Web版 有鄰

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有鄰
(題字は、武者小路実篤)

有鄰の由来・論語里仁篇の中の「徳不孤、必有隣」から。 「鄰」は「隣」と同字、仲間の意味。

平成18年4月10日  第461号  P1

○座談会 P1   西洋医学と明治の横浜 (1) (2) (3)
荒井保男/酒井シヅ/斎藤多喜夫
○特集 P4   横浜現代史のシンボル 山下公園 高村直助
○人と作品 P5   久間十義と『聖ジェームス病院』


座談会

西洋医学と明治の横浜 (1)

飯山医院院長 荒井保男
順天堂大学客員教授   酒井シヅ
横浜開港資料館・横浜都市発展記念館調査研究員   斎藤多喜夫
沢村田之助の手術の様子
沢村田之助の手術の様子 (周延画) 杉立義一氏 蔵

酒井シヅ氏 荒井保男氏 斎藤多喜夫氏
左から酒井シヅ氏・荒井保男氏・斎藤多喜夫氏
 
<画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。>


    はじめに
 
編集部  

安政6年(1859年)の横浜の開港にともない西欧のさまざまな文化が流入し、日本人の生活は大きく変化しました。

医学・医療の分野においても例外ではなく、横浜を舞台に、多くの優秀で献身的な外国人医師たちが活躍したことで、医療事情は飛躍的に向上し、その流れは現在まで続いております。

本日は、幕末明治の横浜において、日本の医療の近代化に大きく貢献した外国人医師や、新たに開設された病院などをご紹介いただきながら、西洋医学が浸透していった様子や近代医療史の中で横浜が果たした役割について、お話しいただきたいと思います。

また、4月14日から16日まで、「第103回日本内科学会総会」が、横浜みなとみらい地区の「パシフィコ横浜」で開催されますので、幅広い視野からご紹介いただきたいと存じます。

ご出席いただきました荒井保男先生は、横浜市鶴見区にございます飯山医院の院長を務めておられます。 また、横浜市立大学医学部の同窓会「倶進[ぐしん]会」の顧問でいらっしゃいます。

酒井シヅ先生は順天堂大学客員教授でいらっしゃいます。 医史学をご専攻で、日本医史学会常任理事を務めていらっしゃいます。

斎藤多喜夫先生は、横浜開港資料館、横浜都市発展記念館の調査研究員でいらっしゃいます。
 


  ◇幕末までの日本の医療は漢方が圧倒的だった
 
編集部  

開港以前は日本の医療はどういう状況だったのでしょうか。
 

酒井  

幕末までの日本の医療は漢方と西洋医学が対立したりしていますが、漢方のほうが圧倒的に多いという状況でした。 西洋医学に関しましては、長崎では直接外国人医師から学び、江戸では翻訳書から学ぶという形でした。 地方に住む医師は江戸や長崎に出たり、江戸でも蘭学が興ってきますと、江戸に行って学んだりしています。 けれども、やはり西洋医学の中心は長崎で、江戸では杉田玄白や大槻玄沢という系統の蘭学者たちによるものでした。

幕末になりますと、オランダ人のポンペが長崎で西洋医学を系統的に教える学校をつくります。 それが一つの西洋医学教育のモデルになって、それをまねたような、あるいは小さくしたようなものが各藩の医学校としてできていました。

西洋医学を本格的に学ぶまでにはまだいっていなかったんですが、それでもたくさんの人が西洋の医学のすぐれていることを学び、そしてまた実践していました。

私がおります順天堂大学は佐倉にあった順天堂という医学塾が前身です。 佐倉藩の要人の招きで佐倉に移った佐藤泰然が、天保14年(1843年)に創立しています。 医学塾は佐倉だけではなくて、いろいろな所にあるんです。

外科手術は華岡青洲が大変有名で、彼は漢蘭折衷、西洋と漢方を折衷した日本特有の形の外科ですが、佐倉では医学書をもとに西洋の技術を習得し、まったく独創的な西洋の外科をやったので、全国から大勢の学生たちが集まってくる。 そして横浜が開港する時代になってくるんです。
 


