです。 そのころから江戸湾海防が意識的に行われるようになってくる。 定信は相模と伊豆の海岸調査を行い、随行した谷文晁によって重要文化財に指定されている「公余探勝図」が描かれます。 これがその一連の時代の端緒になるのではないかと思います。
 


   ロシアの脅威などで会津藩・白河藩が江戸湾警衛の任に
 
保谷  

その後、1804年にロシアのレザノフがやってきて通商を求めますが、幕府は翌年、これを拒否します。 それに対して、1806年から7年にかけて樺太[からふと]、択捉[えとろふ]の日本側の会所等が襲撃される事件が起き、北方での緊張が高まります。

1808年には、イギリスの軍艦がオランダの国旗を掲げて長崎に侵入するというフェートン号事件がある。 そういう中で1810年に、会津藩に相模、白河藩に上総をゆだねるということで、初めて大名を動員した江戸湾警衛が始まりました。

1811年には、松前でロシアの艦長のゴローニンをつかまえて幽閉し、高田屋嘉兵衛が間に入って、1813年にゴローニンは釈放される。 こうした中で北方紛争が一段落して、幕府の措置が緩み、文政3年(1820年)、文政6年(1823年)に相次いで会津、白河藩の江戸湾警衛は浦賀奉行、代官に移されていくわけです。
 


   アヘン戦争勃発の危機感から西洋砲術を演習
 
保谷  

しかし、イギリスが資本主義の世界展開の中でアジア市場に進出し、その間も捕鯨船が日本近海に現われ、争い事がいくつか起きます。 1824年には、茨城県の大津浜にイギリスの捕鯨船員が上陸、また薩摩の宝島で食料を略奪する事件があって、文政8年(1825年)に異国船打払令が出る。

天保11年(1840年)にアヘン戦争が勃発して危機感が高まると、幕府は、長崎町年寄の高島秋帆を武蔵徳丸ヶ原(現在の高島平)に呼びつけて、西洋砲術の演習を行わせます。 そして、高島流を砲術流派の一つとして認め、奨励する一方、異国船打払令を改めて、天保13年(1842年)に薪水給与令を出します。 このとき、相模の海防を川越藩に、房総側を忍[おし]藩に命じて本格的な江戸湾の防備体制が構築されていくことになります。
 

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