   衣・食・住とともに定着が早かった医療と宗教
 
編集部  

安政6年(1859年)に横浜が開港してすぐ、宣教師としてアメリカからヘボンが来日し、翌年には同じくアメリカ人のシモンズが居留地で開業していますね。
 

荒井  

ヘボンが来るのは早いんですよ。 開港の年の10月17日に来ますし、シモンズもそれから2週間たって来ますから、彼らはすごいなと思いますね。
 

斎藤

横浜の外国人居留地で、外国から来た文化はどのように日本人に採り入れられたか、「もののはじめ」ということを調べるときに、横浜開港資料館が集めた幕末の英字新聞を丹念に見ていったんです。 基本的に欧米人の場合は、ローカル新聞に開業広告を出すことがルールなんですね。

それで気がついたのは、医師が非常に早い時期から来日している。 横浜で一番早いのはダッガンというイギリス人で、安政6年に開業しています。 アメリカ人のベイツの開業広告は翌年ですし、オランダ人フィッシァーも非常に早く開業しています。

なぜだろうと考えてみますと、人間にとっては食べるもの、着るもの、住むものと同時に、医学も必要ですね。 それから精神の衛生を保つ意味では宗教が必要で、この五つのものが非常に早く入ってきているんです。 医療は寄港地として持つべき要素かもしれないですね。
 


   開港直後は外国人は神奈川宿に滞在
 
編集部  

外国人たちは最初は神奈川宿にいたんですね。
 

斎藤  

横浜の開港は安政5年(1858年)の日米修好通商条約で決まったんですが、そこには神奈川を開港すると書いてあったんです。

ペリーとの日米和親条約の交渉のときから、横浜が天然の良港だというのはわかっていたので、横浜も神奈川も同じ湾のうちだということで、日本側は横浜も念頭に置いて神奈川としたんですが、外国側は神奈川宿のことだと思っていた。

神奈川宿は、東海道の宿場の中では幕末には一番繁栄していた場所なんです。 ですから、そのすぐ近くに港を開いて、外国人居留地を設けるのがいいのではないか。

横浜はその湾の対岸で、当時は辺鄙な場所でしたから、そこを開放するというのは、外国人を長崎の出島のように閉じ込めて、日本人から隔離する意図があるのではないか。 出島化するという意味のデシメーションという言葉まであるくらいで、出島は監獄と呼ばれて、外国人には非常に評判が悪かったんです。

成仏寺
成仏寺 明治6年
横浜開港資料館 蔵
 

それで、開港はしたものの翌年の万延元年(1860年)2月ぐらいまで、居留地を神奈川と横浜のどちらにつくるか、ずっともめていたんです。

ところが、日本人の商人はほとんど横浜に集まっていますし、港湾施設もある。 すると、外国の商人たちは毎日、渡し船で神奈川から通勤しなければならない。 それよりも横浜に住んだほうが便利なので、ほとんどの商人は横浜に住みました。

しかし、領事館は神奈川にできましたので、商売をするわけでもない宣教師たちは、神奈川にいる状況が続いていた。 ですからヘボンも、神奈川宿の成仏寺[じょうぶつじ]に1862年の暮れまで住んでいます。
 


   ヘボンは神奈川宿に滞在中から日本人と交流
 
斎藤  

ヘボンは、神奈川宿にいるときから、若干日本人との接触があったんです。 いろいろな人とつき合っているんですけれども、早くもその段階で本多貞次郎という日本人が弟子入りしている。 これも安政6年中のことです。 それも早いなと思いました。 日本人は、もともと中国から文化を取り入れることで自分の文化を育ててきたという伝統があるので、外来のものを吸収することについてはたけているのかなと思いますし、逆に鎖国の時代は情報が限られているので、新しいもの、未知のものに対して今の我々よりもっと鋭敏だったのかもしれないですね。 非常に早い時期から学ぼうとしている。 ヘボンから目薬の製法を伝授された岸田吟香も幕末から関わっています。

それから、ヘボンたちと一緒に住んでいた、フランシス・ホールという商人の日記を読むと「ご隠居」というのが出てくるんです。 この人が神奈川宿の人で、早くからヘボンとつき合っていた。 それから伊勢から出てきた竹川竹斎という人が残した記録の中にも出てくるんです。

竹川竹斎の弟の竹口信義が横浜で商売をしようということで、「ご隠居」を通じてヘボンと接触する。 そして外国商人との交渉の通訳を頼んだりしているんです。
 


   順天堂の佐藤泰然も横浜でヘボンから多くの情報を収集
 
酒井  

順天堂の佐藤泰然は佐倉を隠居になるとすぐの文久3年(1863年)ごろ、横浜に来ています。 ヘボンとは非常に親しい関係であったことを語る手紙も残っています。 ヘボン以外にも横浜に住む外国人から得た情報を、佐倉に知らせています。 息子で、のちに駐英大使、外務大臣となる林董[はやし ただす]や、佐藤尚中の息子の百太郎をヘボン夫人の所で英語を勉強させている。 百太郎はニューヨークに行って、高橋是清と親しくなって、最初の百貨店をつくります。
 

斎藤  

佐藤組と言いましたね。

『横浜もののはじめ考』の本の後ろに人名索引をつけたんですが、ヘボンのところが一番ページ数がありました。 気象観測まで出てきます。
 


  ◇J.C.ヘボン—神奈川時代に3500人を診療
 
編集部  

ヘボンの医療活動はどのようにして始まったのでしょうか。
 

ヘボン施療所跡碑
ヘボン施療所跡碑
横浜市神奈川区 宗興寺
 
荒井  

最初は幕府の取り締まりがひどくて、なかなかできなかったんです。 ところが、眼病で横浜・戸部の弁天堂にお百度参りをしていた漁師を、目薬を一滴たらしただけで治した。 それで道が開けたんです。 それがきっかけになって、ヘボンは成仏寺の隣の宗興寺[そうこうじ]というお寺で診療することができたんです。
 

酒井  

日本って不思議ですね。 お寺に平気でキリスト教徒をポンと住まわせている。 今の世の中では宗教が違うと大騒ぎになる国もあるのに、仏教は平気でね。
 

荒井  

幕府の管轄として入れたんですけれども、入れられるほうも平気なんですね。

ヘボンは、神奈川時代に患者さんを大体3500人診たと言っています。 一番多いのは眼科の治療ですね。 目玉にしわができる翼状片の手術とか、瘢痕[はんこん]性内反の手術は30回ぐらいやっています。 それから眼球の摘出とか、白内障の手術が13回、痔ろうの手術が6回、盲腸も1回やっています。 脳水腫の手術もしたそうです。
 


   沢村田之助の脱疽の手術の成功で一躍有名に
 
荒井  

文久2年(1862年)に居留地に移って、慶応3年(1867年)には名優沢村田之助の脱疽[だっそ]の手術をやっております。 当時横浜にいた佐藤泰然の紹介があったんじゃないかと思います。

この大手術はクロロホルムを麻酔に使用しました。 いろいろな説があるんですが、クロロホルムでやったのはこのときが初めてだと言う人もいます。 その前までは華岡青洲がマンダラゲ(俗称チョウセンアサガオ)でやったくらいで、西洋医学のクロロホルムでやった例としてはかなり早かったようです。
 

酒井  

絵も残ってますね。
 

斎藤  

はい。 ただし「フランス之名医足病療治」という錦絵は、従来、このことを描いたといわれてきましたが、発行が手術をした1年前の慶応2年(1866年)3月ですので、関係ありませんね。 沢村田之助の話は、文献によってもいろいろ違うことが書いてあって、ものによっては麻酔をしないでやったとも書いてあります。
 

荒井  

ありますね。 それでけろっとしていたとかね。
 

斎藤  

そんなはずはないだろうと思います。 (笑)
 

荒井  

ない、ない。 クロロホルムでやって、たばこを一服しているうちに手術が終わったと書いてある本もあります。

その3年ほど前に、結膜炎だったと思いますが、岸田吟香が目を治してもらっている。 岸田吟香は新聞記者で、そのころ出していた『もしほ草』に、沢村田之助の手術のことを書き立てます。 岸田吟香はなかなかおもしろい男で、ヘボンのことを非常に尊敬しておりました。

ヘボンは神奈川時代には朝から晩まで働いていたんですが、彼は非常に使命感が強い人で、居留地時代になると、自分はキリスト教の宣教師として働かなければならないということで、診療は午前中だけにしてしまう。 だけど、この時代に日本の医師がいっぱい勉強に来ています。

明治9年(1876年)になりますと、彼はついに診療所を閉鎖して宣教師に専念します。 なぜこの時期かというと、自分の教え子や、日本人に優秀な人が出てきたし、シモンズもおりますから、自分はもう第一線で働かなくてもいいだろうということだろうと思います。
 

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